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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 圍謙太朗 編

反骨心をエネルギーに、ここまで突っ走ってきた。試合に出られることが当たり前ではないと、順風満帆とは言い難い日々の中で痛感してきた。それでも、支えてくれる家族のために、応援してくれる人たちのために、自分にできることを必死で見つけて、前だけを向く。

「今はメチャクチャ充実していますね。本当に自分が目指している世界に手が届きそうだなという未来がうっすら見えてきた感じがあるので、このままもっともっと成長していけたら、それを掴み取れるんじゃないかなとは思っています」

ブラウブリッツ秋田で過ごした1年半の時間でも、とにかく真摯に今と向き合っていた苦労人。190センチの体躯を誇るビッグセーバー。圍謙太朗はいつだって自分の可能性を信じて、プロサッカー選手という茨の道を突き進んでいく。

圍 謙太朗(かこい けんたろう)
1991年4月23日生、長崎県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはゴールキーパー。
2024年夏、京都サンガF.C.に移籍。
https://www.instagram.com/kentaro_kakoi1/

両親がバレーボール経験者という環境で育った圍は、自身も同じ競技を始めるものだとずっと思っていた。ただ、通っていた小学校にバレーボール部がなかったため、隣の小学校のバレーボール部へ入部しようとすると、意外な事実を伝えられる。「『練習に来るのはいいけど、試合は出れないよ』と言われたんです」

最初は“体力づくり”の一環のつもりだった。小学校3年生の終わりごろに、土井首サッカースポーツ少年団へ入団。4年生からゴールキーパーを始めたものの、あくまでバレーボールへ本格的に取り組むための準備期間という位置付け。サッカーを長く続けるつもりはなかったという。

大きな転機は5年生の時に訪れる。長崎市トレセンに選出されていた3人のゴールキーパーの中で、圍だけが長崎県のトレセンメンバーから落とされてしまうのだ。「自分だけ落とされたので、そこから負けず嫌いを発揮して、本気になったんですけど、それがなかったらサッカーをここまで続けていたかわからないですね」

悔しい経験が根っからの負けず嫌いにスイッチを入れる。そこから真剣にゴールキーパーと向き合い始めると、6年生の時には県を飛び越えて九州トレセンに選出。そのエピソードだけで、もともと備えているポテンシャルの高さが窺い知れる。そして、この九州トレセンでその後の進路を大きく左右する出会いがあったのだ。

その人は当時大津高校のGKコーチとJFAのナショナルトレセンコーチを兼任していた澤村公康。その丁寧な指導に感銘を受けた圍は、澤村がベースを構築した大津高校でのプレーを熱望し、長崎の地元の中学校から大津北中学校へと転校。そのまま大津高校へと入学することになる。

門を叩いた強豪校のレベルは想像以上だった。「立ち位置はメチャクチャ下じゃないですか。上の学年の先輩たちにはもちろん負けていましたし、そこに触れられるぐらいの感じでもなくて。学年の中でも3番手、4番手、あるいは5番手だったかもしれないです」。学年の1番手は当時からU-16日本代表に選出されており、現在もモンテディオ山形でプレーしている藤嶋栄介。高校入学時の身長が170センチに届かず、声変わりも終わっていなかったような圍は、彼の比較対象にもならなかった。

まったく先が見えない中で、ひたすら厳しいトレーニングが続く日々。16歳の柔らかいメンタルは、少しずつ蝕まれていく。追い込まれた末に、気付けば長崎の実家へと電話を掛けていた。「自分はプロになることをイメージしていたのに、『何をやっているんだ』という感じだったので、親に『もうやめる』って言ったんです。『もう無理だ。このまま続けていたら死ぬかもしれないんだけど……』って」

母から返ってきた言葉は、耳を疑うようなものだった。「『別にやめていいし、死にたいんだったら死んだらいいやん』って言われたんです。その時に『ああ、自分に逃げ道はないんやな。じゃあ、もう吹っ切ってやれる所までやろう』と気持ちが切り替わりました」

