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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 飯尾竜太朗編

「今はサッカーがやれていることに感謝したいですし、日々練習して、トライして、失敗して、もう1回練習して、というこの基本的なサッカー選手としての作業を、また改めてできる環境が本当に幸せです」。飯尾竜太朗。30歳。彼がサッカーで綴る人生の物語には、まだまだこれからも新たなページが書き加えられていく。

飯尾 竜太朗(いいお りゅうたろう)
1991年1月30日生、兵庫県神戸市出身。
2021年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/110ryutaro
https://www.instagram.com/110.ryutaro

もともとは野球の方が好きだった。出身は神戸。日本を代表するスターが、その地で躍動していた。「オリックスにイチローがいて、グリーンスタジアム神戸によく試合を見にいっていました。ニールにバットをもらったこともありますよ(笑)」。だが、父親の影響で小学生から始めたサッカーに、どんどんのめり込んでいく。

当時所属していた神戸FCボーイズは、実質的にヴィッセル神戸の下部組織でもあり、自然とその先の目標も見えてくる。「ヴィッセルのジュニアユースに行って、ユースに行って、そのままプロになるんだって思っていましたね」。順調にジュニアユースに入ると、俊足フォワードだった飯尾少年に今にも繋がる転機が訪れる。

「だんだんスピードで勝てなくなってきて、『フォワードでは難しいな』と思っていた頃に、みんなは学校のテスト期間中になると練習を休んでいたんですけど、僕は全部行っていて。その時のある試合で『サイドバックやってみる?』と当時の監督に言ってもらって、やったら『意外といいね』と。そこからずっとサイドバックで試合に出ていますね」。12歳でのコンバート。テストに比重を置く中学生だったら、今のキャリアはなかったかもしれないと考えると、人生はわからないものだ。

ユースでの3年間は、辛いことの方が多かったという。特に高校3年時には監督が変わり、技術や戦術よりも球際の強さやメンタルが重視されるように。今から振り返れば、あの頃に培ったものの重要性を理解しているが、当時はサッカーそのものに対する楽しさを見出せなくなっていた。加えて、夏過ぎにはトップチーム昇格が叶わないことも知る。様々な感情が渦巻く中で、ある人から掛けられた言葉が、飯尾の胸の中にストンと落ちた。

「トップチームのコーチだった前田浩二さんに『“ヴィッセル神戸の飯尾竜太朗”じゃなくて、“飯尾竜太朗”という名前で誇れる選手になれるように、大学に行っても頑張れ』と言ってもらって、『ああ、この言葉は大切にしないといけないな』と。トップに昇格できなかったのは挫折でしたけど、『大学の4年間で絶対にプロになってやる』って思ったんです」。確固たる決意を携えて、阪南大学の門を叩く。

大学はある意味で“カオス”。多種多様な人間の集まる環境で、飯尾はそれまでの固定概念を大きく覆される。「『自分はこうあるべき』みたいな、小さな世界で生きていた所をぶち壊されました。最初は『プロになるには規則正しい生活をしないといけない』みたいなことに凄く囚われていたんですけど、そうじゃない先輩たちもたくさんいて(笑)」。

「でも、そういう先輩がメチャメチャ上手いんですよ。しかも、ピッチの上でメチャメチャ戦うし、走るし。逆にそれがカッコよく感じたんです。『この人たちは何の言い訳もなく、サッカーに懸けて戦っているんだな』って。それまでは“自責”じゃなく“他責”になっていた自分もいたので、そういうことを考えさせてもらいました」。

4年時の総理大臣杯では日本一も経験。キャプテンとして優勝カップを掲げた。「僕が引っ張るというよりは、本当にみんな1人1人が責任を持ってやっていたと思うし、凄くちゃらんぽらんなヤツばっかりでしたけど(笑)、それこそピッチの上では誰も言い訳しないし、弱みを見せずに戦っていたので、自分の中でも凄く好きなチームでしたね」。大学での4年間が、人としての幅を広げる意味でも大切な時間であったことは間違いない。

就職活動を一切せず、退路を断っていた飯尾にようやく吉報が届いたのは、暮れも押し迫っていた12月。それまでに練習参加したクラブは、すべて不合格。最後の最後で入団が決まったのは、まだJ2に参入したばかりの松本山雅FCだった。もちろん夢を叶えた嬉しさはあったものの、同時にまったく別の感情も湧き上がってくる。

