忘備録*20世紀初めのイランと石油にまつわるクーデター
別記事を書いていたら、すごく長くなってしまったので一部こちらに移します。
~~~***~~~♢♦♢~~~***~~~
イラン革命(1978年 - 1979年)以前のイランは、紀元前550年に建国されたペルシャ帝国が1935年にイラン帝国への改称し、王政が存続していた国でした。
「イラン」にはアーリア人の国という意味が込められているそうです。
20世紀のイラン
紀元前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し、ササーン朝時代にはゾロアスター教が国教でしたが、642年にアラブ人に滅ぼされ、イスラム教が広まりました。
16世紀初めに成立したサファビー朝がシーア派十二イマーム派を国教とし、18世紀のカージャール朝を経て、1925年からパフラヴィー朝になりました。
パフラヴィー王朝(1925年~1979年)
1921年にレザー・ハーン(イスラム教シーア派)という名のコサック師団の軍人がクーデターを起こしました。
このクーデターはイギリスの軍人エドムンド・アイアンサイド (初代アイアンサイド男爵)の助言により行われたそうです。
第一次世界大戦の終わりごろに、アルメニア・アゼルバイジャン戦争(1918年-1920年)が勃発して、イギリスはアルメニアを支援するため軍隊を派遣しました。
イギリスは、バクー(現在のアゼルバイジャン)の主要な油田と港の防衛を行っていましたが、途中でイランのバンダレ・アンザリーに撤退することになり、その後、エドムンド・アイアンサイド は北ペルシャ軍の指揮官としてイランに駐留しました。
この時代は、ロシアでレーニン主導のボリシェヴィキ(ロシア共産党)が活発になっており、エドムンド・アイアンサイドはボルシェヴィキとの対立から、レザー・ハーンのクーデターを支援したとみられています。
パフラヴィー朝初代皇帝レザー・シャー
レザー・ハーン(1944年没)は1925年の憲法制定議会によって王位(シャー)に就き、パフラヴィー王朝が設立されました。
レザー・シャーの16年間の統治の間、大規模な道路建設プロジェクトやイラン横断鉄道などの大規模な開発が行われたほか、近代的な教育が導入され、イラン初の大学であるテヘラン大学が設立されました。
シャーはまた、イランの「脱イスラム化」を押し進めるべく、女性にチャドルやヒジャブを捨てるよう奨励し、女性教師はもはや頭を覆ったまま学校に来ることはできないと発表しました。
富裕層と貧困層を問わず、すべての国民に妻を公の行事に頭を覆わずに連れてくるように命じたと言われています。
レザー・シャーの外交政策は、主にソ連とイギリスを対立させることでしたが、ドイツとは常に良好な関係にありました。
アドルフ・ヒトラーが、ドイツ人以外で「純粋なアーリア人」とみなされるのはイラン人のみである宣言したため、ドイツとイランの関係はより強固なものとなりました。
イランの石油をめぐる謀略
イランとアメリカの外交関係は1856年から始まっており、第二次世界大戦直後まで政治的・文化的な同盟国でした。
レザー・シャーは、アメリカから財政顧問官を招聘して財政改革にあたっていたそうです。しかしアメリカ合衆国とイランの親密な関係は、1950年代初に転機を迎えます。
イギリスの石油会社アングロ・ペルシャン
1901年、イランのマスジェデ・ソレイマーンで、中東で初の石油採掘が行なわれました。
当時のガージャール朝モザッファロッディーン・シャーと、イギリス系オーストラリア人のウィリアム・ダーシーとの間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権が結ばれました。
1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会(APOC・・・現在のBP社)が設立され、1912年にはトルコ人のカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社などの出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社 を立ち上げました。
ともに本社はロンドンです。
当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルは、石炭火力蒸気船の使用を中止し、代わりに船の燃料として石油を採用することで、英国海軍の近代化を目指しており、海軍の石油アクセスを確保するためアングロ・ペルシャ石油会社の利益の51%の株式を政府が購入することを議会承認させました。
