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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 水谷拓磨編

初めてJリーグのピッチに解き放たれたのは、まだ高校3年生だった18歳の夏のこと。それから9年が経ち、酸いも甘いも嚙み分けてきたからこそ、日常へ真摯に取り組むことの大事さは十二分に理解している。だって1本のパスが、1本のシュートが、人生を左右するかもしれないのだから。

「若い頃に比べれば、より一層責任感は出てきていますね。自分のプレー1つが勝ち負けを左右するかもしれないですし、昇格できるかできないかが決まるかもしれないので、毎試合本当に緊張感を持ってやっていくことが、自分のここからの人生において重要になっていくんじゃないかなと思っています」。

サッカー王国が育んだ、上手くて走れるブラウブリッツのサイドアタッカー。水谷拓磨が披露するハイクオリティのプレーには、ずっと感じ続けてきたサッカーの楽しさと、ずっと向き合い続けてきたサッカーの難しさが、過不足なく溶け合って、滲んでいる。

水谷 拓磨(みずたに たくま)
1996年4月24日生、静岡県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/tm_0424
https://www.instagram.com/takuma_mizutani17/

その少年は小学校4年生の頃、同じ城北サッカースポーツ少年団のチームメイトになった。まさかそれからずっと同じチームでプレーし、一緒のタイミングでプロサッカー選手になるなんて、もちろんこの時の彼らは知る由もない。「通っていた小学校は違うんですけど、北川は違うチームから“移籍”みたいな感じで城北に入って、そこから一緒にやっていましたね。北川との切磋琢磨や競争は常にあったのかなと思います」。水谷に“北川”と呼ばれる男の正体は北川航也。日本代表も経験し、現在も清水エスパルスでプレーするストライカーである。

のちのJリーガー2人を揃えた城北SSSは、県内でも強豪の地位を築いていたという。「僕らの代はどの大会もベスト4に入るチームでした。6年生の最後のNTTカップは県で優勝しましたね」。静岡を制してしまったというのだから、チームのレベルは推して知るべしだろう。

中学進学時には、2つ年上の兄も入っていた清水エスパルスのジュニアユースのセレクションを受験。ただ、小学生時代も週に1回のスクールに通っていたオレンジ軍団からは、既に興味を持たれていたようだ。「あとあと母親に聞いたら、小6の時にはオファーみたいなものがあったらしいんですけど、そんなことはまったく知らなかったです(笑)」。結果的に見事セレクションを通過し、晴れて水谷は兄とチームメイトになった。

その悔しさは、今でも覚えている。まだジュニアユースに入ったばかりの頃。気付けばその2人は練習にいなかった。「集合した時にアイツらだけいなくて、『アレ、何で?』と思ったら、『2人は中2の試合に行ってるよ』と。北川と宮本航汰はそっちに行ったのに、自分は行けなくてメチャメチャ悔しかったことは覚えています。そのあとの練習はちゃんとしましたけど、心のモヤモヤはありました」。水谷と北川と宮本航汰。のちに“新・清水三羽烏”と呼ばれる3人の中でも、とりわけ水谷は決して順風満帆にエスパルスでのキャリアを築き始めたわけではなかったようだ。

ジュニアユース時代には、その後のサッカーキャリアを左右するコンバートがあった。「中1の時にサイドハーフをやっていたら怒られて、直後にサイドバックをやったんです。それが思いのほか良くて、コンバートされたんですよね。ターニングポイントはそこでした。最初は嫌だったんですけど、それが結果的にプロになったきっかけでもあるので、そのコンバートをしてくれた横山(貴之)さんには感謝しています」。“サイドバック水谷”を誕生させた横山の慧眼には、恐れ入るばかりだ。

高校年代最高峰のリーグとして知られる、高円宮杯プレミアリーグ。水谷は中学校3年生の時にデビューを果たしているが、初スタメンに指名されたホームゲームは、“水谷家”にとっても忘れられない1試合になった。

