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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 藤山智史編

悩んでも、迷っても、最後はサッカー選手としての決断を、自分で下してきた。もっと成長したい。もっと上手くなりたい。すべての理由は、それだけだ。

「まだ全然足りないです。まだまだ成長しないといけないと思っていますし、得点やアシストをもっともっとできる選手になりたいですし、試合によっていろいろな課題が出てきて、そこを毎回突き詰めていくので、完璧になるのは100年後ぐらいになるのかもしれないですね」。

ブラウブリッツ秋田きってのハードワーカー。藤山智史は“100年後”であっても、きっと次に自分がやるべきことを探しているに違いない。

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藤山 智史(ふじやま ともふみ)
1994年4月23日生、三重県出身。
2017年、ブラウブリッツ秋田に加入。
一度クラブを離れ、2021年7月に再び加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/SoccerTreasure
https://www.instagram.com/t.fujiyama.0423/

出身は忍者の里として知られる三重県上野市。幼稚園の年中からサッカースクールでボールを蹴り始め、小学生になると地元のふたばサッカースポーツ少年団に入団。「家の駐車場で親とも、1人でも、友達ともボールを蹴っていた記憶があります」。今にも続くサッカー三昧の日々がスタートする。

中学時代はやはり地元の伊賀FCジュニアユースでプレー。小中と三重県トレセンにも選ばれていた藤山は、いくつかの選択肢から県内きっての強豪校への進学を決断する。「伊賀FCから行っている人も何人かいたのと、僕は選手権に出たかったので、『選手権に出場するならこの高校しかない』と思って選びました」。四日市中央工業高校。日本一にも輝いた経験を持つ名門だ。

実は入学してみると、現在の“チームメイト”が在籍していたそうだ。「(谷奥)健四郎くんですね。高校の時は怖いイメージしかないです。1回だけブチ切れられたことがあって、それをこっちに来た時に言ったんですけど、まったく覚えていなかったです。僕からしたら苦い思い出ですけど(笑)」。3年生と1年生。関係性は容易に想像できる。

転機は唐突に訪れた。2年生になったタイミングで、藤山はポジション変更を余儀なくされる。「入学してからずっとボランチかサイドハーフをやっていたのに、2年生の時に新チーム初めての試合で、いきなりサイドバックになったんです。『え?オレがサイドバック?』という違和感があったんですけど、そこからずっと2年はサイドバックをやっていましたね」。

結果として、このコンバートは大成功だった。左サイドバックの定位置を掴むと、1年を通じてレギュラーとして活躍。そして、シーズンの最後には「過去の中でも一番と言っていいぐらいの経験をさせてもらいました」と自ら振り返る大舞台が待っていた。

憧れていた高校選手権。一戦一戦勝ち上がっていった四日市中央工業は、何と決勝へと進出する。会場は国立競技場。高校サッカーを志す者なら、誰もが夢見るスタジアムだ。「言葉で言うのは難しいんですけど、自分が経験した試合の中で観客数も一番多くて、あの雰囲気は他で味わったことがないですし、ワールドカップみたいなものだと思います。自分でもまさかあそこまで行けるというのは想像していなかったので」。

43,884人の大観衆が見つめる国立のピッチ。開始早々の前半1分。藤山の同級生でもあり、現在は日本代表にも選ばれている浅野拓磨が先制ゴールを奪うと、以降は市立船橋高校の攻撃を凌ぎ続ける。1点をリードしたまま、試合は後半のアディショナルタイムへ。しかし、悪夢が待っていた。

「本当に優勝を掴みかけていたので、一瞬のスキでやられたのは悔しかったですね。何が足りなかったんだろうというのは今でも思っています」。土壇場での失点で同点に追い付かれ、延長戦で決勝ゴールを許し、1-2で惜敗。ほとんど引き寄せていた日本一は、するりとその手元から逃げて行った。

それでも、今から考えれば貴重な思い出であることは間違いない。「誰もができる経験ではないですし、自分がずっと憧れていた選手権の全国大会という舞台で、結果的には残念でしたけど、国立のピッチで戦えたというのは自分の中で凄く財産になっています」。ちなみに2021年のブラウブリッツ全選手の中で、高校選手権の決勝戦を経験しているのは藤山ただ1人である。

大学は鹿児島の鹿屋体育大学に進学。1年生からAチームのメンバー入りを果たし、3年生からはレギュラーとして活躍していたものの、藤山は自身の将来を決めあぐねていた。もちろんプロにはなりたい。ただ、絶対にプロになれるという確信は持てない。4年生になっても、その葛藤は続いていた。

「『この先プロになれなかったらどうしよう』という気持ちもあったので、企業をいろいろ調べて、『どこに就職しようか』と考えた時期はありました。でも、就活していてもなかなか自分がやりたいことも見つからず、しっくりくる職業がなかったので、『このままどっちつかずになっても良くないな』と。それだったらどっちかに決めようと思って、『やっぱり自分はサッカーがしたいんだ』ということを改めて確認して、プロ志望にすることにしました」。4年生の夏。サッカーで生きていく覚悟を決める。

