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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 諸岡裕人編

たとえばゴールを奪えること。たとえば華麗なドリブルで相手を翻弄すること。それがわかりやすい才能であることは言うまでもない。だが、この男が持っているそれも、サッカー選手にとっては欠かすことのできない、唯一無二の天分だ。

「目指しているところはJ1ですけど、自分は現実主義なので、まだJ1でやる自分は想像できていないですし、やっとJ3で去年の1年を通してプレーできて、『J2にチャレンジしたい』と思えるようになったので、まずはこのJ2で自分の力を発揮できるかどうかですよね。自分の中では1個ずつ、コツコツとやるだけかなって」。

日常を確実に積み重ねることができるという、大事な、大事な才能を携えた、ブラウブリッツ秋田の“心臓”候補。勇気と献身のハードワーカー。諸岡裕人は、遂にJ2の舞台に立った。

諸岡 裕人(もろおか ひろと)
1997年1月4日生、東京都出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはミッドフィルダー。
https://twitter.com/hiroto010417
https://www.instagram.com/hiroto__morooka/

幼稚園の頃に自ら望んで始めたサッカーは、すぐに生活の軸に据えられた。小学生になるとFCトリプレッタ渋谷というクラブでプレーしながら、通っていた小学校の少年団チームにも入り、ほとんど毎日のようにボールを追い掛ける。

「当時は身体能力がちょっと高い方で、むっちりした体形で速くて、みたいな感じだったので、自分でゴリゴリ行って点を獲るフォワードでした」。ゴリゴリ系ストライカーだった諸岡は東京都トレセンにも選ばれるようなタレント。三竿健斗や小泉佳穂といったのちのJリーガーたちとともに、スペイン遠征へ行ったこともあるという。

もともとトリプレッタは自由で明るい雰囲気が特徴。「代表の米原(隆幸)さんが『サッカーは楽しまなきゃダメだろ』みたいな感じなので、やらされる感はないチームというか、良い雰囲気の、良いチームでした。あのクラブがなかったら今の自分はないと思います」。ジュニアユースまでこのクラブで過ごした10年近い日々は、諸岡にとってもとにかくサッカーを楽しむことのできた時間だった。

進学する高校を選ぶ上で、諸岡には絶対に外せない条件があった。それは『選手権に出られる学校』だ。「選手権は本当に小さい頃からの憧れで、毎年ずっと決勝を見に行っていました。特に覚えているのは大迫勇也選手の時で、どうしても選手権に出たかったんです」。いくつかの候補が挙がってくる中で、それまで聞いたこともなかった高校の存在を知る。

「中3の時に正智深谷のフェスティバルに行って、試合をしてみたらメチャメチャ強くて、『何だ、このチーム?』って。当時はそんなに有名ではなくて、自分も初めて聞いたぐらいだったんですけど、埼玉県内でも強くなってきていて、サッカーに力を入れ始めている高校だと聞いて、『そういうチームでやりたいな』と思ったんです」。最後はフィーリングを信じ、まだ選手権に出場したことのない正智深谷高校への進学を決断した。

その頃にはサイドバックを経て、現在の主戦場でもあるボランチにポジションは落ち着いていたが、立ち位置は「1年生だけでやる試合には出ていて、何回かトップの練習に行くぐらい」。激戦の埼玉県予選を勝ち抜き、悲願の初出場を果たした選手権のメンバーには入れなかった。

スタンドから見た憧れの晴れ舞台には、遠い距離を感じていたようだ。「スタジアムであんな数の人を見るのは初めてだったので、『凄いな』と思っていましたし、まだ『自分だったらもっとこういうことができたのに』という目線にはなれなかったです。『絶対に自分も来年は』という想いはありましたけど、『チヤホヤされていいなあ』という感じでしたね(笑)」。まだまだ自分が“選手権のヒーロー”になることへの現実味は乏しかった。

新チームになり、新人戦からレギュラーを掴んでいた諸岡にとって、大きな転機が訪れたのは夏のインターハイ。前線にオナイウ阿道を擁したチームは、強豪を相次いでなぎ倒し、なんと全国4強まで駆け上がる。

「あそこまで行けるとは誰も思っていなかったはずなので、『マジか!』という感じが一番強かったです」と当時を振り返る2年生ボランチだった男は、この大会が自分の未来に大きな影響をもたらしたと考えている。

「もちろん自信になる大会でしたし、それこそ阿道くんを見るために、スカウトの方もたくさん来ていて、“Jリーガー”というものをそこで初めて意識しました。あのインターハイと阿道くんのおかげで『自分も高校を卒業したらプロに行きたい』と、その時は思っていましたね」。

