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私達は今日も生きるために美味しいご飯を食べる。

今は北の大地にいる親友は私が落ち込んでいると毎回こう言う。
「美味しいものを食べて、寝ろ」と。
聞けば、彼の兄もそういう言い回しをするらしい。
だからきっと彼の家がそういう思想なのかもしれない、とふと思う。
彼ら兄弟は料理上手で、元を辿るとそれはお父さん譲りらしいし、家族としてそういうお家なのだろう。羨ましい。
生きるためにひとまず美味しいものを食べて、寝る。それは本当に大事なことだ。心身共に壊れている時、まず身体的な安心、バランスが取れていないとやっぱり回復するものもしない、と思う。

話を少し進めて。
私達が生きていく上で「食べる」ということはとても大切な事だ。
食べなければ動けないし、いつかは死んでしまう。
その一方、だからこそ「食べる」ということが義務化してしまうこともある。何か食べなければという思いが本当に美味しいかどうかよりも大切になってしまうこともあるだろう。
自分の過去の経験から、そう思う。

私は大学二年生の時にウィダーゼリー(所謂10秒チャージのあれ)を一日3食食べていた時期がある。
友人達に苦言を呈され、前のパートナーに耳の痛い小言を言われ、色々な時間を経て、今は比較的健康的な食生活に戻れたからいいものの、当時の自分は「食べる」ということに何の魅力も感じていなかったし、生きる事、もっと言えば働く事、問題解決をすることが必死で自分の身体を大事にする能力にはさっぱり欠けていた、とそう思ったりする。
ウィダーゼリーは確かに便利だ。あれを生み出した人は褒められていい。効率的なことは間違いない。けれど、私は自分でご飯を選んで食べるという工程がなくなったことですっかり人間らしさをなくしてしまった気がしている。機械的になってしまった自分を取り戻せたのは、周りにいる人たちが健康生活をしていたおかげだ。感謝しかない。

私達は社会に生きていて、やることに追われていることが多い。
やる事の中にはやりたいこととやらなくちゃいけないこと、やるべきこと、やれば出来る事、やりたくないこと等色々ある。
何かが出来ない時、私達は少なからず自分の何かを満たせない感覚になると思う。だからなおさらに仕事を頑張ろうとしたり、勉強したり、就活したり、友人と遊んだりとする。お腹がすいていて、何とか適当にものを食べてお腹を満たしたりする。
生きていくということよりも、何かをすることが大事になって、いつの間にか「何かをするために生きる」になっていくことがある。

でも、本来はそうじゃないと思う。そうであってほしくないと思う。
「生きるために○○をする」のであって、それを逆転する時、しばしば私達は何かを背負わされてしまうのではないかと思うのだ。
私達は何かをするためではないと生きてはいけないというような事実を押し付けられかねないと思うのだ。
それは何か違う気がして、このnoteを書いている。

話は少し戻って。
ウィダーゼリーは確かに美味しい。栄養もある。だから「栄養補給」するには十分だ。
でも、「食事」になるかというと、それはまた別だと思う。
食事というのは人間としているための大事な時間だと思う。
きちんと座って、机に向かって、まあ、そこまでしなくとも、温かいものを温かいと、美味しいと思えるのはすごく大事だ。
温度や香り、味を明確に感じること、それは「刺激」ともいえるもので、それを感じられる心があるということがとても大切なのだと思う。
温かい飲み物を飲んでほっと「ああ、美味しい」と一息つけることがきっと大事なのだと思う。そのひといきを確かめる事がきっと自分が「生きている」ということを感じることなんじゃないだろうか。

このnoteを読んでくれている方、今日も生きていてくれてありがとうございます。明日も貴方が幸せな時間を過ごせますように。そうでなくても、あなたが生きるために何か美味しいものを一つでも食べられていますように。
私も生きるために美味しいご飯を食べようと思います。
今晩は何を食べようか、今から決めます笑

さて、今日も生きるために美味しいご飯が食べられますように。
私達の生きていく日々に心からの祝福あれ。


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