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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 江口直生編

縁もゆかりもなかった秋田の地に辿り着いて、6年の月日を過ごしてきた。その中で確実にチームも、クラブも成長してきたことは、実際に肌で体感している。多くの人の歓声を浴びながらプレーできることは、決して当たり前ではないことも、どれほど幸せなことかも、今だからこそ改めて噛み締めている。

「サポーターの皆さん1人1人が、自分のことを『頑張れ』と応援して下さることはありがたいことですし、その期待を背負ってピッチに立ってプレーできるというのは、サッカー選手にしか味わえないことなので、それは本当に幸せですね」。

その右足の一振りで、己の進むべき道を切り開いてきたエクストラキッカー。ブラウブリッツ秋田の羅針盤。江口直生はこれからも、自分の信じた方向へ力強く歩み続けていく。

江口 直生(えぐち なお)
1992年3月22日生、大阪府出身。
2017年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/322_naaaao

社会人チームでプレーしている父の試合に連れられていくうちに、気付けばサッカーはすぐ身近にあった。小学校1年生の時に「みんなでワイワイと好きなサッカーをやっているという感じで、サッカーの楽しさを教えてもらえるような環境でした」という八尾久宝寺JSCに入団。当時から中盤を務めることが多かったそうだ。

そんな江口少年が、中学時代に所属していたのは奈良の名門・高田FC。セレクションに合格し、電車で片道1時間は掛かる道のりを通っていたが、「常に奈良で一番というチームで、小学生の頃に関西トレセンやナショナルトレセンだった選手の集まりなので、最初は本当に大変でした」とのこと。練習で思うようなパフォーマンスが出せず、泣きながら帰ることも一度や二度ではなかった。

高田FCはとにかく個人技術の向上に特化したチームで、1年生の頃はなんと“パス禁止”。既にキックに特徴のあった江口は、ドリブルばかりの練習に苦しんでいたものの、「そこでやめなかったのは、それだけサッカーが好きだったんだろうなと思います」と振り返ったように、自分の現状と向き合いながら少しずつ力を伸ばしていく。

中学3年時には日本クラブユース選手権(U-15)大会で全国の舞台を経験。原口元気を擁する浦和レッズジュニアユースを筆頭に、Jクラブのアカデミーとも対戦する中でベスト8まで進出。「実際にやってみると自分もチームも全国レベルなんだと再認識しましたし、この3年間で凄く成長しているんだとは感じました」と確かな手応えを得る。

高校は高田FCの2年先輩に当たる阿部浩之(湘南ベルマーレ)が進学していた影響もあり、まだ創部3年目だった新鋭校の大阪桐蔭高校へと入学。下級生の頃は公式戦の出場こそ叶わなかったが、周囲と切磋琢磨することで確実に成長を続けていく。

「自分の中学校の時のチームメイトが違う高校でプレーしているのを見た時に、『あれ?自分の方が全然上手くなっているんじゃない?』と思うぐらい、自然とレベルが上がっていたというか、それぐらいチーム内でぶつけ合ったものが、みんなの成長に繋がっているんだなと思いましたね」。3年時にはレギュラーとしてインターハイと高円宮杯で全国を経験。チームとしても日本一を目標へ掲げるぐらいに、自信を募らせていた。

ところが、3年間の集大成として臨んだ選手権は、意外な形で幕を閉じる。「スーパーシードの初戦で負けました。僕らは人工芝の綺麗なグラウンドで練習させてもらっていたので、土のグラウンドに弱かったんです。普通にやれば負ける相手ではなかったですけど、正直何もやれずに終わった感じで、気付いたら引退していました」。

最後は思わぬ結果で終焉を迎えたが、大阪桐蔭での3年間は江口にとって、今にも繋がるサッカーの大事な要素を学べた貴重な時期だ。「僕にとっては大阪桐蔭で身に付けたスキルがなかったら、プロになれていないです。試合に勝つための個人戦術を練習の中から磨くことができて、パス1つとっても、チームとしてどうボールを動かして、どう相手のゴールまでボールを運ぶか、パスをはたくまでの間に何を考えて、何をプレーに移せるかは高校で学びましたし、それは今にも凄く生きています」。

次の進学先に大阪産業大学を選んだのは、シンプルな理由からだった。「大阪桐蔭と大産大は同じグラウンドを使っているんです。だから、よく練習試合もやっていて、どれぐらいのレベルかも知っていたので、何となくやれそうなイメージはできていたんですよね。関東の大学にも指定校推薦で入れるかもしれなかったんですけど、ずっと実家暮らしでしたし、寮生活がイメージできなくて、そこに対する気持ちが前向きではなかったんです。なので、スポーツ推薦をもらえた大産大に決めました」。次の4年間も関西で過ごす決断を下す。

