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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 鈴木陽成編

「18歳だから」とか、「アカデミー出身だから」とか、そんなのは何の言い訳にもならないことなんて、とっくにわかっている。とにかく丁寧に、ひたすら全力で日常を積み重ねて、自分に課せられている役割を、自分に向けられている期待を、必ず背負い切ってやる。

「自分が秋田県出身ということで、注目される部分は本当に大きいと思っていますし、そんな自分が結果を残すことができれば、秋田の子どもたちが『サッカーをやりたいな』と思ってくれるような、希望の星みたいに感じてもらえるような存在になれるので、その気持ちを背負って頑張りたいです」

このクラブでスクール生時代から成長を続けてきた、生粋のブラウブリッツっ子。鈴木陽成が歩んでいくプロサッカー選手としてのキャリアは、まだまだ始まったばっかりだ。

鈴木 陽成(すずき ひなせ)
2004年12月22日生、秋田県秋田市出身。
2023年、ブラウブリッツ秋田U-18からトップチームに昇格。
ポジションはミッドフィルダー。
https://www.instagram.com/hinase_suzuki/

本格的にチームへ入ったのは小学校2年生。その寺内ブルーウィングスサッカースポーツ少年団でも、既に今のプレースタイルに繋がる片鱗を披露していたそうだ。「とりあえずボールを持っていました。それが楽しくてやっていたところもあったので、わがままな小学生ですね(笑)。リオネル・メッシ選手に本当に憧れていて、ずっと映像を見ていた記憶があります」。

ほとんど時を同じくして、秋田にプロサッカーのチームがあることを認識する。そのうちにあきぎんスタジアムへと通うようになると、緑の芝生の上でプレーしているブラウブリッツの選手たちが、輝いて見えた。

「『ああ、凄いな。自分もあそこに行きたいな』って。凄くキラキラして見えて、憧れの人たちがプレーしているような感じでした」。そんなクラブにサッカースクールがあることを知った鈴木は、母親に頼み込んで小学校4年生からそのスクールに、週2日のペースで通い始める。


2016年の最終戦ではエスコートキッズを務めた(写真左)

県選抜にも選ばれる実力を有していた鈴木は、中学進学後の進路の第1希望として、ブラウブリッツが開催したU-15のセレクションを受ける。臨んだのは1次、2次の実技試験と面接。メチャメチャ緊張したけれど、不思議と自信はあった。

「あらかじめ自分の番号をもらっていて、サイトに合格者の番号が掲載されるんです。本当に受験番号を確認するような感じで、親と一緒にそのサイトを見ましたけど、自分の番号を見つけた時には本当に心の底から喜びましたね」。結果は見事合格。晴れてU-15へと入団することになる。

周囲のレベルはとにかく高かった。「入った当初は自分が一番下ぐらいで、本当に上手い人ばかりでした。体力面も技術もそうですし、サッカーIQも全然違ったので、それまでの積み上げを1回なしにして、コーチから言われたことを取り入れるようにしていて、ゼロから積み上げようという気持ちでやっていました」。

「実際に練習がうまく行かなくて泣いたり、苦しい時期もあったので、中1の時はツラかったです。でも、自分は意外と寝たら忘れるタイプだからかはわからないですけど(笑)、それでもサッカーは楽しかったんです」。やめようとか、練習を休もうとか、そういうことはまったく頭になかった。

2年までは思い描いていたような活躍ができないまま、時間が経過していったが、最高学年になって、ようやくボランチの位置で試合出場の機会を増やしていく。だが、それは自身の望んだようなプレーが評価されたからではなかったのだ。

「意外と守備のところが監督に買われていたので、得意なプレーが通用しない悔しさと評価されない悔しさはあったんですけど、褒められている部分をしっかり自分のものにしようとして頑張っていました。まあ、守備をもっとやろうとは思わなかったですけど(笑)」。

忘れられない試合がある。中学生最後の大会となった高円宮杯。全国大会出場を勝ち獲ったブラウブリッツU-15が初戦で対戦したのはサンフレッチェ広島ジュニアユース。全国きっての強豪チームを向こうに回して、何と彼らは1-0で勝利を収めてしまったのだ。

「メチャメチャ叫びました(笑)。それこそはるか上のレベルにあるチームに勝てたのは本当に嬉しかったですね。それまでの自分はとにかく緊張するタイプで、練習でうまく行くことが試合でうまく行かなかったりしていたんですけど、注目が集まる大会でも力が出せて、協会の人たちから『あのボランチの子いいね』と言われていたという話を後から監督に聞いたので、『自分もここまでできるようになったんだな』と感じました」。

