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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 輪笠祐士編

ずっと一番下から這い上がってきた自負がある。常にギリギリで滑り込んだグループの中で、必ずと言っていいほど自分の真摯な姿勢で信頼を勝ち獲り、チームの勝利に貢献してきた。なぜなら、とにかくサッカーが好きだからだ。「小さい頃からたくさんサッカーの試合を見てきたので、サッカー観や戦術眼が養われたというか、たくさんサッカーに関わってきたことで、本当にいろいろなポジションもできるようになった部分はあると思います」。ブラウブリッツ秋田を支えるマルチプレーヤー。輪笠祐士は今までも、これからも、サッカーとともに生きていく。

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輪笠 祐士(わかさ ゆうじ)
1996年2月9日生、東京都出身。
2020年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/wakarm10bar8
https://www.instagram.com/wakasa_yuji/

3つ上の兄の影響もあって、既に幼稚園の年中でボールを蹴り始めていた。小学生になっても、当然のようにサッカーチームに入る。ポジションがあってないようなピッチでも、自分の中では“フォワード気取り”。当時はイングランド代表のマイケル・オーウェンに憧れていたという。

小学校入学と同時に通っていた東京ヴェルディのスクールで、5年生からはスペシャルクラスに選抜される。そこではのちの日本代表選手が、いつもボールと戯れていた。「中島翔哉選手は、スクールにもとにかく混ざってきていましたね(笑)。そのあとにジュニアの練習があるんですけど、グラウンドに早く来て『入れてください』って。完全なサッカー小僧でした。結構一緒にやっていた記憶はあります」。

ただ、何度か受けていたジュニアのセレクションには合格できず、地域選抜の練習会や試合でチームメイトになった選手たちからは、常にそのレベルの高さを突き付けられていたこともあり、「だいたい自分と周りの実力もわかっていましたし、ジュニアユースはヴェルディを受ける気にならなかったんですよね」とのこと。選んだのはヴェルディにとって永遠の“ライバル”、FC東京のU-15むさし。100倍近い倍率の選考を潜り抜け、緑ではなく、青赤のユニフォームに袖を通す。

中学生時代は「サッカーを本当に教わった3年間」だった。周囲よりかなり体格が小さかったがゆえに、考えてプレーする習慣が身に付いていった。「本当に身体が小さかったので、練習試合だと『ツータッチ以下でプレーしろ』と言われていましたし、そのために何が必要かというアドバイスをもらって、ファーストタッチをどこに置くか、ツータッチでやるためには何が必要かとか、判断のスピードで勝負する部分が磨かれたというか、今でもあの時が一番上手かったのかなというぐらい、自分の中では凄く考えてサッカーをやっていましたね」。徹底的に叩き込まれた個人戦術は、今でも自分の大きな武器になっている。

サッカーを思考する習慣は、家庭環境の影響もあったそうだ。「父がサッカーを凄く見ていて、僕も小1ぐらいからレアル・マドリーの試合はほとんど全部見ていました。朝5時に起きてライブで見るような生活をしていたので、そこでサッカー観が磨かれたのかなと思います。中田英寿選手のパルマの試合とか、小野伸二選手のフェイエノールトの試合とか、兄と父と本当に毎週楽しみに見ていたのを覚えています。小学校の頃は同級生も誰も見ていないので、コーチと話したりしていた感じですね」。世界最高峰のレベルに触れつつ、膨らませたイメージをピッチで試す日々が、輪笠少年の成長をより促していった。

高校生時代は昇格したFC東京U-18でプレー。ここでも一番下から這い上がる決意を固めていたものの、1年生から公式戦の出場機会を得たが、その冬に大きな転機が訪れる。「ある日の朝、起きたらなぜか腰が痛くて立てなかったんです。最初はずっと原因がわからなくて、何回MRIを撮ってもダメで、いろいろ病院を変えながら、3か月後ぐらいにやっとわかったのが“腰椎分離症”でした」。

半年近く強いられた、ボールを蹴ることのできない毎日。だが、結果的にこの時間がサッカーキャリアの中でも、重要な意味を持つことになる。「そこで体幹トレーニングや筋トレに目覚めました(笑)。同じジムを使っているトップチームの選手もみんなフランクに話しかけてくれて、トップチームのトレーナーにも診てもらえたり、環境としては最高の状況でリハビリができたんです」。

「そのタイミングで成長期も来て、身体も大きくなる時に凄くトレーニングができたので、それが本当に転機でしたね。それまではがむしゃらに走っても、絶対に身体で負けていたので、なかなか守備で貢献はできなくて、サイドハーフをやりながらハードワークの部分で戦うしかなかったんですけど、復帰してからはボールを取れるようになっていて、それで守備が楽しいと思えるようになっていきましたし、ボランチもできるようになった感じですね」。今にも続くボランチ・輪笠祐士の誕生である。

