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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 青木翔大編

気付けば、誰もいないグラウンドでボールを蹴っていた。味わった喜びを反芻しながら、突き付けられた無力さを抱えながら、来る日も来る日もひたすらボールを蹴っていた。人生をともにする“友人”として自ら選んだこのスポーツを、もっと極めるために、もっと楽しむために、今できることを、全力で。

「自分にはサッカーに対する情熱と向上心しかないのかなとは感じますね。やっぱりメンバー外になったら悔しいですし、ケガをしたら悔しいですし、その気持ちがなくなったら、もうサッカーをやめる時だなと思っています。もちろんまだまだ上に行けると信じて日々練習していますけど、そのためにはまだまだ覚悟が足りていないので、より強い覚悟を持ってやらなくてはいけないですよね」。

ブラウブリッツ秋田のしなやかに、逞しく戦うグラディエーター。青木翔大は昨日の自分を超えるため、今日もまたグラウンドへと飛び出していく。

青木 翔大(あおき しょうた)
1990年8月11日生、神奈川県出身。
2022年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/shota_aoki10
https://www.instagram.com/aokishota10/

サッカーを始めた毛利台SCは決して強いとは言えず、仲の良い選手たちは次々と別のチームへと移っていってしまったが、青木はそのまま残り続ける道を選ぶ。「同じ学年で残ったのが4人くらいしかいなくて、高学年になった時には市で一番弱いようなチームだったんですけど、最初に出会った指導者の方が個を伸ばしてくれる指導方法だったので、『その方がいるから』という理由で残りました」。

中学生時代のチームも、偶然が導いた縁だったとはいえ、最善の選択だったと今でも胸を張って言える。「家の近くのチームに兄がいたので、絶対そこには行きたくなくて(笑)、最寄駅から電車で40分ぐらい掛けて通うフットワーククラブというチームに入ったんですけど、そこはテクニックを重視するような南米型のチームで、ユースも社会人チームもあったので、中学2年生の頃には社会人の練習にも参加させてもらっていました。上手い大人たちに追い付くためにやっていた3年間でしたね」。まるで南米のストリートサッカーのような環境で、大人たちと毎日ボールを追い掛けていた。

意外にも高校時代は最後までレギュラーを掴むことはできなかった。鹿島学園高校は、青木の3年時に高校選手権で全国ベスト4まで勝ち上がっているが、自分がその躍進に貢献した感覚はまったくなかったそうだ。「出場時間も短かったですし、観光じゃないですけど、そんなイメージでしたね。良いホテルに泊まって、美味しいゴハンを食べて、みたいな(笑)。正直、当事者感覚はなかったです」。

だが、その3年間は自身のその後のキャリアに大きな影響を与える、大切な気付きをもたらしてくれた時期でもあった。「3年間を通じてチームで一番自主練したという自負がありますし、それがあったから今があるんです。高校時代に挫折したからこそ、今もしっかり練習しなければならないと考えていますし、年齢を重ねても、人の倍以上はやらないと身に付かないと思っているんです」。

「やっぱり『サッカーが好きだ』というのが根底にあるので、それが一番大きいかなと思います。高校の時も『人が休んでいる時こそやらなきゃいけない』という気持ちもあったので、みんなが遊びに行っている時に1人だけグラウンドに行って、ずっと自主練していることもありました。勉強ではこうはならなかったですね(笑)」。その想いは、30歳を超えた今でもまったく変わっていない。

進学した桐蔭横浜大学でも、“偶然”が青木のキャリアを切り拓く。「大学の八城(修)監督が横浜FCの強化部の人と知り合いで、3年生になる春先に『1次キャンプに行かなかった選手が残っているから、何人か選手を貸してくれ』と言われたらしく、5,6人で練習に行ったんです。その時に強化部の方に評価してもらえて、そこから定期的に呼ばれるようになったんですよね」。

もちろんプロサッカー選手になることは夢だったが、少しずつ現実を知っていくうちに、遠い世界のことだと諦めかけていた。ところが、突如としてそのチャンスが目の前に現れる。「周りで就活していなかったのは3,4人ぐらいだったんですけど、もうサッカー1本で行くと決めていたので、午前中は呼ばれれば横浜FCの練習に行って、夜は大学の練習に出るみたいな感じでした」。退路を断ち、自らの可能性に懸け、とにかく日々の練習を丁寧に積み重ねていく。

