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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 武颯編

ずっとゴールという結果で、自らの価値を証明してきた。ストライカーならばそれだけが正解だと信じ、ひたすらに前へと突き進み、ゴールを奪い続ける。その積み重ねが未来を切り拓いていくことは、自分の歩んできた道がはっきりと教えてくれている。

「フォワードは点を獲るのが当たり前で、得点王を獲るのが当たり前という中でプレーしてきたので、自分に対する自信は変わっていないです。年々歳を取っているというのはありますし、時間が少なくなっているなという想いはありますけど、自分次第でいくらでも成り上がれるとも感じているので、もう自分にベクトルを向けて、やり続けるしかないですよね」。

いつだって、ゴールがすべて。ブラウブリッツ秋田のスペシャルなストライカー。武颯の信念が揺らぐことは、決してない。

武 颯(たけ はやて)
1995年7月17日生、神奈川県出身。
2021年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/t_h__official
https://www.instagram.com/take.hayate_official/

「『とりあえずボールを遠くに飛ばす』みたいなイメージで、幼稚園の中では一番ボールを遠くに蹴れて、勝手に自信が付いて、みたいな感じでした」。サッカーを始めた幼稚園のころから既にパワフル。小学生になると地元の六浦毎日SCでプレーしながら、並行して横浜F・マリノスの追浜スクールに通い出す。

そのセレクションが行われたのは、小学校2年生の終わりごろ。横浜F・マリノスプライマリー追浜、つまり名門のジュニアチームへ入るためのテストには、数千人の応募があった。「なんか、とりあえず人が多いなって(笑)。でも、結局最後は5人しか受からなくて、その中に選ばれたんです」。当時はただただ夢中だったが、今になってみればその合格は、自分に対する自信を最初に肯定するような出来事だったという。

「アレがなかったら、もしかしたらサッカー選手になっていなかったんじゃないかなというぐらい、自分の中では誇りに思っています。以前は『本当に必死でサッカーをやっていたらそうなっちゃった』ぐらいにしか感じていなかったんですけど、だんだん大きくなるにつれて『結構凄いことなんだ』と。今では自信になっていますね」。

プライマリー追浜では常に上の学年のチームでプレーし、6年生の時には全日本少年サッカー大会で全国3位に入る。「その大会も結構ゴールは決められましたし、『自分が一番のストライカーだ』と思ってずっとやっていました」という武は、そのまま迷うことなくジュニアユース追浜への昇格を希望。プライマリーに所属していても受けなくてはいけないセレクションに臨み、ここでも合格を勝ち獲ってみせる。

当時はF・マリノスの黄金期。そのユニフォームを自分も纏っていることが、とにかく誇らしかった。「何回も日産スタジアムに試合を見に行きましたし、アカデミーの選手はボールパーソンもやらせてもらえるので、そこに立つことが夢というか、目標でした。当時は同じフォワードの久保竜彦さんが憧れで、ポジションは違いましたけど松田直樹さんも好きだったので、背番号は9番と3番が好きでした。フォワードが3番を付けることはないんですけど(笑)」。

中学3年生の夏の全国大会、日本クラブユース選手権(U-15)大会では再び3位となり、自身も得点王に輝いたが、それもあくまで1つの通過点。「嬉しかったですけど、『全国大会の得点王を獲るのはマストだ』と思っていました。ちょっとビッグマウスみたいな感じで言われちゃうんですけど、まったくそんな感じはなくて、プロになってからもチーム内得点王はずっと継続していますし、それを目標にずっとやっている感じですね」。さらっと言い切る力強いフレーズが頼もしい。

ユースへ昇格するためにも、もちろん“関門”が待っていた。全国得点王の武も例外なくセレクションを受け、3度目の合格を手繰り寄せる。「ジュニアユースの頃には『マリノスデー』というのがあって、追浜、みなとみらい、新子安と各チームで試合する対抗戦が一番盛り上がりますし、もうバチバチなんです。だから、それぞれのジュニアユースから集まって、ユースで一緒になった時はライバル意識もあるんですけど、『オレら、良く生き残ったな』という感じはありましたね。海外みたいに1年1年で生き残れるかどうかという経験もできたことは、良かったなと今でも思います」。