この選択は結果的に大正解だった。「僕はあの人がいなかったらサッカーをやめていました」とまで言い切る“同級生”との再会がその理由。大阪桐蔭高校時代の2年先輩で、水戸ホーリーホックでJリーガーになっていた満生充が契約満了となり、大阪産業大学へ“1年生”として入ってきたのだ。

「プロになるためには何が大事かということを全部知っているような人が来て、『このままじゃ絶対ダメだ』とハッキリ言ってくれたので、メンタル面でもあの人に支えられましたし、プレー面でも『この人に合わせていければ何とかなるな』って。満生くんを超えないとプロにはなれないと思いましたし、プレースタイルは全然違いましたけど、あの人には本当に助けられましたね。今も連絡を取ったりしますけど、ちょっとくらいはタメ口で行っても大丈夫です(笑)」。この“同級生”の存在は、大学時代の江口にとっては常に指標となっていたそうだ。

今では最大の武器となっているフリーキックが、より磨かれたことも大学での大きな成果だ。「ゴール前でのフリーキックは2分の1以上の確率で決めていました。ある人に『もうPKと一緒じゃん』と言われるぐらい、感覚として自分の中に落とし込めたんです。本当に練習したので、蹴る前から『ああ、これは入るわ』みたいな感じも多かったですね」。副主将も務めていた4年時には、リーグ戦で7ゴール13アシストをマーク。言うまでもなく、そのほとんどはセットプレーのキッカーとして記録したものである。

プロへの意識も大学在学中に膨らんでいく。「3年生ぐらいから『ちょっとこれは行けるかも』と思うようになってきたんです。ただ、プロになれるかどうかなんてわからないですし、『自分は就活をします』と当時のコーチや監督には伝えていて、とりあえず就職するつもりでした。ただ、4年生の頭ぐらいで『ああ、これはプロになれるな』という感覚があったので、4月の頭に1つ内定をもらってからは、一切他の就活はせず、プロになるために頑張っていました」。

夏に実現した愛媛FCの練習参加には、ある幸運が待っていた。1週間のスケジュールの終盤に組まれた練習試合。大事なテストの場で対峙したのは、なんと京都産業大学だったのだ。「何回も戦ったことがあるような相手だったので、とにかくやりやすかったですし、愛媛の選手より僕の方が京産大の選手を知っているので、特徴もわかりながら自分の良さも出せて、パーフェクトに近いぐらいのパフォーマンスでアピールできました」。その後にもう1試合の練習試合参加を経て、正式な獲得オファーが届く。江口は晴れて愛媛の地で、プロサッカー選手としての新たな一歩を踏み出すことになった。

飛び込んだプロの世界は、そう甘くはなかった。「『全然レベルに達していないな』というのは正直なところで、技術というよりもプロのスピード感やプレースピードに全然ついていけていない感じはありましたし、練習試合をするだけでも『まだまだだな』と思うところがいっぱいあって、最初は苦労しましたね」。リーグ戦のベンチには入れるようになっていくものの、デビューの瞬間はなかなかやってこない。

9月。その時は唐突に訪れる。アウェイの栃木SC戦。遠征には帯同しながら、スタメンの予定はなかった江口だったが、チームメイトの体調不良で急遽チャンスが巡ってくる。「緊張ももちろんありましたし、ちょっとフワフワした感じでしたね。入場の時に『ああ、プロの選手になったんだ』と実感しましたけど、速攻で失点に絡んでしまったのは凄く覚えています。僕がパスカットされて失点したんですけど、負けなくて良かったです。負けていたら完全に僕の責任でした」。そのゲームは3-3という打ち合いの末にドロー決着。少しほろ苦い思い出ともに、そのプロキャリアは本格的に動き出す。

愛媛ではルーキーイヤーから、3年間に渡ってプレーした。「まずプロの厳しさをガツンと思い知らされました。その中で自分も少し試合に出ることで、J2というものを肌身で感じられたかなと。プロサッカー選手として凄く充実していた時間だったかと言えば、そうではなかったと思うんです。でも、愛媛でもいろいろな方に支えられましたし、そういう方の支えがあったから3年間もプレーできましたし、不自由なく生活させてもらえたことは感謝しています」。何よりも、愛媛という土地自体への愛着は今でも変わっていない。

「松山という街がとにかく良かったんです。初めての1人暮らしだったんですけど、街並みがちょうどいいというか、不自由なく生活できるものがすべて揃っていて、住みやすかったですし、窮屈感もなくてメチャメチャ良いところでしたね。将来松山に住むことができたら嬉しいぐらいです」。

愛媛を契約満了になった2016年のオフには、トライアウトにも参加している。「その時は『この若さでもしサッカーがなくなったらどうなるんだろう……』という考えしかなくて、何とか拾ってもらえるチームを探さなくてはいけないという想いで、死に物狂いでプレーしていました。ただ、その時のチームが良かったんです。ベテランの選手に『若いんだからやってこい』みたいな感じで、のびのびプレーさせてもらえたので、良いパフォーマンスができたのかなと思います」。そのプレーを高く評価したのが、ブラウブリッツ秋田の岩瀬浩介社長だった。