決して順調とは言えなかったU-15での3年間だったが、鈴木にとってかけがえのない時間であったことは間違いない。「小学生まではサッカーを楽しむことが一番で、中学生になってからはサッカーの本質を知ったというか、それが今にも生きていることがたくさんあるので、大事な時期だったと思いますし、いつも送り迎えをしてくれていた親も含めていろいろな人が支えてくれていたわけで、感謝の気持ちを忘れないことは今でも意識しています」。

U-18への昇格はごくごく自然な流れだった。「中学校3年生の時にも練習に何回か参加して、『ここでやったら絶対に上手くなれるな』と感じたのと、親吾さんの元で学びたい気持ちもあったので選んだところもあります」。秋田サッカー界のレジェンドでもある熊林親吾監督の存在も、鈴木にとっては心惹かれる大きな要因だったようだ。

1年時はいきなりコロナ禍が直撃する。ボールにすら触れない毎日が続き、オンライントレーニングに励む日々。ごくたまに友達と公園でサッカーすることもあったが、精神的にも厳しい時間を強いられる。夏前からは練習も再開し、徐々に公式戦も始まっていった時期に、鈴木も「もう記憶から消していたところもちょっとあるんですけど」と振り返る試合があった。

スーパープリンスリーグ東北の開幕戦。ブラウブリッツU-18は青森山田高校相手に1-13という衝撃的な大敗を喫する。「小学生と高校生がやっているような感覚で、特に松木(玖生)選手は違いましたね。でも、トップレベルとはこんなに差があるとわかった中で、もっと上手くなれると思ったところもあったんです」。信じられないようなスコアも、芽生えたさらなる向上心も、今となっては大切な思い出だ。

2年生になるとそれまでより試合にも関わるようになった中で、大きな結果を手繰り寄せたのが、年末のプリンスリーグ参入戦。2連勝を飾って、クラブ史上初のプリンスリーグ昇格が決定。鈴木は当時の3年生への想いを何よりも真っ先に口にする。

「とにかく結果にこだわって、自分たちの来年のために戦った試合でした。でも、本当に感謝したいのは3年生で、参入戦に勝っても3年生は次の年のプリンスを戦えないじゃないですか。それなのに自分たち下級生のために一緒に戦ってくれたことは本当に感謝しています。良い先輩ばかりでしたね」。クラブの歴史をともに作った“3年生”への感謝は尽きない。

年が明けると、鈴木はトップチームの練習に参加する回数も増えていく。「自分の通用する部分が見えてきましたし、『今のままでプロに行っても何もできないな』と感じるところもあったので、より意識が変わったところがあります。高いレベルでやる楽しさを実感して、『自分もプロになりたいな』という気持ちが強くなっていった感じはあります」。

とりわけ印象に残っているのは稲葉修土の凄味だ。「『これだけスピードや切り替えの速さがあるんだ』と感じました。稲葉選手は本当にプレースピードが全然違って、自分がトラップしている頃には間合いを詰められて、ドリブルもまったく通用しなかったです」。プロのスピード感は桁違いだった。

6月。鈴木は天皇杯でトップチームの公式戦へと呼ばれることになるが、実はその少し前にはメンバー入りを懸けた“テスト”が行われていた。「確かクラブユース選手権の東北予選の時に親吾さんから『この試合で良かった人を天皇杯に連れて行く』という話をされていて、『良いプレーができればプロの人たちとできる』というのもあって、メチャメチャ頑張った記憶があります」。その“テスト”をパスしたことで、新しい扉が開いたのだ。

「3、4日前に合流して、練習も何回か一緒にやらせてもらいました。試合の時もユースとは違う、トップだけのウェアも支給してもらったので、それを着られた時は子どものように嬉しかったですね」。味の素スタジアムで行われた、東京ヴェルディと対峙する天皇杯の一戦。60分にベンチからアップエリアの鈴木へ声が掛かる。

「もしかしたら出場の可能性があるんじゃないかなとはちょっと思っていましたけど、心臓がメチャメチャバクバクしていて、最初は緊張し過ぎて周りがよく見えていなかったですね。そこから5分ぐらいで落ち着いた気がします。ただ、『楽しかったな』というよりは『悔しかったな』という想いの方が強くて、あまりドリブルもできなかったですし、良い経験になったというよりは、『もっとできたな』という感じがしました」。時間にして30分強。17歳にとっては大きな刺激を得る、貴重なトップチームデビューだった。

