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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 新井栄聡編

自分に対する揺るがぬ自信は、ずっと持っている。試合に出られなければもちろん悔しいし、その気持ちがなくなったら、プロサッカー選手を続けていくのは難しいことも十分に理解している。ただ、最近は少し自身の感覚が変わってきていることも、同時に感じている。

「チームのために動くことと、自分に来たチャンスには絶対に乗ってやろうという想いは強いですね。最近は考え過ぎていないというか、シンプルな感じはあります。ずっと『爪痕を残してやろう』と意気込んでいましたけど、今はフラットに『目の前の仕事をまっとうしよう』と思っています」。

ブラウブリッツ秋田を下支えするゴールキーパー。新井栄聡はさまざまな経験を経て、個人とチームが絶妙に成り立つバランスを見つけ始めている。

新井 栄聡(あらい よしあき)
1995年9月27日生、埼玉県出身。
2021年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはゴールキーパー。
https://twitter.com/budaigk01
https://www.instagram.com/yoshiaki000/

きっかけは休み時間だった。何気なくみんなとボールを蹴っていたら、自分が一番上手いことに気付く。サッカーをやりたいという想いが湧き上がり、父親にそのことを話したが、2人の思惑は食い違う。「もともと父親はずっと野球を僕にやらせたくて、断固拒否されましたけど、『市で一番強いチームだったらいいよ』ということになって、やっとサッカーを始められたんです。それでもサッカーが休みの日は、野球をやらされてました(笑)」。

当時から身長は高く、クラスでの背の順は常に後ろから3番目以内だったが、“大型キーパー”ではなかったという。「キーパーは小学生の時は1回もやっていないんです。ポジションは3-1-3-3のシステムの“1”に当たるアンカーだったので、守備も攻撃もやっていましたね」。地域のトレセンにも選ばれるような“大型ミッドフィルダー”が、その立ち位置だった。

だが、そんな新井少年に大きな挫折が訪れる。自信を持って挑んだあるJクラブのジュニアユースのセレクションで、伸びかけていた鼻をぽっきりとへし折られてしまう。「結構順調に通過していったんですけど、僕はあくまでセレクション組の掘り出し物の1人だったんです。最後の試合でもう入団が内定している子たちが入ってきて、その選手たちが上手過ぎて、『自分が足を引っ張るってこういうことなんだ』って。それで『サッカー嫌だな』って思ったんですよね」。

強烈なショックは、意外な行動を呼び起こす。「ずっと坂戸ディプロマッツのスクールに行っていたんですけど、なんかいきなり『キーパーでセレクションを受けます』って言ったんですよね」。正直、当時の心境はあまりはっきり覚えていない。「あの時の僕は、もうフィールドでは無理だと思ったんです。だったら『なんかキーパーやりたいな』って」。この時の決断が新井のその後を大きく左右することになるのだから、人生は不思議なものである。

中学3年生になると、新井の元には複数のチームからゴールキーパーとしてオファーが届く。その中から地元・埼玉の西武台高校へと進学。周囲のレベルも高く、なかなかすぐには試合出場も叶わなかったが、3年時にはレギュラーを獲得する。高校選手権の全国大会には縁がなかったものの、高校での3年間はとにかく人間性を磨く時間になったそうだ。

「高校は徹底的に人間力を身に付けた時期です。本当に1日1日の学校生活からサッカー中心になりましたし、『隣の席のサッカー部じゃない生徒に応援されないと、チームも応援されないんだよ』とも言われていたので、『自分が愛される選手にならないと、チームも愛されるチームにならない』と思っていたんですけど、3年生になって気付いたらみんなが応援してくれるようになっていて、それは大きかったですね。どんどん人として成長したなって。自分の器が“お猪口”から“コップ”ぐらいになりました(笑)」。

高校時代はそこまで意識していなかったが、大学はプロになることを念頭に置いて、より競争力の高い流通経済大学を選択。確かな自信を抱いて入学してみると、イメージしていたような立ち位置は、まったく用意されていなかった。