4年生のある夏の日。青木は監督に呼び出される。「『横浜FC、ダメだったぞ』って言われて、『そうですか……』と落ち込んでいたら、『嘘だよ』って(笑)。『オファーするって言ってるぞ』と。それでとにかくテンションが上がって、その日は練習に身が入らなかったですね(笑)」。目を惹くような経歴もなく、高校時代は試合にすら満足に出られなかった男は、ひたすら練習を積み重ねることで、Jリーガーになるための扉をこじ開けることに成功した。
 
横浜FCでの3年間は、想像以上にプロの厳しさを痛感する時間となった。1年目の夏にはJFLのAC長野パルセイロへと期限付き移籍。2年目も同じく期限付き移籍で、当時はJ3に所属していたFC琉球でプレーする。琉球では定位置を確保し、リーグ戦でも7ゴールをマーク。手応えとともに横浜へと帰還したものの、3年目のシーズンの記録を辿ると、J2リーグ戦の出場はわずかに1試合、11分という数字が残っている。それでもこの1年は結果的に、青木のサッカーキャリアにとってポジティブな分岐点となった。

「あの年は苦しかったですけど、一番成長できた1年でした。あの1年がなかったら、たぶん今はもうサッカーをやっていないと思います」。その理由は、ある“先輩”との出会いだった。「今はいわきFCのコーチをやっている渡辺匠さんが、ちょっと調子に乗っていると『オマエ、また過信しているぞ』と口酸っぱく言ってくれたんです。匠さんもなかなかベンチに入れなくて辛い時期もあったと思うんですけど、そういう時も試合をスタンドから常に一緒に見てくれて、『ここでボールを受けたらこうなるから、ここが空くよね』とか全部教えてくれて、練習中もチーム全体を盛り上げながら、本当に真面目にやりますし、あの人に出会えたことは凄く大きかったですね」。

渡辺を筆頭に、自分より遥かにキャリアのある選手たちが、一生懸命練習を頑張る風景が横浜FCのグラウンドにはあった。「ベテランの選手が自分もベンチに入っていないのに、腐らずに一緒にダッシュしてくれたり、ボール回しをしてくれたりして、チームのためですけど、みんなが自分の成長のために練習していたので、長くやるにはそういうところに秘訣があるのだと思いましたし、『この人たちと一緒のチームになれて良かったな』と実感しました」。この2015年の“練習場”で得たものは、今でも人生の大きな支えになっている。

横浜FCを契約満了になり、トライアウトを受けた青木を待っていたのは、“熱血指揮官”との出会いだった。その人は圧倒的な熱量で迫ってきたという。「謙さんがトライアウトが終わった瞬間に声を掛けてくれて、『すぐに沼津の施設を見に来てほしい』『もっとこうすれば、もっとこうなれる』と言ってくれたんですけど、その熱意が凄くて(笑)。なので、結構早い段階で他のチームにはお断りを入れて、沼津に行くことを決めました」。

青木の元にはJ3も含めて7,8クラブ近い数のオファーがあったが、“熱血指揮官”のアプローチを意気に感じ、JFLに在籍していたアスルクラロ沼津への加入を決断する。もうおわかりだと思うが、『謙さん』が現在ブラウブリッツを率いる指揮官であり、当時は沼津の監督を務めていた吉田謙であることは言うまでもないだろう。

沼津での3年間は、改めてサッカーをすることの意味を考える時間となった。青木はクラブ史上初のプロ契約選手となり、サッカーだけに専念できる環境を与えられたが、他の選手たちは働きながら、日々の練習に全力で向き合っていた。

「みんな仕事も100パーセントでやって、練習も100パーセントでやるんです。仕事をしているからこそ、地域の人たちにも応援されていましたし、職場の人たちが見に来てくれますし、僕も週に1回は障害がある子供たちの学童に行っていたんですけど、子供たちが純粋で、こっちが元気をもらえるんですよね。社会人として基本的なことがみんなできていたので、そこでサッカーをすることの意味は感じました」。