「クラブの熱量の部分が秋田は素晴らしくて、岩瀬さんも直接松山まで来てくださって、初めて長く話す機会を作ってくださったんですけど、その時の目の輝きや話す言葉のエネルギッシュさが凄かったので、迷いはなかったです。『自分は秋田で絶対やれる』と社長に洗脳されたような(笑)、それぐらいの感じでしたし、『ここで間違いない』と思いました」。到着初日から雪の洗礼に見舞われながら、秋田での6年間はこうして幕を開けた。

ブラウブリッツに在籍中、江口は2度の長期離脱を強いられている。1度目は加入初年度の2017年。「同じ箇所の肉離れをずっと繰り返してしまって、復帰初日にまたやって、リハビリして戻ってきて、また復帰2日目ぐらいにやってしまって、その時は本当にサッカーをやめたくなりました。『もう無理だ。ピッチに帰れないだろうな』って」。

そんな苦しい時期を支えてくれたのは、盟友の存在だったという。「ホガンが『ゴハン行こう!』とか言ってきて、そこで一緒にいる時間が楽し過ぎて、本当にサッカーのことはいったん忘れさせてくれたんです。もちろんサッカーの熱い話も結構していたんですけど、オフ・ザ・ピッチになると同じ関西人ということで息も合いましたね」。それとない気遣いが、ただただ嬉しかった。

2度目はチームが初めてのJ2を戦った2021年。「開幕した時も足首がかなり痛かったんですけど、痛み止めや注射を打ってやっていました。でも、手術で足を開いてみた時に、そこで凄く悪化していることにお医者さんも気付いて、『これは歩くのにも時間が掛かる』とその手術室で言われるような、深刻な状態でした」。

この時もやはり周囲の人に救われる部分が大きかった。それは復帰を目前に控えた頃のこと。「練習に合流する直前というのは、コンディションを戻すためにメチャメチャキツいトレーニングをするんですけど、その時に付き添ってくれた臼井(弘貴)ヘッドコーチや坂川(翔太)さん、熊林(親吾)さんが凄く自分に鞭を打ってやってくれたんです。その時は嫌いになるぐらい厳しくても、1週間や2週間ぐらい経つとコンディションが上がったことに気付いて、好きになるという(笑)。だから、ピッチに戻ってきた時はまずその人たちのことを思いましたね。あの人たちがいたからまた帰ってこれましたから」。

シーズン初出場を果たした、10月のホームゲームで目にした光景は忘れられない。「前半途中からの出場だったんですけど、拍手もそうですし、何なら少し声も聞こえていました(笑)。『自分がピッチに戻ってきたんだな』という雰囲気も、皆さんがどれだけ期待してくださっているかも、その時に凄く感じましたね」。改めて味わったソユースタジアムの空気感は、やっぱり最高だった。

今年の10月22日。クラブから江口の契約満了を伝えるリリースが発表された。駆け抜けた6シーズン。一言で言い表せるはずもないが、本人はそのかけがえのない時間をこう語っている。「サッカー選手としてだけではなくて、人としても成長させてもらいましたし、周りのいろいろな方に支えていただいて、そういう方々のおかげで自分はここまで成長できたので、これからの人生においても凄く貴重な経験をさせてもらえたなと。サッカーをやっていなかったら秋田に来ることもなかったと思いますし、岩瀬社長に呼んでいただいてブラウブリッツ秋田に入って、これだけ長くプレーさせていただいて、またそこでいろいろな方と繋がることができて、幸せだなという想いしかありません」。

楽しさも、苦しさも、悲しさも、嬉しさも、すべてを共有してきたサポーターへの感謝の想いも尽きない。「6年間支えてくださって、後押ししてくださって、ありがとうございました。秋田を離れることになっても、これからのブラウブリッツ秋田がどうなっていくのかは僕も気になりますし、ここはサポーターの皆さんとの距離感が凄く良いクラブで、そこが一体になっているからこそ、今のブラウブリッツ秋田があると思うので、これから先もずっと皆さんが一体となって、大きいクラブに進化していくのを楽しみにしています」。

最後にこう聞いてみる。「ブラウブリッツと対戦してみたいですか?」。少し考えた江口は、笑いながらこう返してくれた。「本音はあまり対戦したくないですね。あの一体感で来られるのは嫌ですから、相手にはしたくないです(笑)」。

その黄金の右足で、雄弁なメッセージを発し続けた15番。江口直生が6年間で紡いだ想いは、これからもブラウブリッツが積み上げていく歴史の中へ、間違いなく息衝いていく。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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