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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 中村亮太編

ずっと突っ走ってきた。少しでも前へ。少しでも縦へ。そんな日々の先で30歳をプロサッカー選手として迎えたからこそ、これからの自分の在り方は、より明確になった気がする。

「これからのキャリアは、『横に広げていく』イメージの方が僕にはしっくり来ているのかなとは、30歳を超えたタイミングで凄く思いますね。今までずっと縦しか見ていなかったですし、それこそ今は“雲”を抜けたタイミングなので、いろいろな人を助けながら、ちょっと横に花を咲かせてみようかなという感じです」。

ブラウブリッツ秋田のキャプテン。中村亮太は、良かったことも、苦しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、すべての経験をしっかりと携えて、大事なチームメイトたちとともに、もっと大きな、もっと鮮やかな花を、秋田に咲かせ続けていく。

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中村 亮太(なかむら りょうた)
1991年1月28日生、愛知県出身。
2018年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/azukidaaa
https://www.instagram.com/nakamura_ryota_09/

もともとはセンターバックだった。通っていた幼稚園のスクールで触れたサッカーに、小学生になるとどんどんのめり込んでいく中で、一貫して最後方からチームを支える役回りを担う。名古屋FCジュニアユース時代には、やはりセンターバックとして年代別の日本代表にも選出される。

「U-14の代表に選ばれてイタリアに行きました。秋田にいた古田寛幸とか、千葉にいる田口泰士がいましたね。その時は本当に周りが上手過ぎて、『ああ、ちょっと自分に代表は無理だな』って感じました。『小さい名古屋のコミュニティにいただけだったんだな』って。その経験は凄く良かったです」。上には上がいることを、改めて痛感させられた代表活動だったという。

進学した中京大中京高校では、1年生から右サイドバックのレギュラーを獲得。高校選手権にも出場したが、PK戦で中村のキックはGKに止められ。チームは初戦敗退を余儀なくされる。「もう本当に記憶がないんですけど、『やってしまった…』みたいな。今でもPKには結構苦手意識がありますね。当時はショックでしたし、だいぶ同級生にはイジられました(笑)」。選手権は2年時も初戦で敗れると、キャプテンを任されていた3年時は、愛知県予選のベスト16で姿を消す。全国での勝利には、残念ながら縁がなかった。

今にも繋がるコンバートは、中京大学でプレーしていた2年生の頃。当時の指揮官だった西ヶ谷隆之監督にアタッカーとして起用された中村は、どちらも決勝まで進んだ総理大臣杯、インカレと2つの全国大会で、目覚ましい活躍を披露。一気にチーム内での地位を確立するとともに、攻撃の選手として覚醒していく。

「その時にプロが夢じゃなくて目標になったというか、やっと自信が付いてきて、サッカーがメチャメチャ楽しかったです」。全日本大学選抜にも選ばれ、レベルの高い環境でさらなる刺激を得ると、練習参加を経てオファーの届いた松本山雅FCへ入団。センターバックだった少年は、フォワードとしてプロの世界へ飛び込んだ。

1年目は、とにかくキツかった。実力が足りないことは理解していたが、それでもキツかった。「もう毎日を乗り切っていく感じでした。試合にも絡めなかったですし、選手が40人ぐらいいたので、トップチームとも練習させてもらえなかったんです。同期の(飯尾)竜太朗はトップの方に行ったんですけど、高卒と大卒の8人ぐらいは朝8時半から練習して、トップの練習の前にシャワーを浴びて帰るみたいな感じでしたし、ユースの高校生と練習したこともありました」。

リーグ戦には1試合だけ出場している。2013年10月27日。第38節のアビスパ福岡戦。後半のアディショナルタイムにアルウィンのピッチへ駆け出していったが、ボールは一度も回ってこなかった。「3分ぐらい出たんですけど、それっきりでしたし、まあボールに触ってないですからね(笑)。自分でも良いプレーができていないのはわかっていたんですけど、本当に悔しい1年でした」。それから初めてアルウィンでボールを触るまで、中村は実に8年の時間を要することになる。

2年目は関西リーグに所属していたFC大阪でプレー。3つも下のカテゴリーへの期限付き移籍は、事実上の戦力外通告だった。「その時に思ったのは、『こういうふうにサッカー人生って終わっていくんだ』って。若くしてやめていく人って多いじゃないですか。『こういうふうに飛ばされて、片道切符で2年ぐらいやって、何となく終わっていくんだな』と思ったのと、逆に『絶対に山雅と対戦して、ぶっ倒しに行く』『絶対にもう1回這い上がってやる』という強い信念が生まれましたね」。結果的にその後の中村のキャリアは、この信念に突き動かされていく。

FC大阪で過ごした2年間は、サッカーができることの喜びを改めて実感する時間となった。「1回リセットできましたね。山雅での苦しい時間から、サッカーに対する考え方がリセットされて、プロでやっていくベースが作れたかなと思います。サッカーの楽しさをもう1回取り戻せたかなって」。

「あとは下のカテゴリーでやれたことで、それまでは“ノリ”というか、そこまでいろいろ考えずにやっていたところもあったんですけど、フリックの仕方とか、飛び出すタイミングとか、プルアウェイの動き方とか、フォワードの基礎を学べました」。5日連続で試合を行う“全社”や、2度の3連戦を強いられる“地決”を経験し、チームのJFL昇格に貢献すると、翌年はリーグ戦で10ゴールを記録するなど中心選手として躍動。充実した時間を送る。

