赤ずきんアンリトゥン
幼なじみは僕の部屋に入ると、被っていたフードを後ろに倒した。
長い黒髪がこぼれ落ち、室内に束の間、冬の断片が遊離する。
背筋を正すような冷たさは、空の色をした瞳の輝きに。
皮膚の下に隠しきれない血の赤さは、形のいい唇に。
それぞれ宿り秘められている。
――導入は、大体こんなものだろうか。
時を少し戻そう。
学校を病欠した日に、ベッドの中で過ごす長い昼は、浅い昏迷を引き起こすものだ。
暗い森を彷徨うように、夢はふらふらと、ランダムな記憶に接続する。
そして繋ぎ合わされた、整合性のない、不安を喚起するだけの悪夢は、大きく口を開けて僕を飲み込んだ。
現実の躰だけでなく、脳の中でも身動きが取れなくなりながら、僕は出会ったこともない【教授】の声を聞き分けた。
「……その血があれば……」
男の声の幻聴は、硬質なノックの音の前に、吹き散らされる。
そして、幼なじみが見舞いにやって来たところに繋がるのだ。
「気分はどう」
相変わらず、言葉少なだ。
これが感情の起伏を覆い隠す防衛機制だと、僕は識っていた。
「何かお腹に入れた方がいいわ」
彼女がサイドボードに置いた買い物袋から、経口補水液とエナジーゼリーのパウチが覗いている。
僕はやっと唇を動かした。
「背骨の芯を失ったようだ。起き上がれない」
「……そう」
幼なじみ――【御前】が前屈みになり、額に手を伸ばす。
長い黒髪が、さらさらと胸元に流れた。
ストイックな制服を窮屈そうに押し上げる胸。青いスカーフが眩しい。
――なんてことを普段考えていそうだ。
僕は布団を引き上げ、その手を躱した。
碧いほどに深い瞳が、こちらを見据える。
「マサムネは、どうしてドラゴンの着ぐるみパジャマを着ているの?」
「これ一枚で顔面と手先足先以外を全て覆えるからだよ」
【御前】は暫く沈黙した。
「マサムネは、どうしてマスクをしているの?」
「感染対策だよ」
僕だって、こんなやりとりは茶番だと思う。
けれど、相手が乗ってくれるなら、このセッションを続けたい。
「マサムネのお腹はどうして膨らんでいるの?」
良い疑問だ。
僕は布団を少し捲った。
「僕もどうして膨らんでいるか、気になっていたのだ。
殆ど充填ガスだよね。ポテトチップス」
「割れないためじゃないかしら。エアクッションを兼ねているのよ」
「それを踏まえて答えると、僕のお腹はワンクッション置くために膨らんでいる」
「お腹でなく布団が、お菓子の袋で膨らんでいたのね」
彼女は小さく息をつく。
「消化の悪い食べ物は、ほどほどにしなさい」
彼女が枕元に置いた白い手に体重がかかり、手のひらがマットレスに沈む。
僕はお菓子を取り上げられないよう、素早く毛布の中に逃げ込もうとした。
「それで――」
質問は続く。
「マサムネはどうして手袋をしているの?」
しまったと、思ったときには遅かった。寝返りの時に動きが遅れた左手を、【御前】は速やかに捉えていた。
触れあう肌の、温度差を感じながら答える。
「……何故隠すか?
文明社会において、ありのままというのは無作法だからだ。
そんな”たしなみ”を踏み越えて、境界を侵犯しようというのなら、
僕は反撃する」
「マサムネは、どんな反撃をするの?」
「君は大義を探している。
そんなもの、吹き飛ばすような」
瞬間の熟考の後、彼女が手を離す。
僕は、温もりを失う前に素早く布団に戻した。
「マサムネの目は――」
硬質な声が、あらためて名前を呼ぶ。
「どうして金色なの?」
僕は一度、瞳を伏せた。警告が通じなかったからだ。
「最近は毎日会っているのに、今、急に気になり始めたのか」
「……そうね。
別のことが、気になっているわ」
優しさなのだろう。
核心に触れる前の、最後のワンクッション。
「マサムネの目の色が変わったのではないとしたら、何が起きているのか」
「それを口にするつもりか」
「ナンセンスね。
私には、大義が不足してる」
「大義とは?」
「あなたが誰を欺こうとしてるのかの、答え」
相変わらず、真っ直ぐなことだ。
彼女の武器である弓矢のように、標的にひたむきだ。
そしてまた、当てる時にだけ射る。射るならば当てる覚悟。
「もちろん、標的は”君”だよ」
【御前】は、長い髪をさらさらと横に振った。
伝い落ちる光が揺れる。
「”マサムネ”の口はどうして嘘をつくの」
「どうしてだろうね。
本当のことを打ち明けたら、君を失うからかな」
「それは誰の話?」
「”僕”の話だよ、勿論」
毛布の縁から顔の上半分を出して、続ける。
「【僕】が具合を悪くしても、君は見舞いに来てくれないだろうから」
「コモンセンスね」
コモンセンス。常識、か。
過去を振り返れば、僕たちは対立の歴史を重ねている。無理もないことだ。
「差し入れの内容が変わるだけよ」
「?」
今日は……どうにも、頭の回転が重い。
彼女が言っていることに追いつけていないようだ。
「あなたでもお見舞いに行くわ。
病気程度で失いたくない」
「……」
「なに?」
「……」
なんだろう。胸の傷の奥が疼く。
こんな台詞を聞いてしまったなら。
最高に背徳的なことをしたくなるじゃないか。
「おふとーーーん」
「やぁ……っ!」
僕はフクロモモンガのように布団を背負い、【御前】に抱きついた。
「サイファー! これが”反撃”なら許さないから」
ついに名前が呼ばれた。幻想は終わる。
僕は、ずっと久世正宗ではなかった。
彼のベッドで眠り、彼の衣類を借り、彼の食べ物を口にしても。
この瞳は金色で、その本質は人ではない。
彼らをネズミのように実験に饗す。人類の敵。
その敵は、彼にはできないこんなこともできてしまう。
僕と彼女はもつれ合ってベッドに倒れ込んだ。
ストッキングに包まれたつま先が、足の甲をひっかく。
しかし、暴れる生き物は目を塞いで躰を包み込むと大人しくなるものだ。
「【御前】……と言うか巴くん。君が動くと、ポテトチップスの袋が弾けてしまうね」
「……! ……!」
「すると、正宗くんの寝具は取り返しがつかないくらい油と芋まみれだ」
「……。……。」
「誰によって?
