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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 茂平編

不思議と乗るはずだった電車は、いつも目の前でドアが閉まり、発車していってしまう。だが、その次に来た電車に飛び乗ると、多少の遠回りをしながらも、必ず望んだ目的地の近くまでは連れて行ってくれた。そこから先は、いつだって自分次第。

「もうちょっと苦労せずにここまで来たかったですけど(笑)、それはやっぱり自分の実力でそうなっているわけで、いろいろ遠回りしながらも着実に成長しているのは確かなので、これからも1年1年成長して、『いい選手になっているな』と思われて、なおかつ上にもっと上がっていければいいかなと思いますね」。ブラウブリッツ秋田の切り込み隊長。茂平は自分の歩んできた道の正しさを、自分でちゃんと証明し続けてきたのだ。

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茂 平(しげ たいら)
1993年4月14日生、長崎県出身。
2020年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/Tr0414
https://www.instagram.com/tairashige/

長崎県大村市出身。地元のキックスFCで小学校1年生からサッカーを始めると、とにかくドリブルを磨くチームスタイルもあって、ボールに触りまくる毎日を送るようになる。県選抜やナショナルトレセンにも呼ばれるような実力を有し、中学生になっても成長を続ける茂を、周囲が放っておくはずがない。2年生の時には、あるJクラブのユースへ練習参加する機会を与えられるようになるが、そこで衝撃の出会いが待っていた。

「あるサッカーフェスティバルに呼ばれて、初めてそのユースで出た試合の対戦相手に、宇佐美(貴史)選手がいたんですよ。もう上手すぎて『何だ、この人?』と思って(笑)。それが中学の時は一番の衝撃でしたね。長崎とか九州ぐらいしか知らなかったので、『日本には凄い人がいるんだな』と思いました」。14歳で知った宇佐美貴史のインパクトは、今でも忘れられないという。

その後も数回に渡る練習参加を経て、すっかり茂も前述のユースチームに入れるものだと思っていたにもかかわらず、結果的に合格の通知は届かなかった。これが乗り損ねた電車の“1本目”。新たな進路を模索する中で、同じキックスFCの大先輩に当たる梅崎司がプレーしていた大分トリニータU-18が浮上。梅崎の在籍時に彼の指導に当たっていたスタッフもいたことでトントン拍子に話が進み、大分へと単身で勝負しに行くこととなった。

トリニータはトップチームとU-18が、隣のグラウンドで練習する環境にある。そこでも、新たな衝撃を与えてくれるスーパースターが茂の前に現れた。「たまたまトップがゲームをやっているのを見ていたら、(清武)弘嗣くんがキーパーからボールを受けて、全員抜いてゴールを決めたんですよ。それがカッコよすぎて、『自分もプロになりたい!』と改めて思いました。その時は弘嗣くんのことも全然知らなくて、そのプレーを見た後に、お父さんに電話しましたもん。『スゲー上手い人いる』って(笑)。本当に憧れていましたね」。16歳で知った清武弘嗣のインパクトは、プロの凄さを痛感させられる1つのきっかけだった。

とにかくフィジカルを鍛えた1年生の時期を経て、少しずつ試合に出始めたのが2年生の頃。3年生に進級すると、春先から3人のチームメイトとともにトップチームの練習へ帯同し続ける。「午前中はトップの練習に行って、学校にちょっと顔を出して、午後はフリーみたいな感じで、U-18の練習に行っていないんですよね」。

同級生の為田大貴はいち早く昇格を決めており、茂もそこに続くものだと思っていたが、予想外の現実を突き付けられる。夏過ぎにトップ昇格を告げられたのは、後藤優介ただ1人だった。「とにかく泣きました。寮の部屋に帰って、ボーッとして、現実を受け止められないみたいな感じで。プロになるために3年間やってきたので、それがダメになったとわかって、凄く落ち込みましたね」。茂は“2本目”の電車も、乗車直前で扉を閉ざされてしまう。

大学はユースの監督の母校ということもあり、立命館大学に進学。プロに行くような先輩の振る舞いも間近で学びつつ、関西選抜、全日本選抜と学年を追うごとにステップアップを果たしながら、確かな実力を纏っていく。4年時にはユニバーシアードに臨むチームで活動を重ね、最終的に本大会の出場は叶わなかったものの、レベルの高い仲間と切磋琢磨することで、自信も付けていた茂には、J1のクラブから練習参加を要請される。

