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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 小柳達司編

エリート街道を歩いてきたわけではないから、わかったこともある。足りないものと向き合ってきたから、気付いたこともある。それがほんの1ミリでも、ほんの1センチでも、自分を前に進ませるのであれば、常にそちらを選択してきたからこそ、今もプロサッカー選手を続けている。

「目の前のことを一生懸命やることだったり、自分に負けなかったことだったり、そういうことを自分は大切にして泥臭く、しぶとくやってきたので、これからもそういう選手でありたいと思いますし、そういう人間だというところを周りの人にも見せたいので、そこの部分はいくつになっても変えたくないですね」。

揺るぎない信念を携えて、のし上がってきた努力の男。ブラウブリッツ秋田の頑張り親分。小柳達司は自分自身も、このチームも、まだまだ成長できると信じて、今日もグラウンドへと飛び出していく。

小柳 達司(こやなぎ たつし)
1990年2月7日生、千葉県出身。
2021年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはディフェンダー。
https://twitter.com/tatsu23440
https://www.instagram.com/tatsushi33/

「みんなには『この頃のオレは良かった』みたいなものがあるじゃないですか。僕は小学校や中学校の頃はあまりそういうのがないんです」。最初に通っていたサッカースクールがチームになる時には、入れてもらうことができなかった。地元の少年団だった早稲田つつみSCでは「一生懸命やる」ことを学んだものの、むしろ陸上競技の100メートルで埼玉県大会の決勝まで進んだことの方が、よりスポットライトを浴びる経験だったことは間違いない。

「たぶん小学校の卒業文集に『Jリーガーになりたい』とは書いてあるんですけど、僕の記憶ではそんな気持ちは自分自身に感じられなかったです(笑)」。中学年代はクラブチームに入るという考えには至らず、通っていた学校のサッカー部に在籍。3年時は副キャプテンとしてチームをまとめることに腐心したが、際立った結果を残したわけではない。そんな15歳が勉強もサッカーも頑張れる、ごくごく普通の公立校への進学を目指すのは自然な流れだった。

だが、受験の結果は不合格。「今は行って良かったなとは思いますけど、当時の心境としては『じゃあ、行くか』というぐらいでした」。他に選択肢も多くはないような状況で、先に受かっていた専修大松戸高校へと入学することになる。

「最初に感じたのは『レベルが全然違うな』って。1年生の時は土のグラウンドの端の方でやりながら、終わったら“トンボ”を掛けてという感じで、3年生が卒業するまでは1回もトップチームには入れなかったですね」。それでも小柳の中には、サッカーに対する意識に明確な変化が訪れつつあった。

「中学までは中心選手でやりたいこともできて、味方に指示してみたいな感じでしたけど、高校に入ってからは、同級生で自分より試合に出ている選手の姿を見て悔しかったですし、『このままじゃダメだ』『上手くなりたい』『試合に出たい』という気持ちは初めて出てきたかなと思います」。

サッカーへより真摯に取り組み、自身の成長も感じていた3年時の夏には、小柳のその後に大きな影響を与える経験が待っていた。「高校の時のコーチが加納昌弘さんという元ヴァンフォーレ甲府の人なんですけど、その人が夏に甲府の練習参加に連れていってくれたんです。自分にとっては凄く刺激的な経験で、あれがなかったらプロを本気で目指していないですし、その後の大学の選択も変わっていたかもしれないです」。

「オミさん(山本英臣)もいましたし、大木さん(大木武・ロアッソ熊本監督)の練習が凄く楽しかったですね。全然通用していなかったと思うんですけど、スモールゲームで点を獲っただけで満足していましたし、どんどんボールに絡んで楽しくやっていましたね。その時に一緒に練習参加していたのが加藤弘堅(東京ヴェルディ)と吉田豊(名古屋グランパス)です」。プロの空気を直に味わい、高校に戻ってからの1か月は、今までのキャリアの中でも一番成長した実感があったという。

最後の高校選手権では千葉県でベスト16まで勝ち上がったが、大学にサッカー推薦で行けるような成績ではない。もともと高校の体育教師になりたいという想いはあったため、体育学部がある大学を調べ、11月から本格的に受験勉強をスタートさせる。第1志望の国立大はセンター試験こそ通過したものの、2次試験は不合格。高校の先生からは浪人を勧める声が大半を占める中で、小柳は日本体育大学への進学を決断する。

