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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 千田海人編

いつだって自分が一番下だと思っていた。練習に行きたくない日も、数え切れないほどあった。プロになりたいなんて、口に出すこともしなかった。それでも今、こうしてJリーグの舞台に立っている。

「今でも『自分が一番ヘタクソだな』と感じますし、『よくオレがプロでやっているな』って思いますけど、今が一番充実しているというか、一番自信がある時ですね。サッカー人生の中で、今が一番楽しいです」。ブラウブリッツ秋田の守護聖人。千田海人は日々、自らがプロサッカー選手であることの意味を噛み締めている。

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千田 海人(ちだ かいと)
1994年10月17日生、宮城県出身。
2017年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはディフェンダー。
https://twitter.com/KaitoChida1017
https://www.instagram.com/kaito.chida/

小学生の頃は、とにかく“選抜”が嫌だったという。「自分がやれないのはわかっていますし、周りの上手さを見て、結局気持ち的に落ちていっちゃう感じなので、前日とか憂鬱で『行きたくないな』と思っていましたね」。当時の主戦場はサイドハーフ。ひたすら縦に走るクロッサーだった。

出身は宮城県仙台市。実家がユアテックスタジアム仙台に近かったこともあって、ベガルタ仙台は小さい頃から応援していたチーム。スクールにも通っていた千田は、ベガルタジュニアユースのセレクションを受ける。「最終テストと言われていたところで決まらずに、本来予定されていなかった“再最終”みたいなテストがプラスであって、そこで落とされたんです」。結果は不合格。悔しさの中で、ユースのセレクションも絶対に受けることを決意する。

3年後。リベンジは果たされる。ずっと目標にしてきたベガルタユースのセレクションに合格。「ジュニアユースの時に落ちたのはやっぱり挫折だったので、正直メッチャ嬉しかったです」。大きな希望を抱いて、憧れのクラブへと足を踏み入れたものの、その開けた扉の向こうには苦しい日々の連続が待ち受けていた。

「ユースに入って一番最初のゲーム形式の時に、3年生の選手に『オマエ、どこにポジション取ってんだよ!』ってぶちギレられたのは覚えていて。『ああ、もう終わったわ』『来るとこ間違えた』って思いましたね。最初の方は本当に練習に行くのが嫌でしたもん。下手なプレーの発表会みたいな感じで(笑)」。紅白戦にも出ることができず、序列は一番下に限りなく近かった。

ただ、千田には“自主練”に付き合ってくれる仲間がいた。「ユースは最寄りの駅から自分たちの練習場までバスが出るんですけど、それに乗って帰ると少ししか自主練できないので、40分くらい掛けて自転車で行って、バスが出た後に電気が消えるギリギリまで練習していましたね」。普段の練習ではミスをしないように、ビクビクしながらプレーしていたが、“自主練”ならば思い切ってプレーできる。「精神的にも技術的にもそこでかなり穴埋めされたかなという気はします」。その時、ともに自主練に励んだ2人は今でも仲が良いそうだ。

完全にレギュラーを掴んだのは3年生になってから。夏のクラブユース選手権で、チームは全国ベスト8まで躍進する。大会前にケガを負っていた千田は、1試合だけスタメンで出場。相手はセレッソ大阪U-18。対峙したフォワードは“超大物”だった。

「ちょうど沖野(将基)もその会場にはいたらしくて、ビデオを撮っていたみたいで、『あの時に海人くんは、南野(拓実)抑えてるからなあ』って(笑)。僕は全然選手を知らないので、試合が終わった後にみんなも『南野が』とか言っていて、『誰なんだろう?』思っていたら、あとあと結構有名な選手だと知ったんです(笑)」。何とも千田らしいエピソードだ。

トップチームへの昇格は本人曰く「可能性も絶対ない感じで」叶わず、神奈川大学に進学するが、ここでも最初の2年間は全く試合に出られなかった。「もうやめようと思ったことは何度もありました。試合にも全然出られる感じはないし、大学1,2年の時なんて“審判”に行っていましたからね。Iリーグ(※トップチーム以外のチームが出場するリーグ戦)にも出られなくて、その審判として派遣されていたので」。

ところが、3年生の時に大きな転機が訪れた。今でも慕う恩師、長谷川大の監督就任である。「大さんに出会ったのは大きかったですね。あの人はよく『オマエのその“のびしろ”があったらどこまででも伸びるから、伸ばそうぜ』って話してくれて。『海人はとにかくこの2年間で強みを磨いて、自分の武器をどんどん尖らせていく努力をした方がいい』と言われたんです」。

衝撃が走る。それまでの自分は『いかに自分の弱みを隠すか』に目が向いていた。『ヘタクソだから』という想いが、どうしても拭えなかった。「ずっと弱いところばかりに目が行っていて、“強み”の方があまり見えていなかったんですね。だから、その時にヘディング、ロングボール、対人とか、やっと自分の“強み”を見つけられた感じがして、大さんと一緒にやった2年間は、かなり“強み”の部分を育ててもらったなと思っています」。