自分も子供を持った今なら、当時の母の心境が痛いほどよくわかる。「それって相当心を鬼にしないと言えないはずで、果たして僕が自分の息子にそれを言えるのかと考えると、母親も電話の後で泣いていたんじゃないかなって思いますね。そこが完全にターニングポイントになりました。あの時に『やめていいよ。こっちに帰ってきなよ』と言われていたら、サッカー選手にはなっていなかったと思いますし、両親も今に至るまで全力でサポートしてくれているので、それに応えようという気持ちも強いですね」。その時、腹を括った。括るしかなかった。

高校2年生に差し掛かると、圍の身長は急激に伸び始めたが、その成長に今度は身体が悲鳴を上げる。「急に身長が伸び過ぎて、頭の感覚と実際に起きていることが全然違うような感じでしたし、臓器も成長に付いてきていなくて、原因不明の病気になったり、急に高熱が出たりしたこともありました」。最終的に身長は高校卒業時に190センチ近くへ達したが、それもなかなかプラスには作用してくれない。

3年生になっても、立ち位置は大きく変わらない。「練習もトップチームの30人ぐらいが正規のフルピッチを使えるんですけど、それにも入れない100人ぐらいがやるような、何とかシュートを打てるスペースにゴールを4つ並べた狭い所で、3年間練習をしていました。当時を知っている人からすれば、自分がプロになるとかありえない感じだったと思います」。卒業までにトップチームでの出場機会は一度も巡ってこなかった。

ただ、ハードな日常を共有したゴールキーパー陣の絆は、とにかく固かった。「僕らは寮のお弁当を食べていたんですけど、栄介は自宅から通っていたので、『栄介、おかず交換しようよ』とか言って換えてもらって(笑)。キーパーはドロドロだからって、部室にも3年生になるまで中に入れなかったので、自分たちでブルーシートを張って、家みたいにして5人集まっているみたいな感じでしたね。今も悔しい時には、試合に出られない中で一緒に頑張ってきた仲間の顔が浮かびますよ」。かけがえのない仲間とは、今でも人生を相談し合う仲だという。

さらに語り落とせないのは、何者でもなかった自分へ常にポジティブな言葉を送り続けてくれた佐藤達朗GKコーチの存在だ。「『オマエは絶対にプロになれるから』とずっと言ってくれていたんですよね。今でも達朗さんにはアドバイスをもらいますし、思っていることがあっても、タイミングが今じゃないという時はあえて僕には言わないんです。かなり信頼していますし、恩返ししないといけない人だなと思っています」

大津での3年間を、圍はこういう言葉で総括する。「人間力を付ける期間だったなと。サッカーが上手くなるうんぬんより、人として大切なことを学んだ3年間でしたし、両親に相談するまではずっと結果に囚われていたんだろうなって、そこからは成長することだけにフォーカスして取り組んできたので、プロになってからも浮き沈みのあるキャリアですけど、あの時の想いがあるからこそ、常に成長することを大前提に置きながら、ここまで来ているのかなと思います」。もがいて、もがいて、もがき切ったからこそ、今がある。そう振り返ることのできるキャリアを、その後の圍は辿っていく。

サッカーを続ける決意を固め、関東のある大学への推薦入学が決まりかけていた圍に、想像もしていなかった選択肢が浮上する。恩師の澤村が主宰するGKスクールへ手伝いに行った際に、指導者として参加していた桃山学院大学の田中慎太郎GKコーチが、そのポテンシャルと人間性を高く評価し、声を掛けてくれたのだ。

「慎太郎さんが試合にも出ていない選手に直接大津まで会いに来てくれて、『推薦で獲る』と言ってくれたので、『そんなに熱意を持ってくれるなら』という形で行くことになりました」。不思議な縁に導かれ、高校時代の実績がまったくなかったにも関わらず、圍は関西学生リーグ1部の桃山学院大学へと進学することになった。

「大学時代を一言で言うと、“発表会”みたいな感じでした。今まで根を張り続けて、やっと表に出られたというか、『こんなに見てもらえるんだ』という楽しさと、『それによって生まれる責任があるんだな』ということを凄く感じた4年間でした」

4年間に渡って繰り広げられた“発表会”のスタートは唐突にやってきた。リーグ開幕戦で正守護神が肉離れで離脱すると、2番手だった先輩も紅白戦でまさかの脱臼。開幕3試合目にして、入学したばかりの1年生に公式戦デビューの機会が回ってくる。

