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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 阿部海大編

嬉しいことも、悔しいことも、辛いことも、楽しいことも、それはプロサッカー選手としてのキャリアを構築する上で、いずれも欠かせないことだったのだと、今の自分ならよくわかる。それぞれの時々で“点”のように思えた出来事は、すべて“線”で結ばれていたのだ。

「意味のないようなことでも意味はあったというか、すべてが繋がっているなって。コーチに言われた言葉も、その時はわからなくても、あとになって意味がわかったり、その時は何も思わなかったことが、あとで振り返ると大事だったこともメチャメチャあります。だからこそ、もっと日頃からそういうアンテナを張っていくことも、ここからさらにもう一歩も二歩も成長していくために必要なことだと思いますね」。

目の前の試合に出ることをひたすら渇望してきた、ブラウブリッツ秋田のポジティブ系センターバック。阿部海大はサッカーを楽しむということの意味を、縁もゆかりもなかった秋田の地で実感し直している。

阿部 海大(あべ かいと)
1999年9月18日生、大分県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に期限付き移籍にて加入。
ポジションはディフェンダー。
https://www.instagram.com/kaitoabe_/

「港町で、城下町のような雰囲気もあるんですけど、学校を卒業したら漁師になる人も多い地域で、自分の親も漁師なんです」という地元は大分県杵築市。『ドラゴンボール』の孫悟空に憧れて空手に通っていた阿部少年は、小学校に入るといつの間にか昼休みが終わっても教室へ帰らず、近くの田んぼでボールを追い掛けてしまうほどサッカーへ夢中になる。

初めて入ったチーム、きつきFCでのポジションは「バリバリ点を獲って喜んでいました」というフォワード。県トレセンにも入るほどの才能は持ち合わせていたものの、中学進学時には大分トリニータのジュニアユースに入るためのセレクションは受けず、県内の強豪クラブとして知られるスマイス・セレソンへと加入する。

結果的にこの選択は、正解だった。「自分たちの代は大分県では無敗で、トリニータのジュニアユースにも勝っていましたね。それこそトリニータのセレクションを落ちてスマイスに来る子もいたので、試合の時はお互いにバチバチにやっていました(笑)」。チームとしての成果も出た上に、自身にとって大きな“変化”があったのも、中学時代だった。

「2年の途中でセンターバックの先輩がケガで試合に出られなくなった時に、自分は背も高かったので『1回センターバックをやってみろ』みたいな感じになって、それが良い感触だったので、そのままセンターバックになりました」。当時は攻撃的なポジションでプレーしていたが、なかなか公式戦の出場は叶わなかったため、素直にコンバートも受け入れたそうだ。

自分の中でもすぐに手応えはあった。「東福岡高校に行って、高校生と練習試合をやったことがあったんですけど、その時に相手のフォワードを抑える経験ができたので、何となく良い感触は持ってプレーは続けていました。インターセプトしたら相手ゴールまで行くみたいな感じのこともやっていましたね(笑)」。

そのコンバートも含めて、スマイス・セレソンでの3年間が阿部にとって大切な時間だったことに疑いの余地はない。「ポジションも変わった中で、今もこうやってセンターバックをしていますし、今から振り返ると出られなかった時期も、自分の中でも大事な時期だったと思います。あと、スマイスはフットサル場で練習するので、狭いコートでプレーする中で足元の技術も上がりましたし、そういう部分でも次に繋がる3年間でした」。

もともとは鹿児島城西高校に進学するつもりだったという。「自分が3年生になってすぐに、鹿児島城西のスカウトの人から『良いセンターバックがウチの中学にいるから、ソイツとコンビを組ませたい』とずっとオファーをもらっていて、実際に練習にも行きましたし、ほとんど決まりかけていたんです」。だが、土壇場で東福岡高校からも阿部に練習参加の打診が届く。

「それこそ自分が練習に行った時は中島賢星(現・奈良クラブ)さんや増山朝陽(現・V・ファーレン長崎)さんの代で、レベルもとにかく高かったですし、そういう高校から評価されたことが自分の自信にも繋がって、『ここでやりたい』という想いが強くなったんです」。前述したように、中学時代も試合会場として訪れたことがあった親近感も相まって、鹿児島城西には丁重に断りを入れ、福岡の名門校の門を叩く。

入学直後からトップチームの遠征にも帯同。1年生ながらプレミアリーグの登録メンバーにも選ばれるなど、「『結構やれるんだ』という印象が強かったですね」とその頃を振り返る阿部だったが、夏前にはプロ入り後にも悩まされることになるグロインペイン症候群を発症。3か月近い戦線離脱を余儀なくされた。

さらに高校選手権も、大会直前に第五中足骨の骨折でメンバー入りを逃してしまう。この年の東福岡はインターハイも高校選手権も日本一に輝き、夏冬二冠を達成。「手術したあとは入院していたので、選手権はそのまま実家で『自分も来年は絶対にここに出てやる』という想いで見ていました」。1年生の1年間はケガの記憶ばかりが残っている。