「ウチの父親も母親も『自分のやりたいことをやりなさい』と言ってくれましたし、体育教員の免許を取れることと、『4年間掛けてでも、もう1回プロを目指せるところに行きたい』ということは絶対に考えていたので、浪人せずに日体大を選びました」。この頃には自身の未来予想図へ、確実にプロサッカー選手が入ってきていたわけだ。

大学生活を大きく左右する“先輩”との出会いは、人生で初めて入った寮でのことだった。「部屋割りとしては4年生と2年生、1年生の3人部屋で、その時の2年生が岩尾憲(浦和レッズ)さんです。あの人にはかなり影響を受けましたし、今では友達みたいな感じですね。当時はいろいろなことを聞いたりとか、悩みを聞いたり、サッカーを教えてもらいましたし、岩尾さんとの出会いがなければ大学生活もあんなに充実していなかったかもしれないです」。

のちにJリーガーとなる岩尾との出会いを経て、着実にステップアップしている実感を得ていた小柳にとって、さらに自身の成長に必要不可欠だったのは、4年時に監督へ就任した鈴木政一の存在だ。ジュビロ磐田を率いてJリーグ制覇も経験している名将は、やはり凄かった。

「前半にうまく行かなくても、後半に簡単に修正してしまうんです。そういう監督には出会ってこなかったですし、みんなで鈴木さんが言っていることを表現しようとして付いていったので、全員が見違えるように成長しました。サッカーをまたイチから教えてもらって、言語化できるようになりましたし、鈴木さんとの出会いは大きいです」。

鈴木監督に率いられた日本体育大は、その年の関東大学2部リーグで優勝。それ自体も忘れられない思い出だが、とりわけ実感したのは仲間の大切さだったそうだ。「最終的に4年生は僕しかゲームに出ていなかったんですけど、それでもしっかりチームを支えてくれていましたし、そういうところに凄く感動していたので、今でも同級生と集まると楽しいですし、それぐらい充実していました。僕は受験も失敗してばかりだったので、最後の終わり方もそうですし、日体大での4年間には今でも良いイメージが残っています」。

もちろん自身のたゆまぬ努力があったとはいえ、高校も、大学も、第1志望ではなかった学校に進んだことが、結果的に自らのキャリアを切り拓いていくのだから、やはり人生はわからない。

プロを目指す過程で、実は退路を断っていたという。「それまでは『サッカーも勉強も』とか、『サッカー選手になれなかったら教員もある』とか、保険を掛けてきた部分が大きくて、そこは良さでもあり、自分の弱さだったのかなって。一応教員採用試験は夏休みに受けていましたけど、その時はどういうカテゴリーでもサッカーをやりたい気持ちはあったので、珍しく後先考えていない感じの方が強かったですね」。

年の瀬も迫った12月。ザスパクサツ群馬から加入のリリースが発表される。「誰にも言わなかった不安が取り除かれたことで、ホッとした気持ちが一番大きかったですね。心配してくれていた両親も、加納さんもそうですし、一緒に頑張ってきた4年生とか、周りの人が自分以上に喜んでくれたのも嬉しかったです」。いわゆる華やかなキャリアを持っていない叩き上げの22歳は、群馬の地でプロサッカー選手としての新たな人生を歩み出すことになる。

「なかなかないことですよね。小さい頃は“カズダンス”やってましたから(笑)」。Jリーグデビュー戦の相手は横浜FC。対峙する相手のフォワードは、日本サッカー界のレジェンドだった。「もちろんカズさんに『うわ!』と思いましたけど、実はそれどころではなくて、マツさん(松下裕樹)とかクマさん(熊林親吾)に『絶対にカズさんに決められるなよ』と言われていたので、集中して本当にやるべきことをやるしかなかったんです。でも、あの試合はパフォーマンスも良くて、1つの自信になりましたし、凄く良い思い出です」。

プロ1年目からリーグ戦27試合に出場。上々のルーキーイヤーを過ごしたように見えるが、経験豊かな先輩たちの存在が現状維持を許さなかった。「マツさんとクマさんには本当にお世話になりました。2人は厳しいことを伝えてくれましたし、それで悔しい想いもしましたけど、そういう人たちがいなかったら天狗になっていた可能性もあるので、もうちょっと調子に乗らせてもらっても良かったかもしれないですけど(笑)、凄く厳しくサッカーを教えてもらいましたね」。良い時も、悪い時も、自分にベクトルを向ける。その教えは今でも大事に心の中にとどめている。