「ほとんど記憶はないですね。『何年ぶりの公式戦や?』みたいな(笑)。アップの時もガチガチでボールもポロポロこぼしていたと思うんですよ。それでみんなに笑われていたのだけは覚えていて、慎太郎さんにも『オマエ、大丈夫か?もう思い切りやればいいから』みたいに言われましたから」

タイムアップのホイッスルが耳に届く。スコアは1-0。その年の関西リーグで優勝候補筆頭とも目されていた関西大学相手に、完封勝利を収めてしまう。「僕は何もしていないですけどね。そもそも記憶がないので(笑)。運だけで乗り切った感じです」。ようやく公式戦の舞台を経験した圍は、ここから陽の当たる場所を歩いていくことになる。

1年時にはリーグの新人賞を受賞。2年時にはリーグ最少失点の守備陣を支え、関西制覇に大きく貢献すると、その実力が認められて全日本大学選抜に選出される。そこで再会したのは、高校時代はその後ろ姿すら見えなかったかつてのチームメイトであり、福岡大学へと進学していた藤嶋だった。

「全日本の中でも栄介の方が立ち位置が上だったので、『自分はまだまだだな』と思えたことはかなりのターニングポイントでした。『やっぱりオレはまだ這い上がらないといけない』と、もう1回自分の実力を見直せたタイミングで、その後が大学時代で一番伸びたと思っていますし、全日本に選んでもらえたのは自分の人生の中でかなり大きかったですね」

今でも覚えている瞬間がある。4年生の7月にロシアで開催された国際大会、ユニバーシアードの初戦当日。大事な一戦に臨む日本代表のスタメンリストには、それまで藤嶋のサブという位置付けだった自分の名前が書き込まれていたのだ。

「ずっと栄介が出ていたんですけど、試合当日にキーパーの所だけが変わっていたんです。その時は本当に身体が熱くなりましたね。当日までわからなくて、本当に『最後の最後で一番手を取った』みたいな感じでした。『やっと高校時代の悔しかった想いを吐き出せる場が来たな』と」

結果的に2人のゴールキーパーは3試合ずつ出場し、チームは銅メダルを獲得するが、圍の中には今まで覚えたことのない感情が芽生えていた。「一番手になれた喜びはありましたけど、いざそうなってみると『何で栄介に勝ったとか、負けたとかに固執していたんだろう?』って、そこで気付かされましたね。『固執するのはそこじゃないよな』って。だから、『2人でチームを勝たせるぞ』という感じの方が強くなって、『栄介の分まで頑張らなきゃ』と感じていました」

「栄介も言ってくれているんですけど、本当にライバルとして常にやってこれて、お互いに良い意味で影響し合っていると思うので、あの大会でもまた成長させてもらいました。でも、『まだまだだね』とは常に2人で言っています」。試合に出たいと渇望し続けてきた男は、その先にある新たな扉を開ける。それまで溜めに溜めたエネルギーをすべてぶつけた4年間は、サッカーを続けてきた自分をポジティブに肯定できた、大事な、大事な“発表会”だったのだ。

「サッカーを職業にすること以外は考えていなかった」という圍は、3つのチームから獲得の興味を伝えられていた。FC東京。セレッソ大阪。アビスパ福岡。そのすべてに練習参加した上で、熟考の末に自分で答えを導き出す。

「どのチームもいいなと思っていたんですけど、試合に出ることとベンチに入ることを考えた時に、一番困難だったのがFC東京だったんです。そもそもどこに行ってもチャレンジだったので、それなら大きいチャレンジがいいなと思いましたし、日本代表がいるチームを選んで、そこで盗めるだけ盗んでやろうという気持ちで入りました。結局、その3チームとも行くんですけどね(笑)」。選んだのは首都のクラブ。現役日本代表の権田修一が守護神を務めていた、FC東京への加入を決断する。

「『こんなに試合ってないんだ』と思いました。最初の2年間で90分の試合をやったのは、3人がプロであとは全部ユースの選手というメンバーで、専修大学とやった練習試合だけで、あとは長くて15分ぐらいの出場でしたから」

2014年と2015年。プロ入りしてからの2年間で、圍は1試合も公式戦に出場していない。トレーニングのレベルも高く、発見ばかりの日々を過ごしていたものの、それを実戦で試す機会はほとんど訪れない。当時のFC東京のGKアドバイザーだったイタリア人のエルメス・フルゴーニ氏からは、こんな言葉をよく掛けられていたという。