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ブラウブリッツ秋田の試合には、必ず千田の横断幕がホーム、アウェイに関わらず掲げられているが、そこには『武器を磨け』という言葉が躍っている。「僕の中で大さんは一番プロに近付けてくれた人ですね。あの人がいなかったら、僕はプロになっていないと思います」。恩師への感謝は尽きない。

主力として過ごした4年時には、天皇杯2回戦でJ2に所属していたFC町田ゼルビアに1-0と勝利してしまう。続く3回戦ではJ1のジュビロ磐田に0-2で敗れたものの、神奈川大の躍進は大きな話題となった。

「あの天皇杯は、大学の中で一番大きな出来事だったかもしれないですね。直にプロと対戦できる機会でしたし、実際町田とやっても『オレらの方が強い』と思いました。実際に自分たちが今どれだけやれるのかということが分かりましたし、あの大会がキッカケでいろいろなクラブから練習参加の声を掛けて戴けて、かなりそこで自信は付きました」。

「当時はそんなに気付いていなかったですけど、着実に自分が成長していた感じはありますね。でも、大学4年になるまでは誰も僕がプロになるとは思っていなかったと思います。僕より上手いヤツなんでいくらでもいましたし、僕より成功しているヤツもいっぱいいたので」。長い長い回り道こそしたけれど、ようやく自分を肯定できた気がした。

プロの道へ進むことを決意し、J1とJ2のクラブに練習参加。後者での感触は良かったが、なかなか正式なオファーが届かない。「体脂肪率も測って、練習試合にも出て、『ああ、結構チャンスあるかもな』と。僕に興味がなかったわけではないと思うんですけど、たぶんファーストチョイスじゃなくて、返事が年明けになるみたいに言われたんです」。何となく自身の置かれている状況を悟る。

以前から熱心に誘ってくれていたチームが2つあった。1つはアルビレックス新潟シンガポール。もう1つが、ブラウブリッツだ。決断の理由は意外な人からの助言だった。「練習参加した時にお世話になったJ1のクラブのスカウトに、『海外に行ったら、もうJリーグに戻ってこれないかもしれないぞ』って言われたんです。それで、『下積みにはなるかもしれないけど、やっぱりJリーグにいよう』と思って、かなり前からオファーを戴いていたブラウブリッツに決めました」。2016年12月14日。加入内定のリリースが発表される。千田はブラウブリッツでプロサッカー選手になった。

実はルーキーイヤーにも、一度自信を失い掛けている。シーズン序盤で膝の半月板を損傷し、復帰と離脱を繰り返しながら、秋口に練習へ本格的に合流すると、まるで高校時代や大学時代に味わった追体験のような感覚に襲われる。

「当時はJ2のチームを天皇杯でボコボコにしているので、正直『J3だったら余裕でスタメンを獲ってやる』と思って、自信満々だったんですけど、いざ練習をやったら、『意外と自分が一番下じゃないか?』みたいな感じで、また『ちょっと練習行きたくないな』みたいな感じが来たんです(笑)」。

だが、そこからがもう以前の千田とは違っていた。「『もう1回自分の立ち位置が戻ったな』と思ったんですけど、『そんなに甘くないな』と思って、また謙虚になれたんですよね。ちょっと自信が過信になっていた感じもあったので、もう一度自分を見つめ直すきっかけになったんです。結局自分では挫折だと思っていたことも、今から思えば全部良い方に転がっているというか、その経験が大事だったと感じているので、今はあの1年目も良かったなと思います」。

シーズン最後の7試合でスタメンを勝ち獲り、チームのJ3リーグ優勝に貢献すると、翌年からは不動のレギュラーに。今やブラウブリッツの押しも押されもせぬ主力として、J2のステージでチームを最後方から支え続けている。

大きなことを言うタイプではない。自分を客観的に見つめることもできる人間だ。だからこそ、ハッキリと言い切った言葉に纏ってきた自信が滲む。「僕は遠くの目標は立てないんです。近い所の目標しか立てないんですよ。小さい頃も『Jリーガーになる』とか言ったこともないんです。自信がなかったのもありますけど、『みんなに言わなくても、自分の中で思っていればいいや』って。今もみんなの前ではJ1……、でも、今はもういいか。J1でやりたいですね」。

ここまで来るのは、簡単な道のりではなかった。今だって、まったく迷いがないわけではない。ただ、そんな時はいつもスタジアムに掲げられている横断幕が、自分の進むべき方向を教えてくれる。

『武器を磨け』。この言葉を心に携えて、千田はどこまでも上まで登り詰める覚悟を決めている。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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