英国政府とアングロ・ペルシャ石油会社の間で1913年に締結された20年間契約で、英国政府は事実上、石油会社の背後に隠れた権力者となりました。
しかし、しだいにイランでは、純利益の16% しか受け取れないダルシー石油利権とロイヤルティ条件に対する国民の反対が広まっていきました。
石油利権の条件をイランにとってより有利な条件に改定する試みは、1925年から1932年にかけて続けられましたが首尾よくはいきませんでした。
1931年、世界市場への石油供給過剰と大恐慌による経済の不安定化が重なり、イランへの年間支払額が前年の5分の1にまで激減しました。
レザー・シャーはダルシー協定の破棄を要求しましたが、英国政府はこの破棄を拒否し、アングロ・ペルシャ石油会社に代わってハーグの常設国際司法裁判所に紛争を持ち込んだため、レザー・シャーは英国の要求に屈して、1933年4月にアングロ・ペルシャ石油会社との新しい協定を結びました。
新しい契約では、イランは実際に株主に分配された一定額以上の利益の 20% を受け取ることになり、さらに年間最低 75 万ポンドの支払いが保証されました。1931年と 1932年のロイヤルティは新しい基準で再計算される一方、採掘権の期間は1961 年から1993年に延長されました。
*****
1929年から1939年にかけて起きた大恐慌は、1929年10月にウォール街の株式市場の暴落(暗黒の火曜日)にから始まりました。
この危機は、高い失業率と広範囲にわたる企業倒産を特徴とし、第2次世界大戦の遠因になりました。
1929年のウォール街大暴落と日本の昭和恐慌については以下の記事に書きました。
*****
レザー・シャーの退位
1933年に結んだ協定に基づき、アングロ・ペルシャ石油会社は労働者により良い賃金と昇進の機会を与え、学校、病院、道路、電話システムを建設することを約束しましたが、これらの約束を果たしませんでした。
第二次世界大戦が勃発すると、親ナチス・ドイツだったイランはイギリスとソ連の連合軍に侵攻されました。(イラン進駐 1941年)
レザー・シャーは、アメリカ合衆国ののフランクリン・ルーズベルト大統領(任期 1933年3月4日 – 1945年4月12日)に仲介を求めたものの拒否され、子のモハンマド・レザーに帝位を譲って退位、亡命しました。
イランは1946年まで連合国占領下に置かれました。
連合国にとってイランは戦略的に重要な地であったため、のちにウィンストン・チャーチルはイランを「勝利の橋」と呼びました。
****
レザー・シャーの息子モハンムド・シャー(1980年没)は、パフラヴィー2世と呼ば絵、日本では「パーレビ国王」と呼ばれることもあります。
モハンムドはスイスの私立寄宿学校「ル・ロゼ」へ留学し、そこで後にCIA長官となるリチャード・ヘルムズらと親しくなりました。
モハンムドの治世は、第二次世界大戦が終わって米ソ冷戦のさなかでした。
イランはアメリカの支援を受けており、ソ連や東欧諸国の影響下にならないようにしていたそうです。
****
石油国有化政策への期待
第二次世界大戦後、中東ではナショナリズムが強まりました。
イラン民族主義は、イランの石油資源を国有化する運動の決定的な力となりました。
第二次世界大戦においてイランは、ソ連とイギリスに占領され(→イラン進駐)、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続いていました。
アングロ・イラニアン石油会社(AIOC・・・アングロ・ペルシャ石油会社が1935年に改名した)はアバダンの石油を独占し利益を独占したため、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていました。
1950年12月下旬、ロックフェラーのアラビアン・アメリカン石油会社がサウジアラビアと利益を50対50で分配することに同意したという知らせがテヘランに届きました。
英国外相ハーバート・モリソンはAIOCに対して同様の合意を結ぶ考えを拒否しました。
1951年までにイラン国民は、AIOCの国有化を強く支持するようになっていました。
イランの石油労働者とその家族の状況は劣悪だったことを、当時のイラン石油研究所所長は次のように書いています。
親欧米派のアリー・ラズマラ首相は、AIOCに協力的で、イラン側が極端に不利な合意を結んだため、ファダヤン・エ・イスラム組織(原理主義)のメンバーに暗殺されていまいました。(1951年3月7日)
ファダヤン・エ・イスラム組織は、1949年に皇帝モハンマド・レザーの暗殺未遂も試みていました。
のちにこの組織は、現イラン政権のイスラム革命防衛隊に吸収されました。
