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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 山田尚幸編

偶然が重なり、秋田の地へ辿り着いて8年。あるいはもっと前から積み上げた時間の分だけ、その想いは年々強くなる。「仲間に辛い時は支えられて、仲間が辛い時は支え合って、そういう関係も好きですし、今は家族とも支え合ってやれているので、1人でサッカーはしていないなということを凄く感じています」。山田尚幸は今、多くの人に支えられてサッカーができることの喜びを大切に噛み締めている。

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山田 尚幸(やまだ なおゆき)
1987年12月26日生、大阪府枚方市出身。
2013年、当時JFLのブラウブリッツ秋田に加入。ブラウブリッツ秋田のJ2・J3・JFL時代を知る唯一の選手。
ポジションはディフェンダー。

中学校への進学を控え、山田少年には2つの選択肢があった。幼稚園生から始めた器械体操を続けるか、小学校3年生から始めたサッカーを続けるか。最終的な決断を促した出来事はなかなか衝撃的だ。「『大車輪』という鉄棒でグルグル回る技の練習をしていた時に、僕の1つ前の順番で回っていた先輩が骨折してしまったのを目の前で見て、僕も鉄棒から下りられなくなったんです」。より長く親しんでいた器械体操ではなく、2つ上の兄も在籍していたサッカー部へと入部する。

高校はやはり兄が先に通っていた公立の枚方西高へ入学。だが、2年生も終わりに差し掛かった頃、信じ難い事態に見舞われる。なんとサッカー部が廃部となったのだ。「統廃合が決まっていた高校で、後輩が入ってこなかったんです。僕たちの学年は7人しか部員がいなくて、一緒にやっていたメンバーが『もうやらない』と言い出したので、廃部になりました」。Jリーガーにまでなった選手で、“廃部”の経験者はさすがに聞いたことがない。

3年生の1年間は、小中時代のチームメイトに誘われて枚方FCユースでプレー。雨が降れば練習は中止。グラウンドが確保できない時は河川敷でボールを蹴ったこともあったが、当時の指導者との出会いが自身の情熱を加速させる。「池本さんというコーチがいたんですけど、その人にサッカーのイロハを教わったことで、そこからサッカーの魅力を凄く感じられたんですよね」。高体連でもない、Jリーグの下部組織でもない、偶然加わった街クラブで、山田はサッカーの楽しさを再確認する。

とはいえ、この時点で“選抜”チームの類にはまったく縁もなく、同世代の有名な選手もほとんど知らないような18歳に、プロサッカー選手は現実的な未来ではない。当時の夢は体育教師。教員免許を取得するため、まだ新興勢力だったびわこ成蹊スポーツ大学に進学する。周囲は名門校出身者揃い。技術的には明らかに劣っている自覚があったものの、入学直後からある理由ですぐにレギュラーポジションを確保してしまう。

「みんな高校サッカーが終わると遊びに走る感じでしたけど、僕は枚方FCの後輩たちと一緒に練習していて、体は動かしていたので、入学前のキャンプで集まった時に凄く走れていたのが監督の目に留まったのか、最初からトップチームに入れたんです」。レベルの高い仲間たちと切磋琢磨し、実戦経験を重ねるごとに確かな自信が付いてくる。周囲にはJリーガーになった先輩もいれば、同じ関西のリーグでもプロを目指す選手は少なくない。全国大会も経験した山田は、少しずつ自分の将来を軌道修正し始める。

「正直な話、『学校の先生は免許さえ持っていればいつでもなれるな』と思ったので、『サッカーをやれるならやりたいな』という気持ちの方がどんどん強くなっていったんですよね」。練習参加したJ2のクラブには良い返事をもらえなかったが、JFLのMIOびわこ草津(現・MIOびわこ滋賀)からオファーが届き、即決。働きながらサッカーを続ける“社会人選手”として、新たな環境へ飛び込むことになった。

最初の仕事は解体作業。「全然どこだかわからない所に車で連れて行かれたら、1つのプレハブがあって『これ、今から壊すから』みたいな感じで作業をし出して。『これはキツいな』と1日で辞めました(笑)」。その次は灯油配達。その次は大学時代の友人のツテで、特別支援学校での非常勤講師。もともと教師を目指していたため、やりがいのある仕事に充実感もあったが、学校が夏休みや冬休みに入ると収入はゼロ。その期間は引っ越しやごみ収集車での作業で、何とか食い扶持を確保する。

「練習は夜の7時から9時なので、夕方の5時くらいまで仕事して、移動して練習してという感じでした。だから1日休みという日がないんですよ。月曜から金曜まで働いて、土曜は午前中に練習して、日曜に試合だと、月曜はオフだけど仕事があると。大変でしたけど、それが慣れてきて普通になっていましたね」。

2010年からの3年間。「シンプルにサッカーが好きだし、このチームで勝ちたいという気持ちで」プレーを続けてきた中で、チームのJ3リーグ参入が難しいという状況を受け、より上を目指すことを決意して退団。再びJクラブへと練習参加するも、結果は不合格。所属チームがなくなってしまう。そんなタイミングで、意外な知らせが元チームメイトから入ってきた。

「当時MIOから秋田に移籍した半田武嗣選手から『秋田のGMがオマエにも声を掛けようとしていたけど、Jクラブの練習に行ったから連絡しなかったって言ってたぞ』って聞いたので、もうソッコーで連絡先を聞いて電話して(笑) そうしたら『今、千葉でキャンプしているから来てくれ』って』。

向かった千葉はサバイバルの地。2日に1回の練習試合が組まれ、パフォーマンスが認められれば、次の練習試合まで生き残れる。山田も“脱落”を余儀なくされた選手と入れ替わりでの参加だった。「とにかく必死でした。もう手応えというよりも、ホンマに必死だったので『どうなるのかな』とは思っていましたけど、何も考えられずに、ただただアピールし続ける感じでした」。

2013年3月8日。JFLの開幕を2日後に控えたタイミングで、クラブから1つのリリースが発表される。『山田尚幸選手 入団のお知らせ』。それから8年。チーム最古参となった33歳は、今でも蒼い魂を胸に秘め、秋田の地でサッカーと向き合っている。

山田には大事にしている言葉があるという。「『辛いのは幸せになる途中』っていう言葉で、“辛”という漢字に横棒を1本足せば“幸”という漢字になるじゃないですか。僕はそういう言葉とか、仲間に助けられてきた人生なんです。今でも学校の先生を目指している所もあるから、そういうのが好きなんですかね(笑)」。

人生は偶然の連続だ。自分の思うようになんて、行かないことの方が圧倒的に多い。ただ、その偶然にも必然はある。辛い時に、どうやってその後の幸せを思い浮かべられるか。そのためにどう努力を積み重ねられるか。そういう姿勢を見ている人は必ずいる。だからこそ、自分に嘘はつけない。それはそのまま、自分を信じてきてくれた人たちも裏切ることになるからだ。おそらく山田は誰よりもそのことを、深く理解しているような気がしてならない。

器械体操の先生も、枚方西高のチームメイトも、枚方FCユースのコーチも、灯油配達の会社の方々も、特別支援学校の先生たちも、そして秋田で出会ったすべての人たちも、偶然のようで必然として出会ってきた、彼を誇りに想うみんなの心が、最後の一蹴りを、最後の一歩を、きっと後押ししてくれる。

そんな選手、応援したくならないはずがない。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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