プロ3年目のシーズンが終わると、松本山雅を契約満了に。本人もFC大阪でプレーを続けるつもりだったが、同じJFLに在籍していたアスルクラロ沼津から、中村の元へオファーが届く。ただ、条件の1つは仕事をしながらプレーすること。それまではサッカーだけに専念していた状況もあって、簡単に決断は下せなかった。

「『仕事をしながらはキツいな』と思ったんですけど、沼津はJ3のライセンスがあって、当時のFC大阪はライセンスがなかったですし、どこに信念があるかと考えたら、やっぱり『J2に戻って山雅を倒したい』という強い想いがあったので、沼津で挑戦することを決めました」。FC大阪には丁重に断りを入れる。「かなり引き止められましたけど、最後は理解してくれたので、本当に良い2年間を過ごせたと思います」。今でも感謝の想いは尽きない。

沼津での在籍期間は、『三島スカイウォーク』で働いていたという。「“日本一長い吊り橋”で、お土産売り場の品出しやレジ打ちをやっていました。午前中に練習をしてから仕事だったので、まずは立ち続けて働くことでメンタルも身体も辛かったです」。だが、仕事の覚えの早かった中村は、少しずつ“ユーティリティ”に立ち回り始める。

「お土産売り場の次はカフェでコーヒーを入れたり、ソフトクリームを巻く仕事をして、それが終わったら橋の警備に行ってと、ユーティリティに働いていました。最終的には鍵を閉めたり、日報も出してから帰っていましたから(笑)」。

FC大阪での2年間。沼津での2年間。この4年間が、中村を人間的に大きく成長させてくれたことは間違いない。「周囲の方に支えられることのありがたみや大切さに改めて気付かされた、中村亮太という人間を築けた時間だったのかなって。もちろん紆余曲折や浮き沈みはいろいろありましたけど、人間形成の部分ではこの4年間が一番濃かったですね。それを経験したからこそ、今も仕事をせずにサッカーができることのありがたみを感じています」。

2018年。その前年に沼津と優勝を争ったブラウブリッツへと、中村は移籍する。理由はハッキリしていた。「岩瀬社長が『来年にはJ2ライセンスを取れるから、一緒に戦いたい』って言ってくれて。その時に沼津はJ2ライセンスがなかったので、自分の信念はどこにあるかと考えた時に、『その近道は秋田に移籍することだな』って」。

2年後。中村も沼津時代に師事した吉田謙監督を招聘したブラウブリッツは、見事にJ2昇格を決める。勝てば昇格という大一番のガンバ大阪U-23戦で、2ゴールを決めたのは9番を背負った“元センターバック”。「本当に集大成というか、今までやってきたことを出せた1年でしたし、まだまだ成長できるんだなって思いました」。一念、天に通ず。8年越しで抱き付けた信念の結実。中村は約束の舞台へ、自らの力で堂々と帰還した。

2021年4月4日。J2リーグ第6節の松本山雅戦。中村はブラウブリッツのキャプテンとして、アルウィンのピッチに立つ。「もう言葉に表せない感じでしたね。嬉しい気持ちも、ホッとした気持ちもありましたし、『やっとか。長かったな』という感じもありましたし、いろいろな想いがありましたね。まあオウンゴールをしてしまったんですけど(笑)、それもそれでオレらしいかなって」。

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実際に目標を果たした時、自分の中である想いが湧き上がっていた。「今から振り返ってみたら、あそこで悔しい想いをしたおかげで、ここまで這い上がってこれたので、感謝したいぐらいだなって。それこそ竜太朗と一緒に山雅戦に出られたということも感慨深いものがありましたし、相手には大学の同期だった佐藤和弘もいて、一気にいろいろなことが起こり過ぎましたね(笑)」。

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ずっと、見返したかった。ぶっ倒す日が来ることを、夢見てきた。でも、その想いがなかったら、ここまでサッカー選手としてキャリアを積む未来は訪れなかったかもしれない。抱え続けてきた悔しさは、ようやく感謝に昇華された。それこそが中村が8年間という短くない時間の中で、確かな人間性を纏ってきたことの何よりの証明ではないだろうか。

そんな自分だからできることにも、中村は気付き始めている。「そうやって這い上がってきた経験があるから、今シーズンで契約満了になった(下澤)悠太や(饗庭)瑞生にも自分のことを語れるのは、凄く大きな財産だと思います。『オレはオマエの年齢の頃は地域リーグでプレーしていたんだから、絶対大丈夫だよ』って言えるので」。

「たぶん“雑草魂”みたいな選手を秋田は求めているはずなので、だから今年は自分がキャプテンを任されたのだと思いますし、サッカーのみならず、私生活でもいろいろアドバイスしたり、いろいろな言葉を伝えることもやっていけたらなと。サッカー選手として、プレーだけじゃなくて、そういう部分でもチームに貢献していきたいと思っています」。

ずっと突っ走ってきた。少しでも前へ。少しでも縦へ。だからこそ、これからは横に広がっていったっていい。どこまでも、横へ。仲間と一緒に育て上げていく綺麗な花を、秋田の地で横へ、横へと咲かせていく。それはきっと、中村亮太にしかできないことだ。

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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
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