「ちょうどその試合は右サイドバックが自分で、右サイドハーフが兄だったんですけど、ハーフウェーライン付近から自分がFKを蹴って、そのこぼれを兄が決めたんですよね」。兄弟の連携でゴールを生み出すとは、何とも親孝行なプレゼントではないか。

ユースへと昇格を果たし、1年生からレギュラーを確保していたサイドバックには、目指すべき舞台があった。「僕の2個上の先輩の石毛(秀樹)(現・ガンバ大阪)くんがU-17のW杯に行っていて、僕も自分の世代の代表に入っていたので、『そのW杯のメンバーに入らなかったら、トップ昇格はないんだろうな』と自分の中で思っていましたし、1つの目標としてメチャメチャ意識していました」。

年代別代表へとコンスタントに呼ばれるにつれて、自然とその責任感は増していく。「最初の遠征では、『ああ、日本代表のユニフォームってこれなんだ』と思ってウキウキしましたけど、だんだんと代表のユニフォームを着る重みも実感しましたし、特にU-17W杯の1次予選と最終予選は国を背負う覚悟が自分の中でも凄かったです」。

アジア最終予選の準々決勝。相手はシリア。勝てばW杯出場、負ければ敗退という痺れるシチュエーションの一戦を「あの時は鳥肌が凄かったですね。普段ミスをしない場面でミスしたり、ボールを受けることも怖かったです」と振り返る水谷は、それでも自らのFKで先制点に絡むと、チームも2-1で勝利。日本は世界への切符を逞しく手繰り寄せる。

挑んだFIFA U-17W杯。水谷はグループステージ2戦目のベネズエラ戦でスタメン起用されると、続くチュニジア戦でアシストも記録。「『ああ、オレはW杯のピッチに立っているんだ』と思いましたし、『W杯の舞台ってこういうことなんだ』と改めて実感させられましたね」。世界の雰囲気を堂々とピッチで味わったが、最後は意外な結末が待ち受けていた。

「ラウンド16のスウェーデン戦の2,3日前に体調を崩して、『ただの熱かな』と思っていたのに、検査したらインフルエンザに罹っていたんです。それで僕が寝込んでいたら、(宮原)和也(現・東京ヴェルディ)くんがホテルの部屋のドアをバーンと開けて、『ごめん!負けた!』って。W杯の舞台を経験できたことは凄くプラスになりましたけど、その一方で最後に体調不良になって大会が終わってしまったことに対して、凄く悔いが残りました」。その無念は察して余りある。ホテルのベッドの上で、水谷のW杯は幕を閉じる格好となった。

3年生の夏。その電話は唐突に鳴った。「家にいた時に大榎さんから電話が掛かってきて、『拓磨。今度のFC東京戦、メンバーに入れるから』と言われて、『ハイ?』って(笑)」。クラブユース選手権の全国大会が終わった直後。ユースの監督から、トップチームの監督へと立場が変わったばかりの大榎克己は、ジュニアユース時代からその特徴をよく知る水谷を、いきなりJ1のリーグ戦でベンチに座らせる。

Jリーグデビュー戦は8月の終わり。アウェイのサガン鳥栖戦だった。「(大前)元紀(現・南葛SC)くんが点を決めて逆転したんですけど、左サイドバックの僕が相手に股抜きされて、クロスを上げられて失点したんです。その時にノヴァ(ノヴァコヴィッチ)がキレていた覚えはありますね(笑)」。

このシーズンはJ1で6試合に出場したが、まだ2種登録の高校生だったこともあり、ある意味で怖いもの知らずの強みがあった。「試合のたびに嬉しくて、ワクワクしていて、のびのびやれていたような気がしますね。自分が上手くプレーできれば、みんなとうまく絡めれば、という感じでした」。北川、宮本、そして水谷の3人はトップチームへと昇格。前述したように“新・清水三羽烏”と称された彼らは、大きな希望を胸にJリーガーとしての人生に足を踏み入れていく。

「やっぱりプロの世界は甘くないなと。高3の時とプロ1年目は全く違いました。先輩やコーチから要求されるものも多くなって、ボールを受けるのが怖いと思った時期もありましたし、全部ミスして相手ボールになって、先輩に怒られたりして、ビビっていましたね。自分にはメンタルも技術も度胸も、凄く足りなかったかなと思います」。