高校3年生の夏の全国大会、日本クラブユース選手権(U-18)大会で、チームはとうとう日本一の座に就く。「やっぱりプライマリーもジュニアユースも3位で、もう残るは1位になるしかないと思っていたので、『やっと獲れた』という感じでしたね」。ただ、決勝は無得点のままで途中交代を命じられ、自分と代わって出場した選手が2ゴールを奪い、優勝の立役者に。ストライカーの心中は複雑だった。

「当時はメッチャ悔しかったです。優勝して嬉しかったですけど、半分は嬉しくないみたいな(笑)。やっぱり自分がゴールを決めて勝つことが正解だと思っていたので、心からは喜べなかったかもしれないですね」。まさに生粋の点取り屋のマインドが、武のキャリアを貫き続けていることは、このエピソードからも窺える。

F・マリノスへのトップ昇格は叶わず、早稲田大学へと進学。「昇格できないことを伝えられた時は、素直に受け入れるしかなかったですね。でも、『ああ、じゃあまた戻ってきてやろう』とも思いましたし、逆に『戻れるけど、戻らないという選択肢も面白いな』と。そこでスイッチが入ったのも間違いないです」。だが、その入った“スイッチ”は、思っていたような軌跡を描くための装置になってくれない。

「自分では1年生からバリバリ試合に出ることを想像していたので、『大学はそんなに甘くないんだな』と感じながら結構もがきましたね。練習ではゴールも決めていましたし、やれている感じはあったんですけど、監督の信頼を得るには時間が掛かりました」。当時の監督が上級生を重用する傾向があった中で、1年時のリーグ戦出場は1試合もなく、さらに12月には左足内側靭帯断裂という重傷を負ってしまう。

ここからの武は、ケガとの戦いに苦しめられる。「靭帯断裂は手術をしないで、保存療法で治すという方向だったので、まず半年ぐらいはサッカーができない状況でしたし、それが2年生の夏まで掛かったのに、その後で右足の半月板を傷めて、また3か月ぐらい離脱したんです。そこから復帰したら、また半月板を損傷して、さらに軟骨のケガもやっているので……」。大学3年生までで奪ったリーグ戦でのゴールはゼロ。ボールを蹴ることすらままならない日々の中で、少しずつ備えていたはずの自信も萎んでいく。

「『オレ、プロになれないかも……』という感じももちろんありましたし、何回かはサッカーをやめたくなりましたね。上手くコンディションが上がらなかった時期も長くて、パフォーマンスが最大限に発揮できないところもあったので、本当に苦しい時期だったと思います」。それでも自分を支えていたのは、自分自身に対する期待と信念、そして目標や夢への執念だった。

「やっぱり信念というか、執念だったと思います。『サッカー選手になりたい』『マリノスに戻りたい』『今はオレより活躍しているヤツらを見返したい』『日本代表に入りたい』と。そういう目標や夢を叶えてやるという気持ちが、ずっとありましたから」。

大学最後の1年は、充実の年となった。前年に2部降格を味わっていたチームは、その2部で優勝を果たして1部へと復帰。武も15得点を積み上げ、リーグ得点王を獲得するなど、改めてその能力を多くの人に見せ付ける。

「4年生の1年間は充実していました。でも、『この1年間で結果を出さないと、サッカー選手としても終わる』と思っていましたし、3年間はずっとケガし続けていたので、『ケガだけしないように』と。その両方と戦いながら本当に頑張れたことが良かったです」。試合にさえ出られれば、結果は残せる。再び自信を取り戻せたという意味でも、武をサッカーの世界に繋ぎ止めた、この華麗なる“復活劇”は語り落とせない。