2年生の高校選手権は阿部海大という名前を大きくアピールする舞台になる。「やってやろうという気持ちが強くて、試合に入ってみても自分のプレーができていたので、リズムにも乗れましたし、そこまで緊張した覚えはないですね」という初戦の東邦高校戦に1-0で競り勝つと、続く3回戦で対峙したのはまさに“因縁の相手”、鹿児島城西だった。

「この試合はメチャメチャモチベーションが高かったですね。セットプレーのマークで自分はアイツじゃない選手の担当だったんですけど、自分でコーチやキーパーに『付かせてくれ』とお願いして付くぐらい燃えていました」。

“アイツ”とは鹿児島城西のセンターバックであり、現在はレノファ山口FCでプレーする生駒仁。前述の同校スカウトが『良いセンターバックがウチの中学にいるから、ソイツとコンビを組ませたい』と話していた、“ソイツ”がまさに生駒だったのだ。結果は3-0で快勝。「スカウトの方からは『やっぱさすがやね。城西に来ておけよ』と言われました(笑)」。この試合が自分で決断した進路の正しさを図らずも証明するような、忘れられない一戦になったことは言うまでもない。

準々決勝では東海大仰星高校にワンチャンスを決められ、0-1で敗退を突き付けられたが、大会優秀選手にも選出された阿部は、直後に行われたU-17日本代表のスペイン遠征メンバーに招集。初めて世代のトップランカーと過ごした時間は、確実に目線をより上げるきっかけになったという。

チームの結果という意味で、最高学年となった3年時も望んだものを手に入れることはできなかった。インターハイは2回戦で青森山田高校に敗れ、高校選手権も2回戦で富山第一高校相手に、後半アディショナルタイムの失点で0-1と屈する。

「富一戦は最後に自分のマークから失点したので、もうその時は何も考えられなかったですね。今でもあのシーンは覚えていますし、あそこで負けるとは思っていなかったので、メチャメチャ泣いていました。東福岡に行った理由も自分で試合に出て日本一を獲るためでしたから」。

だが、自分で決めた進路選択に後悔はまったくない。「ケガもあって試合に出られない時期もありましたし、日本一を狙うチームにとっては負けられない試合がたくさんありましたけど、そういう緊張感の中で試合をやっていくことは、プロサッカー選手としてやっていく中でも大事な時期でしたし、本当に東福岡の走りはキツかったので(笑)、あれがあったから今でもあまりケガはしないような、こういうタフな身体になれたかなと思います」。仲間と積み重ねた3年間は、きっと日本一と同じぐらい大きな、大きな財産だ。

そのチームはどこよりも早く自分に興味を持ってくれていた。「2年生の選手権が終わった直後ぐらいから『毎回同じ人が見に来ているな』とはわかっていましたけど、まさか自分を見に来てくれているとは思っていなくて。それが岡山のスカウトの西原(誉志)さんでした。それで練習参加したのが5月ぐらいで、その時のプレーを評価していただいて、すぐにオファーをして下さったんです」。

「岡山の人は、みんなが練習参加している高校生の自分も受け入れようとしてくれていたので、『凄く温かいチームだな』と思いましたし、東福岡の先輩の篠原(弘次郎)(現・松本山雅FC)さんや近藤(徹志)さんもいて、ゴハンにも連れて行ってくれたので、良い印象しかなかったです」。他のチームの練習に行くこともなく、夏過ぎには決断する。阿部はファジアーノ岡山でプロサッカー選手になった。

予感はあったという。「キャンプの2試合目の練習試合でサンフレッチェ広島とやった時に、スタメンになりそうなグループで出させてもらって、『ここで絶対に掴んでやろう』という想いはありましたし、そこで実際に良いパフォーマンスができたので、『これは絶対に行ける』と思っていました」。まだ高校を卒業したばかりの18歳は、いきなり開幕戦のスタメンに指名され、フル出場で勝利に貢献すると、第2節では早くも初ゴールまで奪ってしまう。

「でき過ぎていましたね。『オレ、持ってるわ』と思っていました。高校を卒業したばかりで、プロとは何かも全然わかっていなかったですし、サポーターの方からもちやほやされて、調子に乗っていたかなと」。年代別代表の海外遠征でリーグ戦の数試合を欠場し、帰国後もしばらくは起用されていたが、5月を過ぎるとベンチにすら入れなくなっていく。

「出られない試合が続いても、何となく『いつかは出られるだろう』という甘い気持ちはありましたし、その状況を深く考えていなかったというか、1試合1試合の重みをまだわかっていなかったですね」。そんな阿部のメンタルを見抜いていたのは、当時の監督とコーチだった長澤徹(現・京都サンガF.C. ヘッドコーチ)と戸田光洋(現・川崎フロンターレ コーチ)だ。