「『オマエはフェラーリだ』とずっと言われていました。『オマエはフェラーリのエンジン、フェラーリの材質を持っているけど、乗る運転手がいないな』って(笑)。『そこを生かすヤツがいないから眠っている。オマエが爆発したら川島(永嗣)以上に爆発するのに』と言ってくださっていたんです」

「その意味はベテランになってからわかりました。まず、自分の身体を知っているようで知らなかったなって。身体の動かし方が毎回バラバラでしたし、生まれ持った能力だけでやっていたんだなという感覚ですね」。2年目に長期の負傷離脱を強いられた際に、自身の身体について改めて勉強し直したこともあったが、フルゴーニ氏の言葉の真意は、今ならより理解できているそうだ。

プロ3年目。とうとうJリーグデビューの瞬間がやってくる。2016年3月13日。カテゴリーはJ3。この年から創設されたFC東京U-23の一員として、SC相模原と対峙したアウェイゲームがその舞台だった。

「久しぶりに試合をするのが怖かったですよ。高揚感はありましたし、自分のプレーに没頭していました。結構ボールが来たイメージはありますけどね。ただ、『こういう舞台で怖いという感情が出るんだったら、トップの試合に出る時はどうなるんだよ……』という自分に対する残念な気持ちもありました」。試合に0-1で負けたことも、実際のところはあまりよく覚えていない。

このシーズンはJ3で21試合に出場。時にはメンバーの大半がユース所属の選手という試合もあり、モチベーションを保つのが困難な状況もあったはずだが、圍は当時をこう思い出す。

「ユースの子たちも本当に手を抜かずに必死だったので、試合をやるごとにまとまっていった感じがあって、自分たちもユースの試合を応援に行き出したんです。だから、ユースまで含めて1つのチームみたいな感覚がありましたし、その時に出ていた子たちもプロになっているじゃないですか。本当にいいヤツが多かったので、そこに助けられた部分もあったのかなと思います」

目の前の試合に勝ちたいという想いは、プロであろうと、ユースであろうと、サッカー選手であれば自ずと湧いてくる感情だ。試合に出ることの意味を誰よりもよく知っている25歳のゴールキーパーが、より高みを目指す若者たちに確かな影響を与えていたことは想像に難くない。

FC東京に在籍した3年間で、トップチームでは1試合だけ公式戦のピッチに立っている。2016年4月20日。味の素スタジアム。ACLのグループステージで対峙したのは、この大会を制した韓国の全北現代モータースだった。

「それは秋元(陽平)さんからしっかりポジションを奪って出た試合だったんです。でも、完全なワンサイドゲームで、ずっと攻められていたゲームでした。やっと自分に来たチャンスだったんですけど、難しかったですね。やっぱりアジア王者なのでメチャメチャ強かったです」。試合は0-3の完敗。次の試合からは、また秋元がゴールマウスに戻っていった。

「今は若いゴールキーパーもバンバン試合に出ていて、それはコロナ禍から変わったと思うんですけど、当時はどのチームを見ても『若いヤツが出るのは難しいよね』という風潮だったんですよね。今だったらたぶん『次も見てみよう』ということになっていたのかなって。自分としては納得して次に向かいましたけど、そういう時代との巡り合わせもあったのかなと思います」

「でも、そこは自分が“持って”いなかったのかなって。やっぱり感覚重視というか、常に成長を一番に考えてやっていたつもりでしたけど、結局は自分と向き合えていなかったんだろうなと思っています」。貴重な“トップチームでの1試合”を経験した圍は、翌2017年シーズンにセレッソ大阪へと完全移籍を果たす。

セレッソに在籍した期間で一番の収穫は、キム・ジンヒョンの一挙手一投足を間近で見ることができたことだ。「『次は韓国代表選手を見てみたいな』と思ったのが、セレッソに行った決め手だったんですけど、今まで一緒にやってきたキーパーの中でジンヒョンさんが一番凄いです。別格ですよ。すべてが高水準で、あの人こそ韓国と日本のハイブリッドなんじゃないかなって」。韓国代表選手はやはりスーパーだった。