1951年3月12日、イラン議会はイランの石油を国有化する投票を行い、ほぼ全会一致で石油国有化協定を承認しました。
この法案はイラン国民の大多数に支持され、巨大なナショナリズムの波を生み出しました。
ファダイヤン・エ・イスラム組織によってさらに数人の政府大臣が暗殺され、ラズマラの後任のフセイン・アラ首相は辞任しました。
国民戦線が率いる議会は、モハンマド・モサデクを首相に選出しました。
モサデク首相は、レザー・シャーに倒されたガージャール朝の縁戚にあたる名家の出身で、ソルボンヌ大学卒業を経て、スイス・ヌーシャテル大学で法学博士号を取得し、モサデク博士と呼ばれていました。
1967年に亡くなっていますが、今でもイラン国民に人気がある人物です。
CIAによるクーデター
モサデク首相は、それまでイラン国内の石油産業を独占的に支配し膨大な利益をあげてきた英国資本のAIOC(現:BP)のイラン国内の資産国有化を断行しました。アバダン危機
ところが「石油国有化政策」はイギリス、その後ろ盾のアメリカを始めとした西側諸国から猛反発を受けました。
英国はアバダン油田の生産を事実上停止し、主要な英国産品(砂糖や鉄鋼を含む)のイランへの輸出を禁止し、英国銀行のイラン外貨口座を凍結しました。イラン産石油は国際市場から締め出されてしまい、イラン政府は財政難に瀕しました。
モサデク首相は、国際石油資本に対抗するためソ連に接近。
1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連と関係を深めていったところ、CIAやMI6の支援を受けた軍によるクーデター(アジャックス作戦)でモサデク首相は失脚させられてしまいました。
英国に説得されて、CIAにイランの政権転覆を命じたのは、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領でした。
皇帝自身は当初クーデター計画に反対し、石油国有化を支持していましたが、CIAから従わなければ「退位」させると知らされ、クーデターに加わったそうです。
2013年8月に機密解除されたCIAの記録によると、テヘランで最も恐れられていたギャングの何人かが、暴動を起こすためにCIAに雇われていました。
のちにモハンマドは、英国のやり方には深い憎しみを抱いたと述べていました。
オイルショックと白色革命の失敗
チャーチルが「勝利の橋」と呼んだように、イランはロシアの南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国とアメリカの援助によって、脱イスラーム化と近代化政策を取り続けていました。
この時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディ(1963年11月22日)の積極的な支援のもと、皇帝モハンマド・レザーは、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」(王の命令による革命を意味する)を宣言し、近代改革を推し進めていました。
イスラム圏ではトルコに次いでイスラエルと国交を樹立し、イスラエルに石油を供給し、長距離ミサイルの共同開発で軍事的にも協力関係にありました。
とりわけアメリカ合衆国とは深い関係を続け、1970年代中盤には最新鋭のグラマンF-14戦闘機とボーイング747空中給油機、ボーイング747-SP旅客機を購入しました。
後にイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)を起こすことになるイラクとは、当時のサダム・フセイン副大統領と国境問題の解決と敵対関係の停止を合意しました。(アルジェ合意)
1970年代中盤に起きたオイルショックでインフレが急ピッチで進む一方で、イランでは貧富の差が拡大しました。
***余談***
オイルショックは、1970年代に2度発生しました。
第1次オイルショック(1977年3月まで)は、1973年10月6日に始まった第四次中東戦争がきっかけでした。
当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、イスラエルに対しては中立の立場でしたが、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国との関係からイスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、当時の田中角栄総理大臣は、副総理の三木武夫氏を急遽中東諸国に派遣して日本の立場を説明しました。
第2次オイルショック(1983年3月まで)は、後述するイラン革命(1978年‐1979年)がきっかけでした。