2018年。プロキャリアのスタートは、J3リーグで戦っている福島ユナイテッドFCからだった。「最初にOKをもらったのが福島ユナイテッドだったんです。実際にマリノスにも練習参加していて、もちろん環境の違いはあって、正直『ここでいいのかな?』とは思いましたけど、他のチームからの正式なオファーはなかったですし、『ここから1年1年ステップアップしていくしかないな』と思えたので、『ここで頑張ろう』と決めました」。

22歳で足を踏み入れたプロの世界。武は思い切った行動に出る。「監督の田坂(和昭)さんに『オレはJ1に行きたいので、J1で活躍するためにどういうことが必要かという基準で僕のことを見て、いろいろな物事を伝えてください』と最初に言ったんです。大卒と言っても若くはないですし、18歳でプロになっている人からはもう4年遅れているわけで、しかもJ3からのスタートと考えたら、本当に時間がないと思っていたので、それを言わないという選択肢がなかったですね。恥ずかしがっている場合ではないと。もう必死でした」。

日本代表選手としての経験もある田坂監督の丁寧な指導の元、ルーキーイヤーはリーグ戦で8ゴールを記録。上々の数字のように思えるが、貪欲なストライカーがそう簡単に満足するはずもない。「二桁得点が目標だったので、『あと2ゴール届かなかったな』という悔しい気持ちもありましたね。シュート数と決定機を考えると、ちゃんと決めていれば20点は獲れていたので、もうちょっと獲らないとなという感覚はありました」。

プロ2年目の2019年は、リーグ戦で15得点と一気にブレイク。カターレ富山へと移籍した2020年も10得点を叩き出し、2シーズン続けて二桁得点をマーク。J3屈指のストライカーへと成長を遂げた武には、思い出に残っている試合があるという。富山の選手として、福島のホームスタジアムに凱旋し、ゴールを挙げた一戦だ。

「僕は古巣相手に結構点を獲るんですよね。だから、あの時も『ああ、こういう時に獲っちゃうんだよな』と思っていました(笑)。でも、福島のサポーターは本当に温かくて、『移籍先でも頑張ってよ』『ウチのホームでもゴールを見せてよ』ぐらいの感じだったと思っているので、『これだけ成長していますよ』というところも皆さんに見せられたことは良かったかなって」。プロサッカー選手への扉を開いてくれた福島を取り巻く人々への感謝を、今でも忘れていないことは、あえて言うまでもないだろう。

武がブラウブリッツへ加わったのは昨シーズンのこと。初めての挑戦となったJ2でチームトップとなる7ゴールを重ねたものの、その数字を振り返る言葉は、もう容易に想像が付くのではないだろうか。

「今までやってきたサッカー人生の中でも、一番フォワードの仕事量は多いので、その中で7点獲れたことは良かったですけど、結局は二桁得点まで届いていないので、悔しい気持ちはありますし、もっともっと獲れる所はあったので、もっともっと獲らないといけなかったですね。それにコンスタントにスタメン出場することもできなかったですし、今も継続してスタメンでは出られていないので、まだまだ自分のプレーの幅を広げなくてはと思っています」。

この7月で27歳になった。さまざまな経験を得て、さまざまな苦労を味わってきたけれど、アグレッシブにゴールへと向かう姿勢は、きっと今でも小学生の頃のまま。そして、描き続けている未来も、やはり小学生の頃のままだ。

「自分の夢はまず今年でちゃんと二桁得点を決めて、J1でプレーできる選手になることです。そこで活躍して、リーグ優勝して、W杯のような世界的な大会に出場できるような日本代表の選手になりたいですし、ゆくゆくは海外で活躍することも、もちろん目標にはあります。そこを目指して今はやっていますね」。

夢を見ることは、誰にでもできる。ただ、夢を持ち続けることは、おそらく誰にでもできることではない。何度も現実を突き付けられ、何度も心が折れそうになっても、両手で大事に大事に抱えてきたそれが、絶対に叶わないなんて誰が言えるだろうか。清々しいまでに真っすぐな夢。ゴールという、唯一にして最大の仕事を積み重ねた先にある未来は、武が諦めない限りは確かな輪郭を伴って、ずっとずっと視界の先で輝きを放っているはずだ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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