プロキャリアを振り返る上で、語り落とせないのは2018年シーズンだ。いくつかのクラブからオファーが寄せられていた中で、圍が選んだのはアビスパ福岡への期限付き移籍。プロ5年目のシーズンだったこともあり、ここでのパフォーマンスが今後のサッカーキャリアを左右することは、十分すぎるほどに理解していた。

「行く時は追い込まれていましたね。レンタルで行ったチームで出られなかったら、もう終わると思っていましたし、『これでダメならトライアウトに行って、そこで引っかからなければ引退かな……』とも思うような中で、『とりあえずこの1年をやり切ってみよう』と。何としても試合に絡んで、大学で起きたことぐらいの結果を残せたらなって、淡い期待を持ちながら福岡に行きました」

覚悟を携えて挑んだ1年で、圍は改めて自身の評価を高めることに成功する。J2リーグで26試合に出場。チームのスタイルにもフィットし、ストロングポイントを十全に生かせている実感もあった。

「自分のプレースタイルに合うチームでしたし、人間的な部分も見てくれるチームだったので、自分にとってはもってこいの環境でした。メチャクチャ楽しかったです。プロになってから一番伸びている感覚がありましたね。あの1年がなかったら、今ここにいないですよ」

勝負の年に果たした飛躍。翌シーズンはセレッソに戻り、しっかりとボールを繋ぐスタイルを標榜するロティーナ監督の元で、新たなサッカーの魅力を知りながらも、出場機会には恵まれなかったこともあって、2020年シーズンには松本山雅FCへと完全移籍。今度は信州の地に活躍の場所を求める。

2シーズンの在籍期間で印象に残っているのは、やはりあの360度を緑のサポーターに囲まれたスタジアムの光景だ。「やっぱりアルウィンと山雅のサポーターは唯一無二ですよ。本当に凄いです。むしろ『あそこでやりたい』というのが一番の決め手で山雅に行ったところもあるので、とにかく試合の時はシビれましたね。『この人たちを背中に感じて守れるんや』と」

待望していた“再会”も実現した。2021年3月14日。アルウィン。相手はモンテディオ山形。「前日は連絡を取っていなくて、暗黙の形で2人ともフェアにやりたいと思っていたので、そこは試合に出るかどうかは聞かずにいましたけど、週の頭には『試合に出たら頑張ろうね』って連絡はしました」。高校時代の同級生。圍と藤嶋はピッチの一番遠い場所で、お互いに向かい合う。

「楽しかったなという思い出しかないですね。『ああ、栄介、こんなプレーするようになったんや』とか思いながら、周りの方がすごく喜んでくれたので、お互いにそれが一番嬉しかったですけど、引き分けならお互い無失点が良かったなというのが正直な気持ちです(笑)。点が入るなら勝ちたかったなって。でも、お世話になったコーチの方からは『引き分けで良かったな』って言われましたね」。スコアは1-1。どちらも勝てなかったが、どちらも負けなかった。

コロナ禍の最中だったこともあって、ユニフォームはロッカールームに戻ってから新品のものを交換した。「メチャクチャいい記念というか、普通じゃあり得ないユニフォーム交換の形だと思うので、宝物になるかなって」。プロ8年目で果たされた奇跡的な再会は、彼らを見守り続けてくれた多くの人たちへ、2人から贈られる最高のプレゼントになったはずだ。

迎えた2022年シーズン。圍は年が明けてもプレーするチームを見つけられないでいた。「東京でずっと身体を作っていて、それこそ小学生と雨の中で、土のグラウンドでドロドロになりながら練習したりもしましたし、それぐらい初心に返ってやっていたんです」。最終的に声を掛けてくれたのはJ3のSC相模原。ギリギリでのオファーに感謝しつつ、不退転の覚悟で入団を決意する。

「改めてサッカーが大好きになった1年でしたね」。そう言い切れるだけの日常が、そのチームにはあった。クラブハウスもなければ、練習後の食事もなし。近くの水道で身体を洗うような環境に最初は驚いたものの、それでも自分より年長のベテランたちが、文句1つ言うことなくサッカーと向き合う姿勢に、少しずつ感化されていく。