*****
オイルショックにより先進国はスタグフレーションに突入し、1971年のニクソン・ショックも合わさり、戦後世界経済の成長体制は破壊されましたが、石油輸出国のほうはオイルマネーを得て国内福祉を充実させたり、政府ファンド(ソブリン・ウエルス・ファンド)を設立したりしました。
イラン政府も金余り状態になって、アメリカから兵器を大量購入していましたが、急速に原油価格の安定化が進んだため、近代化政策に実情が伴わない事態となり白色革命は破綻し始めました。
白色革命の失敗は宗教勢力や保守勢力の反発を招き、国民のなかにはアメリカの傀儡政権であると認識するものも出て来ました。
皇帝モハンマドは、自分の意向に反対する人々を秘密警察サヴァク(SAVAKはCIAの訓練を受け、1979年まで活動していた)を使って弾圧し、イスラム教勢力を排除しました。
シーア派の指導者アヤトラ・ルーホッラー・ホメイニーは、白色革命自体には直接反対しなかったものの、皇帝モハンマドの独裁を非難したため逮捕され、1964年から1979年までパリに国外追放されています。
イラン革命とアメリカ大使館人質事件
1978年1月、亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)は、皇帝モハンマド・レザーの親欧米専制に反対して革命を起こし、近代化からイスラム化へ回帰しました。
1979年1月、モハンマドは皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、家族、側近とともにエジプトに亡命しました。
ホメイニーは、2月1日にエールフランス航空のチャーター機で帰国し、直ちにイスラム革命評議会を組織しました。
イラン革命(1978年1月 - 1979年2月)にフランスの関与があったのは疑いの余地がありません。
モハンマドはその後、癌治療の名目でアメリカに亡命しました。
ジミー・カーター大統領は、イランの新政権との間で軋轢が起きることを憂慮しましたが、モハンマドの友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け、最終的に「人道的見地」から入国を認めたと言われています。
イランの新政権は、イラン国民に対して犯したとされる犯罪について裁判を受けるためにモハンマドの帰国を要求しました。
またアメリカがその入国を認めたことに反発したイランの学生らによって、テヘランのアメリカ大使館人質事件が起きました。
事件が起こると同時に、アメリカ国内ではイランとその政府に対する大きな非難が沸き起こり、アメリカ国内にあるイラン大使館や領事館前でデモが行われたほか、在米イラン人に対する暴力事件が起こりました。
さらに、軍事的手段による人質救出作戦を行わないカーター政権に対する批判も巻き起こり、モハンマドはこの事件の発生を受けて、12月5日にアメリカを離れました。
カーター大統領は米軍に軍艦を使った救出作戦(イーグル・クロー作戦)を命じましたが、運悪く1980年4月24日の失敗によりイラン民間人1名が死亡、ヘリコプター1機が輸送機に墜落して米軍人8名が事故死しました。
さらに運が悪かったのは作戦失敗により、作戦が知られてしまい、イラン側が激怒してさらに態度を硬化してしまったことでした。
それだけででなく、5日後の4月30日にイギリスで発生したた駐英イラン大使館占拠事件が特殊部隊SASによって解決したことで、アメリカの面子は失われカーター大統領(民主党)の支持率は下落しました。
サウジアラビアやヨルダンなどイスラム諸国がイラン政府の説得を試みるも事態は膠着したままでしたが、イラン側が引き渡しを要求していたモハンマドが1980年7月27日に最終的な亡命先のカイロで死去したことで、イランがアメリカ大使館を占拠する理由が薄れていくなか、なんと9月22日にイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)が勃発しました。
アメリカはもちろんヨーロッパ諸国やソ連、中華人民共和国などはイラクを積極支援し、外交的にも完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなるほど追い詰められました。
これらの事が最終的に膠着状況にあった人質事件の解決を早める結果となったと見られています。
第2次オイルショックとイラン・イラク戦争
イラクは、オイルショックで高価になった原油の輸出で得た潤沢な資金を投じた軍備拡張で、中東最大・世界第四位の軍事大国となっていました。
サダム・フセインは、1975年にイラン皇帝だったモハンマド・レザーと結んだアルジェ合意を一方的に破棄し、イランの10の空軍基地を爆撃しました。