中学3年の時も、高校3年の時も、“飛び級”で自分を引き上げてくれた大榎監督がシーズン途中で退任すると、以降はベンチメンバーにすらまったく入らない。プロ1年目のJ1出場は5試合。高3の時より数字も減少し、次のシーズンも状況は変わらないどころか、より悪くなっているようにさえ思えた。

「当時は紅白戦にも絡めない状況で、その横でシュート練習したりという時期がずっと続いた中で、自分でも『このままじゃダメだな』と思って、その時に強化部長をやっていた伊達(倫央)さんに『移籍を考えているんですけど』と話したら、『拓磨、ちょうど今治からオファーが来ているんだ』と言われたんですよね」。

その年のFC今治が所属していたのは四国リーグ。ただ、指揮官がU-17W杯に出場した時の日本代表を率いていた吉武博文監督だったこともあり、水谷はプロ2年目のシーズン途中で期限付き移籍を決断する。

「プロ契約をしていた選手は数人だったと思います。働いていた人も多かったですし、当たり前のことが当たり前ではなくて、『ああ、ウエアは自分で洗濯するんだ』とか(笑)。1人暮らしでしたし、清水の時は練習が終わったら昼食が出ますけど、今治は自分たちで食べに行ったりとか、更衣室も中高生が使うような場所だったので、そこのギャップは凄かったですね」。

チームはその年にJFLへと昇格するが、決してコンスタントに試合に出ていたわけではなかった水谷は、清水へ戻れると思っていたという。だが、クラブの判断は期限付き移籍の延長。プロ3年目も今治でプレーすることになったものの、メンバー外が続いていた時に、ある人から改めて現実を突き付けられる。

「試合に絡めなかった時に、当時のGKコーチの藤原(寿徳)さんとランニングしながら『どうしたらいいですかね?』と悩みをぶつけたんです。でも、藤原さんの言葉が自分の求めていたものと全然違って、『今のオマエは出られなくて当然だと思うよ。独りよがりにやっているから。チームのためにやることが自分に繋がるんだ』と。それを言われてから吹っ切れて、チームのために、勝利のために、がむしゃらに練習に取り組んでいたら、メンバーに入るようになったんですよね」。四国リーグとJFLで1年半を過ごした今治での日々は、水谷のキャリアの中でも重要な時間となった。

清水に帰還したプロ4年目も、立ち位置は厳しいものだった。「やっと清水でプレーできると思いましたけど、キャンプに行く前に鎖骨を骨折して、2,3か月遅れてのスタートだったので、最初は紅白戦にも絡めず、ユース上がりの選手にも序列で負けていましたからね」。そんな水谷に訪れたターニングポイントは“3本目の紅白戦”だった。

「ある時に2本あった練習試合には出られなかったんですけど、紅白戦みたいな感じであった“3本目”で僕が1得点1アシストしたんですよ。それまでの僕は左サイドバックの3番手だったのに、その紅白戦をきっかけに序列が逆転して、リーグ戦でベンチに入って、J1にも3試合出られたんです。シーズン前に強化部長から『一番下だ』と言われたところから、監督に認められるところまで行ったんですよね。あの年は僕の中でもかなり努力した1年だった気がします」。

翌2019年シーズンに契約満了を迎えた清水での5年間を、水谷はこう振り返っている。「かけがえのない時間でしたけど、自分の中ではバリバリJリーグに出ていることを想像していたのに、ずっとベンチ外で試合を上から見ている時間が長くて、悔しい5年間でした。理想と現実は違っていて、本当に悔しかったですし、『エスパルスの力になれなかったな』と思いました」。きっとプロサッカー選手として生きていくということは、現実と向き合うことの繰り返しなのだろう。