忘れられない出来事がある。2017年シーズン。ブラウブリッツと最終節まで優勝争いを繰り広げた沼津は、3位でシーズンを終えた。その数日後。青木は訪れたサッカー教室で“プレゼント”をもらう。「キャプテンだった尾崎瑛一郎さんと2人で行ったんですけど、その時に小学生から銀紙で包んだような手書きのメッセージ付きのメダルをもらって、泣いてしまいました。見ている人からは『感動しました』とか『よく頑張ったね』とか言ってもらえたんですけど、そうやって応援してもらっていたのに優勝できなかったことが悔しすぎて、2人して泣いちゃったんです」。沼津はJ2規格のホームスタジアムを有していないため、自分たちの優勝が行政を動かし、スタジアム問題も動かすはずだと信じて、彼らは戦い続けていたのだ。

「あの3年間はサッカー選手である前に、1人の社会人として成長させてもらった時間だと思います。自分はどうあるべきか、どう振る舞うべきか、と。JFLでスタートしたチームが、どんどんサポーターが増えていくのを見て、『スポーツの力って凄いな』とも感じましたし、戦う姿勢の部分は誰でも出せるものなので、そういうところで見ている人は感動するんだろうなと、常に手を抜かないことは沼津で改めて学びました」。“プレゼント”の一件も含めて、沼津での経験が人としての幅を広げてくれたことは間違いない。

群馬での3年間は、応援されることの大事さを実感する時間となった。2019年に沼津と同じJ3のザスパクサツ群馬に移籍すると、初年度から大車輪の活躍。開幕からゴールを積み重ね、シーズン10得点を記録したが、出場記録を紐解くと、第24節で古巣の沼津相手に勝利を収めた一戦を境に、昇格争いも佳境を迎えたラスト10試合に青木の名前は見当たらない。前述の沼津戦で負ったケガは“前十字靭帯断裂”。全治8か月の重傷だった。

「ケガをして凄く孤独だった中で、現場のスタッフはもちろん、フロントの方やファン・サポーターの方が何気なくかけてくれる言葉や横断幕が凄く嬉しくて。それからは『応援してくれる方々のためにも、もっとやらなきゃいけないな』って、より思うようになりました。本当にみなさんに支えられて復帰できたなと。実際に復帰戦も凄く拍手をしてもらいましたし、とにかくお世話になった気持ちはあります」。

このケガと復帰を経て、それまでも抱えていた想いは、覚悟に変わる。「今は1人でも応援してくれる方が、1人でも見てくれる方が、1人でも元気をもらっていると言ってくれる方がいるなら、その人のためにプレーしたいんです。だから、中途半端なことはできないですし、やるからには常に全力でやらなきゃダメだと思っています。ゴールを獲れるのが一番いいんですけどね(笑)。それが一番みんなを笑顔にできますから。でも、そんな簡単にゴールは獲れないので、もちろんゴールは常に目指しますけど、他の部分でも皆さんに何かを感じてもらえるようにプレーしています」。群馬で出会った人々が、青木をプロサッカー選手としてまた一歩前へと進めてくれたことは、疑いようがない。

毛利台SCでボールを蹴り始めた頃と、プロ10年目の今では、もちろんサッカーそのものの楽しさが変わってきているという。「小さい時はただ楽しくてやっていましたけど、今は自分のためだけではない部分もありますし、その分プレッシャーもありますね。この10年は本当に短く感じていますし、どんな選択をしても『あの時にこうしておけば良かった』とは考えるはずなので、その後悔を少なくできるように、練習から、日々の生活から、食事から、睡眠から、すべてをサッカーのために使っていきたいです。それがサッカー選手としての責任ですし、応援してくれる方への覚悟の示し方だと思っています」。

コロナ禍が落ち着き、ブラウブリッツの練習見学が正式に再開されたなら、グラウンドに行ってみよう。そこでは最後まで残って、ボールを蹴っている男の姿が見られるはずだ。人生をともにしてきた最高の“友人”と、初めて出会った頃と変わらないような笑顔にあふれる、31歳になったサッカー少年の姿が、きっと、必ず。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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