「親、おじいちゃん、おばあちゃん、そういうお世話になった方に報告できることは嬉しかったですし、夢を1つ形にできて良かったですけど、悔しさみたいなものはありました。山雅も当時は人工芝で練習していましたし、練習着も自分で洗うような環境が悔しくて、『自分のイメージしていたサッカー選手じゃないな』って。『ここからまだ這い上がるぞ』という気持ちは強かったですね」。大きな感謝と、小さくない悔しさを胸に、飯尾はプロサッカー選手としての人生を歩み出す。

日々の練習は想像以上に厳しいものだった。サッカーのスタイルや当時のチームの立ち位置もあって、とにかく走る。「最初に『ここから這い上がるぞ』と決意を固めていなかったら、無理だったかもしれないです。今でも『もう1回あれをやれ』って言われたら… それこそ、同期の(中村)亮太たちと励まし合って、乗り越えました」。

ただ、その毎日が今の選手としての基礎を築いてくれたことも、また確かだ。「勝負の際の部分とか、相手より早く戻って、相手より早く出ていく所とか、そういう部分を叩き直されました。それは今でも自分の武器になっていますし、染み込んでいる部分でもあるので、そこまで要求してくれたのは、今になって本当に感謝していますし、最初のクラブが山雅で良かった部分は大いにあると思います。」

そして、何より大きな出来事は山雅のホームスタジアム、アルウィンとの出会いだった。「アルウィンの背中を押してくれる感覚とか、苦しい時に感じるあのサポーターの感覚というのは、今から思い出しても震えますし、本当に力になるんですよね。あそこで本物の応援を知ることができたなと。スポーツにはやっぱり夢があるし、力があるなって思いました」。悔しさから始まった松本での4年間は、飯尾にとってかけがえのない財産になっている。

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今年の1月上旬。飯尾は妻の実家で、悶々とした日々を過ごしていた。ベガルタ仙台を契約満了になり、いくつか浮かんでいた移籍の話も立ち消えに。折しも第二子の誕生を間近に控えたタイミングで、なかなか次の“職場”が決まらない。「妻の実家でゴハンを食べて、走りに行って、ボールを蹴っている、この“無職”の状況の自分はヤバいなと。本当にサッカーを辞めて、働こうかなとも考えました」。

秋田へと繋がる扉は唐突に開く。きっかけは松本で生まれた縁だった。「今のコーチの臼井(弘貴)さんが、僕が山雅にいた時にユースの監督として練習も結構見に来てくれていたので、そういう縁もあって電話した時に『チーム決まってないんでしょ』『はい。今の所は正式な話がなくて』と。そこで『じゃあ、ちょっと(吉田)謙さんに聞いてみるわ』と言ってくれたんです」。

「それから謙さんが、『条件さえ合えば、来てくれないかな』と言って下さって。もう僕は『条件よりも、サッカーがしたい』と、すぐに返事をしました。だから、ここに連れてきてもらえたのは臼井さんのおかげだと思っています」。その後の活躍は周知の通り。今シーズンのブラウブリッツ躍進の一翼を、レギュラーとして担っている。

今年で30歳。気付けばチームメイトも、ほとんどが年下になってきた。最近は自分の中でも、思考が変わってきた部分があるという。「今までは自分の結果や成長にこだわって生きてきた所があったんですけど、最近は周りと一緒に成長していくことこそ自分の成長に繋がることが、何となくですけど、僕の中で繋がってきたというか、本気でそう思えてきた部分があるんです」。

「秋田には素直な心を持っていて、凄くハングリー精神が強い選手が多いので、そういう選手と共に成長していきたいですし、この30歳という1つの区切りは、本質的な所の人生の幸せとか、人生の目的という所を考え直す意味では、凄く良い機会だと思うので、初心に返って、今までの20代とは違う感覚で、今年もサッカーができています」。

飯尾竜太朗という1人のプロサッカー選手のキャリアは、今まで自ら築いてきた縁が重なり、秋田の地で“30代”という新たな章をスタートさせようとしている。おそらくは本人の与り知る所でも、与り知らない所でも、多くの人が彼のことを応援してくれているはずだ。そんなすべての人々への感謝を抱き、自分と周囲の未来をより輝かせるために、飯尾は目の前のピッチを全力で走り続ける。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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