「その頃は自分にもプライドがあったのか、言われたことに対してすぐに反抗的な態度を取ってしまって、そのたびに『そういうのはいらないんだ』ということは、常に徹さんにもミツさん(戸田コーチ)にも言われていました。ミツさんとはサッカーノートでやり取りしていて、『こういう意識で取り組んだ方がいい』『矢印は自分に向けろ』とアドバイスをもらいましたし、徹さんはメチャメチャ厳しかったです。今は試合で会った時に挨拶に行くと凄く優しいんですけど、もうその時はマジで怖かったです(笑)」。

今になってみれば、このルーキーイヤーの1年間はキャリア形成の上でも、とにかく重要な時間だった。「徹さんとミツさんは『プロとしてどうあるべきか』ということを、常に自分に訴えかけてくれた監督とコーチでした。それを考えることはサッカー選手として長くやっていく上でも、もっと上に行くためにも必要なことで、本当に大事な時期だったと思います」。この頃に散りばめられていた“点”は、しっかりと今の自分の中で“線”を結んでいる。

翌年は指揮官も有馬賢二監督(現・サンフレッチェ広島 コーチ)に変わり、飛躍を誓ってシーズンに入ったものの、再びグロインペイン症候群に見舞われてしまう。「ここから自分の立ち位置を掴んでいこうという時にケガをして、治りかけても復帰したらまた痛みが出てきて、プロに入ってこの時期が一番と言えるぐらい辛かったです」。実に8か月近い時間を先の見えない治療に費やすことになる。

この時期の支えは、ベテラン選手たちの優しさだった。「それこそ同じ時にリハビリをやっていた後藤圭太(現・大阪信愛学院大学サッカー部 監督)さんとか、ベテランの人たちからも『これを乗り越えることでまた選手としても強くなれるし、上に行ける』ということは言われていたので、もうその言葉をずっと信じてリハビリをやっていました」。プロ2年目のリーグ戦出場はゼロ。さらに3年目は新型コロナウイルスの影響で、シーズン自体が長期の中断を強いられる。

2020年11月25日。シティライトスタジアム。約2年ぶりとなる復帰戦のピッチに、阿部は立っていた。「本当にたくさんの人に支えられていたので、ピッチに立った喜びはありましたね。久々の試合という嬉しさもありましたけど、それこそプロに入って初めてぐらいに緊張しました」。試合には敗れたとはいえ、痺れるような緊張感に包まれている感覚が、不思議と心地良かった。

プロ5年目となった昨シーズン。決して満足の行くような出場機会は得られなかったが、本人にとっては今までのキャリアの中でも最も多くのことを学んだ1年だったようだ。

「プロになって初めて昇格を争うシーズンを経験して、上に行くチームはどういうチーム状況で、これぐらい勝っていけばこの順位にいるとか、こういうことがあったからチームが上向きになったとか、そういうことを1年通して経験できたことは、凄く自分の中でポジティブでした」。その中でも同じセンターバックの“先輩”が貫いていた姿勢は、阿部にとっても常に勉強になるものだった。

「(濱田)水輝くんは凄いんです。日々の態度とかプレーを見ていても、本当にブレないですし、去年はあの選手がいたことで、苦しい時もチームが立て直せたと思っていて、それがどれだけ価値があるかということを近くで見られたので、学ぶものも多かったなと。尊敬できる選手の1人です」。濱田とは今でも連絡を取り合い、さまざまなアドバイスをもらっているという。

初めての移籍は、即決だった。「ケガから復帰して2、3年経ちましたけど、なかなかシーズンを通して試合に出ることができなくて、少し環境を変えてプレーしてみたかったですし、もっと試合で経験を積む時期だとも思っていたので、オファーをもらった時点で自分の中では決まっていました」。今シーズンから期限付き移籍でブラウブリッツへと加わっている。

第18節終了時点で、阿部は17試合にフル出場。契約上の理由で出場できなかった岡山戦を除くすべての試合で、最終ラインのど真ん中にそびえ立っている。「試合に出続けることで感じられる課題を、試合で解決できることは凄くありがたいことで、こういうプレーはもっと自信を持ってやっていいんだとか、こういうプレーはやめた方がいいとか、試合に出ないと感じられないたくさんのことを、今は感じられているので、移籍してきて良かったなと思います。本当に充実していますね」。

何よりも、まるでサッカーを始めた少年時代のような感覚を味わえている。「今はメチャメチャ楽しいですね。もちろん僕たちは勝つためにやっているんですけど、その前にサッカーを楽しむことは本当に大事だなって。それだけで出てくるアイデアもありますし、今はサッカーを楽しめているなと思います」。

町田戦は値千金のゴールで勝利に貢献。ピッチにヘッドスライディングし、喜んだ。

きっと夢中でボールを追い掛けていたあの頃の田んぼも、今も必死に駆け回っている綺麗な芝生のグラウンドも、大きくは変わらない。サッカーを楽しむ気持ちがある限り、阿部が立っている場所は、いつだってこの世界の中心であり続けていく。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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