2年目と3年目に指導を仰いだ秋葉忠宏(現・水戸ホーリーホック監督)も忘れがたい恩師の1人だ。「『これがサッカーの駆け引きなんだ』ということはアキさんに初めて教えてもらいましたね。あの2年間は順位は下の方でしたけど、やろうとしているサッカーは凄く面白かったです。人間味に溢れていますし、今も自分のことを気に掛けてくれていて、試合の時に会うと『やってるねえ。凄いよ』みたいに言ってくれますからね」。群馬で過ごした4年間は、サッカー選手を職業として続けていく上で、大事な基礎を築けた時間だった。

トライアウトを経て加入したツエーゲン金沢でも、さまざまな経験を積み重ねた。加入初年度に臨んだJ2・J3入れ替え戦では、第1戦で貴重な決勝点を記録。「重要なゴールという意味では、今までで一番大事なゴールだったと思います。どこに当たったかも覚えていないですけど(笑)、凄く興奮しましたね」と振り返る小柳はチームのJ2残留に大きく貢献してみせる。

加入3年目となった2018年シーズン。一転してなかなか試合出場が叶わなかったこの時期は、1つのターニングポイントになったそうだ。「30歳になってしまうと身体が動いていようが、まだできる選手であろうが、その年齢というイメージで判断されるところがあって、そこに差し掛かる時に試合に出られなくなったので、今まででは考えられないような危機感は凄くありました。でも、そこで自分に負けないように努力しましたし、同じように試合に出られない選手たちと一緒に切磋琢磨して、その危機感や不安にトレーニングでしっかり打ち勝つ毎日を送れた、自分と向き合う貴重な時間でしたね」。この年のシーズン途中で群馬へと期限付き移籍することになったが、前半戦の金沢で腐らずに努力したことが、後半戦の奮闘に繋がったことは語り落とせない。

2019年からの3年間はヴァンフォーレ甲府でプレーする。いわば小柳の“プロサッカー選手”への意識を変えてくれた運命のクラブ。とにかくオファーが嬉しかった。「ヴァンフォーレはフロントの人も含めて、人が大好きでした。クラブ以外の地域の人も凄く優しくて、家族も馴染んでいましたし、凄く楽しくて充実していたというか、サッカーで苦しんだ時期もありましたけど、そういうことを乗り越えて試合に出ていたこともありますし、良い時間でした」。

「ヴァンフォーレでJ1に上がりたいと真剣に思っていましたし、その力になりたいと真剣に考えていましたし、彰さんが目指すサッカーも僕には新鮮で、サッカー観も変えなければいけないところもあったので、そこに関しては凄く努力しました。サッカーが上手くなった自信もありますし、それが今に生きている部分はかなりありますね」。伊藤彰監督(現・ベガルタ仙台)の元でプレーしたことも、自身のプレーヤーとしての幅を広げてくれた。今でもクラブロゴの入った“マグカップ”を愛用するほど、甲府への感謝は尽きない。

ブラウブリッツに加わった今シーズン。水戸との試合で再会した秋葉から、こう言葉を掛けられたという。「以前アキさんが『サッカー選手は2,3年やってもアマチュア、5年でプロ、10年はリスペクト』と言っていたんですけど、この間アキさんに会った時に『もう11年になりました』と伝えたら、『おお、リスペクトだねえ』と言ってもらったんです。ただ、10年続けたからサッカー選手として偉いわけではないですし、これ以上成長できないとも思わないので、そのスタンスは変わっていないですし、変わらないでいようとは思っています」。

きっと12年目も、13年目も、小柳のやるべきことは変わらない。大事なことなので、もう一度繰り返しておこう。「目の前のことを一生懸命やることだったり、自分に負けなかったことだったり、そういうことを自分は大切にして泥臭く、しぶとくやってきたので、これからもそういう選手でありたいと思います」。

泥臭く、しぶとく、自分に負けずに、目の前のことを一生懸命やるだけ。だからこそ、この男はこれからもきっと、多くの人からリスペクトされ続けていく。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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