進学した日本体育大学では、なんと2年時にゲームキャプテンを任される。輪笠にその大役を言い渡した監督は、今シーズンのJ2でもブラウブリッツと対峙したジュビロの指揮官だ。「(鈴木)政一さんにどういう意図があったかわからないですけど、周りからも『何で2年がキャプテンやってんだ?』って聞かれたりして(笑)。でも、チームを引っ張らないといけないんだという責任感も持ちながら、チームも勝ち続けられたので、自分としても自信になりましたね。やっぱりキャプテンマークを巻くことで変わりますし、凄くコミュニケーションを取りながら、先輩にも自分が言いたいことを言えるようになりました」。

今季のJ2リーグ第13節。かつての恩師が率いるチームに、輪笠はゴールを叩き込んでみせる。「アレは気持ち良かったですね。試合後に挨拶に行ったら、ゴールについては触れてこなかったので、悔しかったのかなと思って(笑)。でも、『元気そうな姿を見られて良かった』とは言ってもらえて、それは嬉しかったです」。こういう“再会”が実現するのも、サッカーの魅力の1つであることは言うまでもない。

人生の岐路に立たされる大学4年生。輪笠が抱き続けてきたプロサッカー選手になるという夢は、遠ざかりつつあった。「大学では1年生から試合に出られたので、プロになるための逆算をして、しっかり筋道を立ててやっていましたし、自分に自信も持っていたんですけど、結局“選抜”に入れなかったんです。人より目立つ部分がなかなか出せなくて、チームとしては必要だけど、個人で見るとどうなのかという部分が凄くあって、そういう派手さやダイナミックさは今でも課題なんですけど、その中でプロはちょっと難しいのかなと」。

周囲からはプロへの挑戦を勧める声も多かったが、大学でキャリアに区切りを付けようという想いが大きくなり、資格取得のための勉強もスタートさせていった中で、夏過ぎに輪笠へJ3の福島ユナイテッドFCから練習参加のオファーが届く。「自分の中では『ここで終わりなのかな』という心構えだったので、『まあ、行くだけ行ってみようかな』と」。

やっぱり、サッカーは楽しかった。「1週間だけの練習参加だったんですけど、『ああ、こんなやれるんだ』と。これまでも自分はずっと這い上がってきたので、『また這い上がれるんじゃないか』という手応えもありましたし、純粋にサッカーも楽しかったんです。それで練習参加が終わったタイミングで『ウチに来てほしい』という話ももらって、『これはやっぱりやりたいな』という気持ちに変わっていって」。

「それまでお世話になった指導者の方や親もそうですけど『全然やれるよ』『もっとやって欲しい』と話してもらえても、自分の中でなかなか揺らがなかったものが、自分でプレーして『ああ、やれるんだ』という気持ちになったことで、そのままの勢いで決めちゃった感じですね」。これだけ情熱を注ぎこんできたサッカーから、簡単に離れられるわけがない。福島ユナイテッドで2年。ブラウブリッツで1年。J3で地道に経験を積み重ね、今シーズンからはJ2の舞台で躍動を続けている。

初めて挑戦するステージは、試行錯誤の繰り返しだ。だからこそ、情熱の指揮官の存在が、輪笠のチャレンジする気持ちを力強く後押ししてくれているという。

「自分絡みの失点もありますし、まだまだ実力が足りないことを今年は特に感じます。でも、試合後に悔しそうにしていると、(吉田)謙さんが『やっぱりJ2、楽しいな』『これでまた強くなれるよ』というような声掛けをしてくれるので、『そうだよな』って。この経験を絶対に生かそうと、同じミスを繰り返さないようにと、とにかく前向きな気持ちになれるので、謙さんの働きかけは本当にありがたいです。尊敬できる人ですし、ポジティブに選手たちの背中を押してくれるので、良い監督だなって凄く思います」。

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這い上がってきたからこそ、今がある。諦めなかったからこそ、このピッチで戦えている。そして一度は離れかけたからこそ、その大事さは誰よりもよくわかっている。

「今までもそうですけど、このままじゃサッカーをやれなくなってしまうという危機感は常に持ってやっていますし、まずは今いる場所で結果を残さないと、プロとしてやっていく機会もなくなってしまうので、もっともっと試合に出て、もっともっと目に見える結果を出さないとなって思っています」。

小学生の早朝。眠い目をこすりながら、必死に見つめていたテレビ画面の中の選手たちのように、今は自らが小さい子供たちへ夢を与える立場になった。彼らのために。秋田のために。何より、自分を信じてくれたみんなのために。輪笠祐士は今までも、これからも、サッカーとともに生きていく。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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