新天地は、信州の地に決まった。「トライアウトを受けようか迷っていたら、その前にパルセイロからオファーが来たんです。強化部長の東海林(秀明)さんがわざわざ静岡まで来てくれて、『君はプレーをピッチで表現しないといけない。ここからまた上に行ってほしい』という想いを伝えられたので、その熱意が決め手でした。カテゴリーはJ3に下がりましたけど、『新しいチームでもう1回頑張ろう』と思ったんですよね」。AC長野パルセイロで、水谷はリスタートを切ることになる。

今でも思い出すのはパルセイロでの1年目。昇格に限りなく手が掛かっていたシーズンだ。「最終戦に勝てば昇格だったんですけど、僕らが0-2で負けて、相模原が勝って、昇格を逃したんです。あの時は言葉にならなかったですね。頭が真っ白になりました」。在籍した3シーズンの中では、結果的に最もJ2に近付いた年だった

あるいは消えてもおかしくなかったサッカーへの意欲を再燃させてくれた、パルセイロへの感謝は尽きない。「パルセイロでの3年間の経験がなかったら、今もどうなっていたかわからないですし、パルセイロが拾ってくれたおかげで今の自分があると思っています。クラブのためにJ2へ昇格させようと、そこに貢献しようと思って、必死にやっていた3年でしたね。1人のプロサッカー選手としてまた復活させてもらったクラブとサポーターには本当に感謝しています」。

2023年6月28日。今シーズンからブラウブリッツ秋田でプレーしている水谷にとって、特別な日がやってくる。「自分が秋田に来た理由の1つとして、清水がJ2に落ちてきたこともあって、『清水との試合だけは絶対に出たい』という想いがありました」。J2第21節。舞台はIAIスタジアム日本平。相手はもちろん、清水エスパルスだ。

「不思議な感覚でしたね。『自分もこのチームにいたんだな』って。相手は自分が育ててもらったチームだったわけで、特別な感情になりましたし、だからこそ負けたくない気持ちは大きかったです」。オレンジ色のユニフォームを目の前に、ブラウブリッツの一員としてキックオフの笛を聞く。ホーム側のベンチには北川と宮本の姿もあった。

「試合はメチャメチャキツかったです。基本的にずっと攻められていて、少ないチャンスをモノにして、何とかみんなで身体を張って、みんなで守り切っての勝利だったので、試合終了のホイッスルが鳴った瞬間は素直に嬉しかったですね。やり切った感はありました。倒れそうでしたもん(笑)」。1-0。水谷はかつてのホームスタジアムで、勝利の感触を噛み締めていた。

「いったんロッカールームに戻ってから、スタジアムを一周して挨拶しました。エスパルスのサポーターの皆さんがまだ僕のことを覚えてくれていて、温かい拍手も、温かい言葉ももらって、本当に嬉しかったです。それこそゴール裏のサポーターの皆さんに挨拶した時には凄い拍手ももらって、改めて清水のサポーターの皆さんに育ててもらったんだなという実感もありました。日本平に戻ってこられて、あのピッチでプレーできて、本当に良かったです。忘れられないですね。あの光景と、あの雰囲気は」。

古巣との再会を経て、水谷はある感覚を味わったという。「『エスパルスを見返したい』とは1ミリたりとも思っていなくて、ブラウブリッツの選手として勝利したい気持ちの方が大きかったんです。それはああいう形でエスパルスを退団したことは悔しかったですけど、チームに貢献できなかった自分のせいですし、むしろエスパルスにはジュニアユースから育ててもらった感謝の方が強いので、自分の中では『このブラウブリッツというチームのために絶対勝ってやろう』という想いの方が強かったんですよね」。

もう過去にこだわる気持ちは微塵もない。清水でも、今治でも、長野でも、その歩みはゆっくりだったかもしれないけれど、確実に前へ、前へと進んできた。そして今は、ブラウブリッツというチームのために、自分のすべてを注ぎ込む覚悟は定まっている。「今はこのブラウブリッツ秋田の順位を少しでも上げていくことと、自分のレベルを少しでも上げていくことしか考えていないです」。

プロ9年目の27歳。サッカーとともに生きる喜びを知っている水谷のキャリアは、まだまだここからが“いいところ”だ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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