「1年生のトップチームにも入れなかったですし、お先真っ暗状態からのスタートでした。立ち位置がなくてどうするという時に、トップチームのサテライトがあって、そこに1年生で1人だけ行かされたんです。大平正軌コーチがトップの練習の後に見てくれていたので、僕たちは『大平ジャパン』って言っていましたけど(笑)、そこで1年生で1人だけ、3,4年生の上手い人たちの中に入って練習していましたね。そのチームは公式戦には出られないんですけど、なかなか濃い1年でした」。

成長のきっかけはどこに転がっているかわからない。2年時からは当時JFLに在籍していた流経大ドラゴンズ龍ケ崎でプレー。3年時に出場したアスルクラロ沼津戦では、相手の監督が吉田謙であり、青木翔大もスタメンでプレー。中村亮太にはゴールも奪われるなど、今は同じピッチで戦っているチームメイトたちと対峙していたのも面白い。

関東大学リーグデビューは4年時の開幕戦。ようやく辿り着いた舞台に、新井のやる気は空回りする。「オレのせいで負けた試合でした。自分は全然緊張しないタイプなんですけど、硬くなっていましたね。しかも僕らの代は最強だと言われていたので、『頑張らなきゃ』という気持ちが強すぎて、いつの間にか失点していて……。『オレのせいで負けた』と思いました」。

第2節からはまたベンチを温める日々に逆戻り。寮長を務めていたこともあり、チームの輪を何よりも尊重していたものの、実際のメンタルはボロボロだった。「チームが勝って嬉しい想いもありましたし、絶対に自分の方が良いという自信もずっとありましたけど、実際に開幕で結果を残せなかったので、初めて『サッカーをやめよう』と思いましたね。チームはちゃんとまとめるけど、就活して、もうサッカーはやめようかなと」。

そんな矢先のことだ。試合に出ていなかったゴールキーパーは、6月にJ1の清水エスパルスへの入団が内定する。「4年になるプレシーズンの時期に、清水が練習用にキーパーが1人欲しいということで、キャンプの全日程に帯同したんですよ。正直手応えはそんなになかったんですけど、自分の良さは出せた印象があって、そのキャンプでたぶん評価されたんです。そのあとも何回か練習参加したんですけど、身長も高くて、ビルドアップができて、サッカー観もあるという評価で清水からオファーをもらったので、全然躊躇はなかったですね」。

他にも興味を持っているチームの話は聞いていたが、清水への加入を即決する。にわかには信じがたいシンデレラストーリーのように思えるが、それは意外な幸運と、確かな実力が溶け合った、ある意味で必然の結果だった。

“プロ内定選手”という肩書きも得た新井は、改めて後期リーグからのスタメン奪還を掲げ、高いパフォーマンスを維持していたが、好事魔多し。9月に参加していた清水の練習で左手首を骨折してしまう。「自分のチームで主力の立場でいる中で、他のチームの練習でケガして帰ってくるって最悪じゃないですか。もうスタッフに見せる顔もなくて、『終わった……』と思いましたね」。全治は3か月。大学最後の大会となるインカレにも間に合わないような重傷だった。

ところが、わずかな希望の光が差し込んでくる。「ドクターが『手術じゃなくて自然治癒にしたら、インカレには出られるかもしれないよ』って。『練習はできるかわからないけど、インカレのメンバーには入れるかもしれない』と。それで自然治癒を選択して、部屋のベッドの天井に『インカレ』って書いた紙を貼って、それを毎日見ながら過ごしていたんですよね」。

12月16日。インカレ初戦。新井は流通経済大のゴールマウスに立っていた。「奇跡的にインカレが始まる1か月ぐらい前にギプスが取れて、3週間前ぐらいに復帰できたんです。身体も凄く動いていましたし、気持ちも乗っていたので、テーピングはぐるぐる巻きでしたけど、痛みを忘れてプレーできたんですよね。『間に合った!』という感じでした」。

結末はあまりにも出来過ぎだった。「もうすべてが揃って、泣きました。嬉しさも、楽しさもありましたし、こんな最高の仲間ともうサッカーできないんだというのもあって、もう“何泣き”だったかわからないです(笑)。一番最後までサッカーができて、優勝できて、本当に最高でした」。