そう。ほかならぬ君のせいでだ」
「卑怯者……」
温かい。僕は巴くんの頭を胸に抱きかかえて、そっと撫でた。
「この瞬間まで、正宗くんがどこにいるのか聞かないでくれてありがとう」
「サイファー……」
僕の稀な感謝に、彼女は感動したようだ。
「すでにここは多少の油とポテトの屑に汚染されているわ」
「?」
「きょとんとしても駄目。
どさくさに紛れて今開封して、過去を有耶無耶にしないで」
「朝食べたら、悪くない味だったよ。一緒にどう?」
「ここで?」
「そうだ」
「……」
「結果は同じだからと言って、暴れ直さないでくれたまえ。
実際に正宗くんも、体調を崩しているんだ」
人類の敵の敵の筆頭。
世界をまもる最後の砦である少女は、布団にくるまりながら、僕の肩越しに初めてそれを見た。
「……チャーシュー?」
赤いくちびるが、見たままの感想を零す。
「違う。
僕だって寝ながらチャーシューまでは、しゃれ込まない。
現実を受け入れたまえ。これが正宗くんだ」
「そんな……」
「寝袋に入れて、ザイルで形を整えてある」
少女は手を伸ばして寝袋をもふもふした後、呆然と僕を見つめた。
「理解したわ。
サイファー、あなたはマサムネで暖を取っていたのね」
「ご明察だ。いつもより温かくてとても良かったよ」
「その挙げ句に病気がうつった?」
「説明を完了する前に、この有様を君に見られたら、厄介だと思った」
「だからマサムネのふりをしたの?」
「見事に騙されていたね」
彼女がパジャマの襟紐を両手で引いたため、僕はきゅっと鳴いた。
「何かあったのかと思ったわ……。意味深なことをするから」
「何かはあった。僕と彼は病気だ。君には感染らない。別の共同幻想に属しているから」
「僕を……押し込めた理由に……なってない」
チャーシューが喋った。
都合よく目を覚ますな。
「動き回ってツナ缶ばかり食べようとするからだ」
「僕は……それで治る」
「僕はそれで悪化する!」
「マサムネ……あまり動かれると、私」
「そうだ。僕はついに今、最高の状態を手に入れている」
ぎゅうぎゅうのベッドで、お腹も背中も、人肌で温かい。
「お願いだ。このまま少し眠らせてくれたまえ」
ついぞ手に入らなかった、いい夢を見るために。
「私、制服のまま……」
彼女は零すが、逃げようとしても無駄だ。
「正宗くんの服を借りればいい」
「そんなこと」
少女とて、同衾に心惹かれないではあるまい。
それなのに、大義だか羞恥だかによって、無為にあらがっている。
「さあ、覚悟を決めるのだ。
温かく溶け合い、目が覚めたらお菓子を食べ散らかそう。
チョコパイもあるよ。
粉チーズを振りかけたパングラタンもいいね」
「散らからない食べ物にしてくれ!」
焦点のずれた少年の抗弁に、彼女は切迫した疑問を挟む。
「マサムネはどうして止めてくれないの?」
「それは……」
少年の瞳は、熱に溶けている。
「【御前】が、楽しそうだから」
この一言が、決定打となった。
病人とあかずきんと狼の物語は、この辺りで描写を止めよう。
最高に背徳的なこと。
ベッドで何か食べること。
眠りから覚めた頃に、僕たちはそれに興じるだろう。
「赤ずきん……狼に取り込まれてしまうとは」
この館に、微睡みを打ち破る、猟師は来ない
ねえ、だから君がいないと駄目なのだよ。
わかるだろう?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?