「最初はその環境に『マジか……』とは思っていましたけど、隣でミズさん(水本裕貴)とか(藤本)淳吾さんとか(鎌田)次郎さんとか、自分が学生の頃から試合に出ている方たちが、水を浴びたりしているんですよ。それを見たら『どんな若造が文句言ってんねん』と思って、自分の心をもう1回磨き直そうと思いました」

大ベテランのゴールキーパーとの出会いも、圍にとっては重要なものになった。「シバさん(柴崎貴広・現ヴィッセル神戸強化部)は凄いです。メチャクチャ尊敬していますね。そもそも40歳を超えた人の動きではなくて、『行くところに行けば絶対に一番手で出れるじゃん』というプレーをするんですよ。だから、自分も絶対に隙を見せられなかったですし、シバさんに会えたことで現役生活が1,2年は伸びたと思います」。今でもアドバイスをもらうこともあるという柴崎から学んだものも、自身のプレーに小さくない影響を及ぼしている。 

相模原を契約満了になった2022年のオフシーズン。圍の元にはJリーグ入りを目指すクラブからのオファーが届く。「僕は自分にできることがあったら選手の価値改善のために動こうと思って、実は会社もやっているんですけど、そっちに一本化して、『選手をサポートする側に回ろうかな』と思う自分もいた中で、そのクラブは両方を両立させていましたし、この先のビジョンを聞いても、自分に合っていることは凄く感じていました」。ほとんど加入は決まりかけていた。

ただ、そんな圍の獲得を諦めていないクラブがあった。監督、GKコーチ、強化部長が揃って会いに来たミーティングで、その気持ちは覆る。

「謙さん、ヒロさん、強化部長が来てくれたんですけど、僕のプレー動画を作ってくれていて、なぜ自分が必要かを言われた時に、僕が思っているストロングポイントと、チームが思ってくれているそれがまったく一緒だったんです。そこで今まで考えていたことが全部ぶっ飛んで、『この監督とやりたい』と思ったんですよね」

“謙さん”や“ヒロさん”が誰かは言うまでもないだろう。2023年シーズン。プロ入りした時と同じ31番を背負ったゴールキーパーが、ブラウブリッツ秋田に加わる。そこから1年半。ほとんどの公式戦で、圍は最後方からチームメイトを鼓舞し続け、強固なディフェンス陣を支え続けてきた。

クラブスタッフ、フロントスタッフ、サポーター。このクラブに関わるすべての人の想いを背負って、ゴールマウスに立ち続けてきた。「そういう人たちの人生も、試合に出ている11人が背負っているわけじゃないですか。『秋田一体』と言っているのであれば、そこまで考えて戦わなくてはいけないと思っています。いろいろなことを変えるためには勝ち続けることで、それをやれるのは選手たちなので、まずは自分が一番やらないとなって」。常に自分の100パーセントを注ぎ込んできたことも、胸を張って言える。

今年で33歳。残されたキャリアの時間を考えれば、J1への挑戦を止める権利はもちろん誰にもない。京都サンガF.C.への移籍を決意した圍は、クラブを通じてこんな言葉を残している。

「ブラウブリッツ秋田と共にJ1へ昇るという道半ばでチームを離れることは、簡単な決断ではなかったです。京都サンガF.C.からオファーをいただいた時、有難いことにチームから全力で引き留めていただきました。なので、この移籍は自分のわがままです。秋田で磨いた武器を引っ提げて、次の道でも躍動し続けたいと思います。年齢は関係なく挑戦し続ける姿、成長し続ける姿をみせたいと思います。秋田がJ1へ昇ることを心から信じています。そして、京都を必ずJ1に残留させます。来シーズンはJ1の舞台で闘いましょう。本当に秋田が大好きです!!秋田のゴールを守れて幸せでした!!また会いましょう!!ありがとうございました!!」

きっとこのメッセージに嘘は1ミリも混じっていない。移籍が決まる前に話を伺った最後の最後。彼が静かに明かしてくれた言葉を、ここに紹介しておこう。

「今年も最初の方は手の指を骨折していたんです。そこはまだ腫れていますけど、もう自分がメラメラしてやってやろうと。それぐらい懸けられるチームかなと思っています。こんなに秋田のことを好きになるとは思わなかったですよ」

漢気にあふれた、まっすぐな守護神。圍謙太朗のこれからに幸多からんことを。

(取材日:2024年7月4日)

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
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