準決勝では優勝した市立船橋にPK戦で敗れたものの、自らのプレーへの手応えも十分。選手権予選こそ決勝で敗れ、冬の全国出場は達成できなかったが、小さくない自信と期待を膨らませて、高校最後の1年へと向かっていく。

ところが、勝負の年は想定外のアクシデントに見舞われてしまう。関東大会に優勝しながら、インターハイは県予選で敗退を強いられると、その直後に諸岡のヒザが悲鳴を上げる。「離断性骨軟骨炎という珍しい病気になってしまって、最初に行った病院では『もうサッカーを第一線で続けるのは難しい』と言われて、本当に頭が真っ白になりました」。

セカンドオピニオンを受けたことで、サッカーを続ける選択肢は与えられたが、手術することはためらわれた。なぜなら、まだ高校最大の目標を成し遂げていなかったからだ。「選手権に出たい想いが本当に強かったので、プロになるためにというよりは、『ここで潰れてもいいからやりたい』と思って、『このまま選手権までは続けます』と言いました。なので、選手権後に手術をすることは決めて、保存療法をいろいろやりながらプレーしていましたね」。

願いは、届かなかった。最後の選手権予選は準々決勝敗退。PK戦で全国への道は閉ざされる。ただ、諸岡はある種の満足感を覚えていた。「もちろん選手権に出られなくて凄く悔しかったですし、喪失感はありましたけど、自分の中ではそれ以上に3年間やり切れたというか、自分のヒザに携わってくれた方々に、そこまで仲間と戦わせてくれたいろいろな方に、感謝の気持ちでいっぱいでしたね」。あるいは選手権に出場すること以上に大切なものを得た、高校3年間であったことは間違いなさそうだ。

大学への進学も進路を模索する頃にケガを抱えていたため、決して簡単な決断ではなかった。「ヒザのこともあって大学も第一線でやるか悩みました。正直できるのか不安でしたし、『大学でサッカーができなくなった時に、何が自分に残るんだ』という想いもありましたから。でも、大澤(英雄)先生に誘ってもらいましたし、伊藤卓コーチに『プロになるためにサッカーをやるんだったらウチに来い。オマエがちゃんとやればプロになれる』と言ってもらえたので、国士舘大に入学することを決意して、ヒザも手術しました」。熟考の末に、名門として知られる国士舘大の門を叩く。

「高校やプロに入った時より、大学1年生の時が一番ビックリしました。『え、こんな人たちとやらなきゃいけないの?大学ってこんなにレベルが高いの?これ試合に出られるわけないだろ……』と思っていました。体格もスピードも全然違ったので」。国士舘大のレベルは、想像をはるかに超えていた。1年の前期はスタンドが定位置。トップチームの試合にでることなんて、夢のまた夢だった。

それでも、諸岡は後期が始まるとボランチのレギュラーを奪ってしまう。「天皇杯の予選で、最強だった明治大と対戦して勝ったんですけど、ちょうどボランチにケガ人が多くて試合に出させてもらったら、その時のパフォーマンスが凄く良くて、そこから使ってもらえたんです。あの試合が分岐点で、自分の中でも自信になりましたし、失うものはないと何も考えずにやっていたので、楽しかったです」。以降は基本的に4年生まで常にトップチームの試合に出続けることになる。

年が明けると、さらなる飛躍の機会が訪れる。デンソーカップに臨む関東選抜Bのメンバーに選ばれたのだ。1年生で選出されたのは相馬勇紀と諸岡の2人だけ。「先輩方が『どこのチームに行くの?』みたいな話をしていたので、あの大会でよりプロの世界を強く意識するようになりましたね」。充実した大学最初の1年はあっという間に過ぎ去っていく。

2017年の天皇杯1回戦ではブラウブリッツ秋田と対戦。

以降の3年間はジェットコースターのような日々だった。2年時には43年ぶりの関東リーグ2部降格を経験。1年での昇格を義務付けられた3年時には、2部できっちり優勝を果たし、1部復帰を成し遂げたものの、キャプテンを務めることになった4年時は本人曰く「地獄の1年」が待っていた。

「それこそ能力の高い選手は多かったですけど、それを自分が上手く同じ方向に導いてあげられなかったですね。キャプテンという立場を背負い過ぎたというか、自分のプレーも本当に良くなかったなと思います」。再び2部降格を強いられるなど、望んだ結果は得られなかった。