流通経済大はインカレで頂点に立つ。優勝に大きく貢献した新井は大会のベストGK賞を受賞。関東大学リーグの出場は4年間でわずかに1試合。一時はケガで絶望視されながら、不屈の闘志でピッチに帰ってきた“大型キーパー”は、日本一という最高の結果を手土産に、プロの世界へと足を踏み入れることになる。

「本当にプロのレベルを痛感させられた1年でした。またキーパーとして一から出直しだなって。自分が今までプロになるまで積み上げてきた知識を、また一から勉強しないといけないんだなと。でも、やれていない感覚はなかったので、この準備の質を上げていければ、試合に出られるとは思っていましたね」。

これが清水に加入したルーキーイヤーの率直な感想だ。それでも、一向に公式戦の出場機会は訪れない。ツエーゲン金沢に期限付き移籍したプロ2年目も、清水に復帰したプロ3年目も、リーグ戦とカップ戦を通じた公式戦の出場試合はゼロ。そんな苦しい時間を過ごしていた新井を支えていたのは、大学時代の同期の存在だった。

「守田英正(サンタ・クララ/ポルトガル)の存在は大きかったですね。アイツがちょうどフロンターレで大ブレイクして、代表に行くか行かないかぐらいの時だったので。あとは今津佑太(サンフレッチェ広島)、ジャーメイン良(ジュビロ磐田)、渡邉新太(大分トリニータ)がJで活躍している姿があったので、それを見て『負けてられないな』と思いましたし、凄く刺激が入ってきましたね」。

2021年にブラウブリッツへ完全移籍で加入。この年にプロ4年目でようやくリーグ戦デビューを果たし、トータルで公式戦6試合に出場したが、実は一度も勝利が付いてこなかった。「メッチャ気にしていました。ずっと調子は良くて、ずっと『次は出してよ』って思っていましたけど、パッと使われる試合で負けているので、そこで『何だよ、オレ。全然ダメじゃん』って自分を凄く責めていましたね」。

今シーズンは第6節から2試合続けてスタメン起用されるも、どちらも0-0のスコアレスドロー。「仕事をしている感じはありましたけど、『失点ゼロなんだから点を獲ってくれよ』と思いました(笑)」とは偽らざる本音だろう。そして、第8節。いわてグルージャ盛岡戦で、とうとう新井にプロ入り後の公式戦初勝利が記録される。

「初勝利という実感は全然なくて、チームとして勝てたことが凄く大きかったなって。稲葉くんがメッチャ喜んでくれたので、『ああ、オレの初勝利か。ちょっと嬉しいな』と感じたぐらいです。自分で『全然ここじゃない』って思っているんでしょうね」。こぼれ出た『全然ここじゃない』という表現は、何とも彼らしいフレーズだ。

決して順風満帆に進んできたサッカーキャリアではない。とりわけ大学以降は、試合に出られない時間の方が圧倒的に多かった。それゆえに、今は自分の中での思考がよりクリアになってきたようだ。

「去年は試合に出られなくて、もどかしくて、『何で使わないの?』って思っていましたけど、『使われないならセカンドキーパーとしてチームをしっかり盛り上げよう』みたいに、大学の時の気持ちに戻りましたね。結局試合で結果を出せなかったから、使われ続けなかっただけなので、『結果を出せばいいんだろ』という闘争心は凄くあって、今は目の前のプレーをちゃんとやろうと考えています」。

最後に新井にこう聞いてみた。「なんでこのポジションを選んだんだろうって思いますか?」。すぐにこう答えが返ってくる。「はい。生まれ変わったら、絶対やらないと思いますね。とか言って、絶対にキーパーをまたやるんでしょうけど、やっぱりフォワードとかフィールドをやりたいですよね。点を獲りたいんで(笑)」。

他のポジションとは訳が違う。コンバートもない、試合中の配置転換もない、唯一無二のポジションだ。最初は何気なく始めてしまったそのゴールキーパーが、今では自らの職業になっている。

自分に対する揺るがぬ自信は、ずっと持ってきた。だからこそ、極めたい。もっと高い景色まで辿り着きたい。その野望を個人としてだけではなく、チームとともに、チームメイトとともに成長していくことで成し遂げていく自信も、今の新井ははっきりと携えている。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/


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