「全日本に入ったから、J1に絶対行けると思っていたんですよ。『もうJ1以外の練習参加には行きたくないです』とか監督に言っていて、完全に天狗になっていましたね」。しかし、茂を評価していた監督の退任が決まり、徐々に風向きが怪しくなると、肝心の獲得のオファーは最後まで届かない。“3本目”の電車も、無情に茂の前を通り過ぎて行った。

「年が明けてからJ1以外のチームの練習に行き始めたんですけど、どこも枠が埋まっているからということになって、オファーも行くところもなくなったんです。でも、プロに行けなかった時のために大学の単位を残していたので、就活浪人して、半年で単位を取って、新卒でどこかの企業を受けようかなと思っていました」。“3本目”の後には、もう社会人としての日々が待っている。茂のサッカーキャリアはほとんど閉ざされていたはず、だった。

就職活動への決意を固めつつあったある日、1本の連絡が入る。「サッカーをやめてしまうのはもったいないから、是非ウチに来てくれないか」。JFLに所属する奈良クラブのGMを務めていた矢部次郎が、その才能を高く評価して、声を掛けたのだ。

熟考の末に決断する。「ラストチャンスというか、『最後に腹を決めてやってみようか』と。ズルズルやってもしょうがないので、1年でちゃんと結果を残せなかったら終わり、という感じでした」。1年だけ。覚悟を決めた茂は、奈良クラブでサッカーを続ける決断を下す。

結果から言えば、リーグ戦で15ゴールを叩き出し、ベストイレブンと新人王を受賞。シーズンオフにはギラヴァンツ北九州からのオファーに応え、晴れてJリーガーに。茂は“1年だけ”の賭けに勝ったのだ。ただ、今から振り返ってもこの1年が彼のキャリアにもたらした影響は、とてつもなく大きなものだった。

「みんな凄く前向きに、ストイックにサッカーへ取り組んでいるので、本当に刺激だらけでしたね。アレを経験できたのは大きかったなと思います。練習は午前中だったので、午後にケアとかトレーニングとかしたいと思うんですけど、仕事があるからできないじゃないですか。でも、環境を言い訳にせず、それぞれ時間を見つけて、仕事の後やどこか空いた時間にやったりしていたので、『自分の時間の作り方と熱意さえあればやっていけるんだな』と思いました」。

「あとは山田卓也さんがいたのが一番大きかったです。あの人がいなかったら、1年でプロには行けていなかったと思います。タクさんにいろいろ話をしてもらって、決意が固まった感じですね。本当に熱い人ですし、面白い人で、僕は新人なのに家の前まで車で迎えに来てくれて、『茂、着いたぞ』『すみません!行きます!』みたいな。送り迎え付きでゴハンに行っていました(笑)」。大事な人との出会いも、“1年だけ”がもたらしてくれた貴重な財産だ。

実は秋田にも、自ら退路を断って勝負をしに来ていたそうだ。「僕のプラン的には『J3で2年ぐらいやったら、J2に行けるかな』と思っていたんですけど、北九州ではJ3で3年間プレーしていたので、もう何年もやっていてもしょうがないと思って、奥さんに『もうあと2年でJ2に行けなかったらやめるから、一緒に秋田に来てくれ』と言って、J2へのラストチャンスという気持ちでここに来ました」。勝負の結末はわざわざ言うまでもないだろう。

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これほどまでに、遠回りを遠回りにさせないキャリアを歩んできた人も、珍しいのではないか。何回も、何回も、望んだ電車に乗り遅れながら、最後は自分の乗った電車にしっかりとした意味を持たせてきた。だからこそ、まだ自分の辿り着くべき目的地に終わりは見えていない。

「『J1でプレーしたいな』という想いは凄くありますね。それは奈良クラブにいた時からずっと思っていましたし、そのために着実に上がってきた感じですから。それこそ半年で人生が変わるような世界なので、1試合1試合無駄にせずに、自分のできることをやるというのがJ1に行くための一番の近道なのかなと思いますね」。

夢を見ることは、誰にでも与えられている権利である。だが、夢を叶えるためには、おそらくそこに責任と覚悟が必要になってくる。それを彼が携えているかどうかは、ブラウブリッツの左サイドを見れば、誰もが理解するはずだ。「1試合1試合無駄にせずに、自分のできることをやるというのがJ1に行くための一番の近道」。茂平が言うのなら、きっとそうに違いない。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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