イランの軍備は長らく親米政権であったため、ほとんどが米国製でした。
これらを扱う技術者もアメリカ人でしたが、イラン革命の際に全員が国外退去となっており、兵器の整備や部品調達が難しくなっていました。
当時サウジアラビアに次ぐ世界第2の石油輸出国だったイラクは、オイルショックに怯える石油消費国を戦争に巻き込む戦術をとり、アメリカ、イギリス、フランスなどの西側の大国、さらに国内に多くのムスリムを抱えていたソ連や中国のような東側の大国もイランからの「イスラーム革命(イラン革命)」の波及を恐れてイラクを支援しました。
クウェートはペルシア湾対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援、資金援助のほか、軍港を提供するなどしました。
さらにイタリア、カナダ、ブラジル、南アフリカ、スイス、チェコスロバキア、チリもイラクに武器援助を行ったそうです。
***余談***
政治的にも孤立し、大量の犠牲者を出したイランは、イラクに降伏せざるを得ないという土壇場で形成が逆転しました。
イランが形勢逆転したわけは、イラクと敵対していたイスラエルが「敵の敵は味方」の方針でイランに武器を援助しており、米国製部品をイスラエルが調達する代わりに、イスラエルはイランから石油を得ていたことや、イスラム教少数派のアラウィー派が政権を握るシリアと、独自のイスラム教社会主義を掲げるリビア、共産主義で反米的な北朝鮮がイランに味方していました。
またアメリカは、1985年8月にレバノン内戦 (1975年 - 1990年)でアメリカ軍の兵士がイスラム教シーア派系過激派であるヒズボラの人質となったのを救出する為、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争で劣勢となっていたイランに対し、極秘裏に武器を輸出していました。
しかし当時のアメリカは、1979年のアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていました。
政治家や官僚、軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていました。さらにイランの敵国であるイラクとアメリカは国交があり、このことが明るみに出た場合アメリカとイラクとの外交上の問題となることは必至でした。
この時、イランと交渉していたのは、ロナルド・レーガン政権において副大統領だったパパ・ブッシュことジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)でした。
中国は、CIAが「中国はイラン最大の武器供給国だが、皮肉なことに中国最大の武器取引相手はイラクである」と報告したように、1980年から1988年までイラン最大の武器供給国であり、その裏ではイラクにはイランの2倍以上の武器を同国にも供与していました。
****
エピローグ
イラン・イラク戦争は最終的に国連の介入により停戦しましたが、アメリカは1987年10月のアーネスト・ウィル作戦での報復としてイランの2つの油田を攻撃 (Operation Nimble Archer 作戦) 。し、歴史上最大の株価暴落 (ブラックマンデー) を引き起こしました。
1989年6月、ホメイニー師が死去。イラン最高指導者の職は、アリー・ハーメネイーが継承しました。
翌1990年9月10日、イラン・イラク両国間で国交が回復しました。
ホメイニー師の死去により、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止され、後に残ったのは世界第4位の軍事大国と呼ばれるほど力をつけたイラクでした。
翌1990年、イラクは今度はクウェート侵攻を行い、湾岸戦争へと繋がりました。
イラン革命後のイランでは、女性たちはヒジャブやチャドル、頭髪を覆うスカーフと腕を隠すマントを「イスラム的な控えめの衣服」として着るよう法的に義務付けられました。
道徳警察の厳しい取り締まりがされ、2022年9月にはスカーフのつけ方を理由に逮捕された20代女性が死亡したことで抗議運動が起きました。
~~~***~~~♢♦♢~~~***~~~
長い記事になってしまいましたが、最後までお読みくださりありがとうございました。
次の記事は書ききれなかった(ちょっとヤバイことも)ことを書きます。
有料になってしまうと思いますが、よかったらそちらもご覧ください。
それではまた、近いうちに。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?