いくつかのJクラブの練習に参加した中で、オファーを出してくれたのは1チームだけだった。「それまで1つもオファーが来ていなかったので、秋田さんがオファーをくれた時は凄く嬉しかったですね。ほとんどすぐに決めました。実は僕が高校2年生の時のインターハイが秋田であったんですよ。その時に初めて来て、試合をしていた土地だったので、縁はあったのかなと今は思っています(笑)」。2017年。藤山は秋田の地でプロサッカー選手になった。

入団1年目からリーグ戦31試合に出場し、主力選手としてJ3優勝に貢献したが、ここでも開幕前の“コンバート”が大きな影響を及ぼしていた。「最初はサイドハーフとかウイングバックをやっていたんですけど、キャンプの途中で『オマエはボランチもできるんだろ?』と言われて『できます』と。それでトレーニングをした時に監督の評価も戴いて、ボランチの開幕スタメンに至ったという経緯がありましたね」。山田尚幸との安定したドイスボランチを覚えているブラウブリッツサポーターも多いのではないだろうか。

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2019年までの3シーズン。負傷で離脱していた時期を除けば、ほとんどの公式戦に出場していた藤山は、AC長野パルセイロへの移籍を決断する。「長野の監督をやっていた横山(雄次)さんから、『是非長野に来てほしい』というオファーがあって、凄く必要とされているのを感じたんです。ブラウブリッツ秋田は大卒の僕が初めてプロになったチームでもありますし、3年間で自分にキャリアを積ませてくれて、成長させてくれた、感謝しかない存在だったんですけど、それでも自分は外の世界を経験してみたいという気持ちがあったので、長野に行くことを決めました」。

迎えた2020年。リーグ戦全34試合中33試合に出場し、チームのために100パーセントで戦い続けた藤山を待っていたのは、皮肉過ぎる結果だった。ブラウブリッツは圧倒的な強さでJ3優勝。パルセイロは最終節の敗戦で3位に転落し、目前に迫っていたJ2昇格を逃してしまう。

「正直なところ、凄く悔しい気持ちは自分の中でありましたね。秋田はぶっちぎりの優勝で、対戦も引き分けと負けで1勝もできなくて、凄く負けたくなかったので本当に悔しかったですけど、昇格すれば来年も戦えますし、『またリベンジできる』という想いがあったので、昇格することに目標を切り替えてやっていたんですけど、最後はああいう形で本当にあと一歩のところで昇格を逃してしまって、終わった時は頭の中が真っ白になりました。でも、僕が秋田にもし残っていたとしても、優勝はなかったかもしれないので、そこはもう割り切って、切り替えるしかないなとは思いました」。

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2021年7月。藤山はブラウブリッツへ帰ってきた。真面目で義理堅いこの男の決断が、簡単なものであったはずがない。

「本当に凄く悩みました。絶対に良く思わない人はいっぱいいると思いますし、秋田の人にしてみても『何で戻ってきたんだよ』と思う人も絶対いるはずなので、本当に苦しかったです。自分の中でもいろいろな葛藤はありましたし、長野も『今年こそ昇格するぞ』という中で、試合に出ていた自分が抜けてしまい、横山監督にも凄く申し訳ない気持ちはあったんですけど、やはり『上のカテゴリーでやりたい』という気持ちは強くて、秋田に戻ることを決めました。でも、長野で経験できたことも、成長できたこともたくさんあって、長野へ移籍した選択は自分としても間違っていなかったと思います」。

「秋田からオファーがあった時は凄くビックリしましたけど、一度去ってしまった僕に、また改めてオファーをして戴けて、『凄く必要とされているな』とも感じました。人生というのは一度きりしかないですし、チャンスがあればそこに飛び込んでいくのも大事だと思っています。そのチャンスも何回も回ってくるわけではないですし、『チャンスは自分で掴むものだ』という想いもあって、僕が決断する時には、もう周りのみんなは応援してくれていたので、そこにも支えられました。でも、1人の人間として考えれば、移籍はしなかったと思います。サッカー選手という職業だったからこそ、できた決断なのかなと」。

決して雄弁なタイプではないからこそ、1つ1つの言葉が響く。派手な選手ではない。目の前の役割を、忠実にこなしていくさまは、玄人好みと言ってもいいかもれない。だが、見る者はそのプレーに、心を熱くする。100パーセントで戦う姿に、胸を躍らせる。

「自分は全然上手くない選手だと思っているので、テクニックでどうとか、ドリブルでどうとかは難しいですけど、球際やヘディングで競ること、走ることだったらできるので、そこを前面に出していこうというのは自分の中で毎試合心掛けていることです。それが結果的にサポーターさんの共感を得られたなら、本当にありがたいことですよね」。

きっと“100年後”のブラウブリッツサポーターも、プレーを見れば一目でその魅力に気付くに違いない。藤山智史とは、そういう選手である。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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