その過程で諸岡自身も未来に揺れる。「初めてサッカーをやめたいと思いました。『サッカー、楽しくないな』って。それこそ公務員にならないかという話もあって、自分の中でも『そういう道に進もうかな』と本気で思って、プロになることを諦めようかなと考えたこともありました」。そんな時に支えになったのは、やはり周囲の人の励ましと期待だった。

「『後悔しない選択をしろよ』と相談した全員の方に言われていて、『ここでこのままやめたら後悔するな』と自分でも思いましたし、やっぱり小さい頃からの夢だったので、サッカー選手になることを諦められなかったんですよね」。

いくつかのJクラブに練習参加したが、良い返事は返ってこない。だが、大学最後のリーグ戦も終わりかけていた初冬、ラストチャンスとも言えるようなタイミングで練習参加のオファーが届く。そのチームこそが、諸岡にJリーガーへの扉を開いてくれた福島ユナイテッドFCだ。

「本当に後がなかったので緊張はしましたけど、練習での手応えはありました。でも、入団が決まった時はホッとしたぐらいで、そこまで嬉しい感情はなかったですね。ここで満足していてはいけないというか、『ここから這い上がっていかなければ』と思っていました」。諸岡は福島の地で、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせることになった。

ルーキーイヤーは上々の滑り出しだった。いきなり開幕戦でスタメンに指名され、Jリーグデビュー。4-1-4-1のシャドーという慣れないポジションを任されたが、守備の部分は松田岳夫監督からも評価され、試合を重ねるごとに自信を積み上げていく。

5月。それは練習中に起きる。右ヒザ前十字靭帯断裂および内側半月板損傷。全治6か月の重傷だった。「あの時期はキツかったですね。それこそ大学の同期の飯野七聖には、自分の目の前でJ2昇格されましたし、そういう選手たちを見て、何もできない自分のもどかしさは凄く感じていました。『ああ、半年もサッカーできないんだ』って。メチャメチャ辛かったです」。

「もちろんいろいろな方に支えてもらいましたけど、一番の支えは親の存在でした。小学生の頃から何不自由なくサッカーをやらせてもらって、プロになる時も『オマエのやりたいようにやれ』と背中を押してもらいましたし、開幕戦に出た時は本当に喜んでくれたんです。恩返ししたいと思っていた中でのケガだったので、キツかったですけど、『親にもう1回サッカーをしている姿を見せたいな』という想いは一番強かったですね」。

大ケガから1年と1か月後。諸岡はJリーグのピッチに帰還する。「『ああ、生きてるなあ』って。それまでもサッカーしかやってこなかったので、生活も含めて充実感のない日々を送っていた中で、グラウンドに立って、また試合に出られた時は『これだわ』という感じでした。『サッカーがなかったら、自分には何もないんだな』って(笑)」。その時の感慨を忘れることは、決してない。

2022年シーズンは飛躍の年となった。不動のレギュラーとして、J3リーグでも32試合に出場。さらにプロ入り4年目にして、念願の初ゴールも記録してみせる。「自分の中ではそんなに気にしていなかったですけど、4年間でノーゴールということはメチャメチャイジられていました。あのゴールは自分でも鮮明に覚えていますし、気持ち良かったですね」。1年を戦い抜いたことで、確かな手応えを得た諸岡は、決断する。

「年齢も年齢でしたし、上のカテゴリーからオファーをもらったら絶対にチャレンジすると自分の中では決めていました。もちろん福島ユナイテッドはJリーグに自分を導いてくれたチームなので、本当に感謝していますし、J2に上げられるのがベストでしたけど、それが叶わなかった中で、自分もラストチャンスぐらいのオファーだと思ったので、『すぐに行きたい』と自分の中での意思は固まっていました」。熱意あるラブコールを送られたブラウブリッツ秋田へと加入。新たなシーズンは、キャリアで初めてJ2へと挑戦することとなった。

これからの夢を尋ねると、少しだけ時間を置いて返ってきた答えは、なかなか振るっていた。「幸せになることですね。目標は『J1でプレーする』というハッキリしたものがありますけど、夢は自分が幸せになることと、自分の周りの人を幸せにしたいです」。

素敵な考えだし、素敵な答えだ。自分が幸せになって、自分の周りの人を幸せにしたい。その幸せの連鎖の中心を、これからも自らの人生を捧げてきたサッカーが占めていくのだとしたら、それはもう諸岡にとっても、彼を応援しているさまざまな人たちにとっても、最高以外の何物でもない。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

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ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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