その4日後。今度はロアッソ熊本とホームで激突するリーグ戦のベンチメンバーに、鈴木は指名される。試合は終了間際にアカデミーの先輩でもある半田航也が劇的な同点ゴールを叩き出し、2-2で引き分けたが、出場機会を得られなかったことで新たな感情が生まれたという。

「同点ゴールの喜びよりは、悔しさの方が強かったです。『試合に出たかったな』って。他の選手が活躍しているのは、チームとしては嬉しいことなんですけど、自分も競っていく仲間であり、戦わなくてはいけないチームメイトなので、やっぱり素直に悔しかったです。半田選手とは天皇杯で一緒にピッチに立っていたからこそ、そういう気持ちになったのかもしれませんし、そのあたりから本当にプロになりたい気持ちが大きくなっていたと思います」。一度知ってしまった舞台への欲求を、もう抑えることはできなかったのだ。

U-18の選手として挑んだ最後のクラブユース選手権には、確かな手応えと言いようのない悔恨が残っている。初戦の清水エスパルスユース戦は2-3で競り負けたものの、「『自分たちもこういうレベルに追い付けてきているんだな』という実感は凄くありました」という惜敗。続く柏レイソルU-18戦は1点ビハインドの最終盤に執念で追い付き、勝ち点1を強奪する。

「こぼれてきたボールを自分が1回収めて、2年生の子がハーフウェーラインより少し前から打ったシュートが入ったんです。その時は本当に鳥肌が立って、ビックリしましたし、あれはシビれましたね。ああいうレベルの高いチームに対して、ああいう試合ができたのが嬉しかったです」。

それゆえにあまりにも残酷な大会の幕切れには、今でも心残りがある。V・ファーレン長崎U-18の出場辞退により、グループステージ最終戦は中止に。結果的に清水と柏が勝ち点で上回る形となり、ブラウブリッツU-18の決勝トーナメント進出は試合を戦うことなく絶たれてしまう。

「凄くもどかしい気持ちでした。これだけやり切れない不完全燃焼な感じはなかったと思います。でも、親吾さんが『過去の試合に囚われるな』と言ってくれて、やっぱり明日は来るというか、自分の人生は続いていくので、そのために頑張っていこうとは話していました。親吾さんは心に来る言葉をよく言ってくれるんです」。指揮官の言葉に少しだけ救われた気がした。

そんな熊林監督から、その吉報は伝えられた。「クラブユースが終わった時に、親吾さんから『プロに上がれるよ』と言われて、自分は即答で『はい』と答えました。もちろん『やっとプロになれるんだ』とも思いましたけど、それよりは『もっと頑張らなきゃな」という気持ちもありましたね」。プリンスリーグ東北にも6位で残留を果たし、スクールも合わせれば9年間のアカデミー生活を終えた鈴木は、今年からブラウブリッツでJリーガーの道を歩み出している。

2023年シーズンの始動から、2か月近い時間が経過している。「高校の頃より上手くなりたい想いは増していますね。やっぱり自分のプレーで生きられるか生きられないかが変わってくる世界なので、そういう世界でもっと欲求が増してきています。今はメチャメチャ楽しいです。もちろんツラいことも多いですけど、それを含めてもサッカーという感じがしているので、楽しくできていますね」。楽しくて、ツラくて、それでも楽しい。プロサッカー選手という職業の本質は、そういうことなのかもしれない。

近い未来と、少し先の未来。目標は自分の中でハッキリ見えている。「まずはソユースタジアムのピッチに立って、サポーターの皆さんの前でプレーすることと、ゆくゆくはJ1でプレーしたいなとは思っています。あまり僕は夢を語るタイプではないんですけど、今はJリーグ初ゴールを狙っていきたいです!」。

おそらくはJリーグのピッチに立ち、ゴールを決めるタイミングはやってくるだろう。その先には、また次の目標を叶えようと奮闘する日常が待っている。夢を見て、叶えて、また夢を見て、また叶えて。そうして辿っていく日々が、きっと後に続く者たちへの道しるべになっていく。目の前に広がっている可能性を、自らの力で切り拓いていく鈴木の未来こそが、秋田の子どもたちが持つ無限の可能性そのものなのだ。 

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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