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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 梶谷政仁編

自らの望んだようなキャリアを歩めなかったチームメイトたちも、たくさん見てきた。あるいは、自分より上手かったであろう、自分より上に行けたであろう、そんなチームメイトたちがキャリアにピリオドを打つ姿も、間近で見てきた。だからこそ、背負う。サッカーをプロのステージで続けることで、そこに届かなかった仲間が託してくれた想いを、少しでも。

「その時々のチームメイトで『もっともっと上に行けただろうな』という選手もたくさんいましたし、『こんな良い選手なのにサッカーをやめるんだ』と感じることもあって、だからこそ、そういう人たちの想いを背負ってやっていくことが必要だと思いますし、自分が活躍することで、『オマエらだってきっとプロになれたよ』ということを証明できるようにしてきたいなとは、ずっと思っています」。

ブラウブリッツで着実に成長を続ける若きストライカー。梶谷政仁は多くの人の期待をその背中に感じながら、サッカーとともに生きる日々の大切さを噛み締めている。

梶谷 政仁(かじや ゆきひと)
2000年3月9日生、埼玉県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に期限付き移籍加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/kajiyuki_17
https://www.instagram.com/kajiyuki_15/

もともとは野球を始めるために、そのグラウンドへと足を運んだという。「幼稚園の時から野球が好きだったので、通っている精華小学校の野球チームの体験練習に行きたいと思って見学に行ったら、その時にたまたま横のグラウンドでやっていたサッカーチームに勧誘されたんですよね」。

野球チームの監督が怖そうだったことと、周囲の友達にサッカーをやっている子が多かったことが、梶谷少年の心を翻らせる。結局選んだのはサッカーチーム。よくよく考えると、この決断は人生の大きな分岐点だったのかもしれない。

1年生の頃は精華小のサッカー少年団に所属していたが、2年生に進級すると兄と一緒にいわき市のアストロンFCへと“移籍”。最初は週2,3回のスクールに通う形から、すぐに正式にチームでプレーすることに。住んでいた北茨城市からグラウンドまで、車で1時間半近くかかる道のりを母に送り迎えしてもらっていたそうだ。

梶谷の代は力のある選手も揃っており、5年生の冬には福島県大会で優勝。東北大会ではベガルタ仙台ジュニアとの対戦が決まっていたものの、楽しみな試合を前日に控えたタイミングで予期せぬ事態に見舞われる。その日は、3月11日だった。

「震災が来て、全部が狂った感じでした。まず練習場がゴミの廃棄場所になってしまって、外で練習できないということになりましたし、自分の小学校は3か月以上も休校していたので、その時はずっと埼玉にある母の実家に避難していて、4か月ぐらいサッカーができなかったんです」。

だが、大人たちは小学生の希望を繋いだ。全日本少年サッカー大会の県予選を何とか開催までこぎつけたのだ。「まずは予選を開けたことも奇跡だったのかなと思います。それこそスパイクもいろいろなところから送ってもらえたりしましたし、多くの人に助けてもらいました」。

アストロンFCは見事に福島県を制覇。2学期から埼玉への引っ越しが決まっていた梶谷にとっては、チームメイトと過ごす最後の思い出を夏の全国の舞台で作ることはできたが、今からその時のことを振り返っても、複雑な想いが胸に去来する。「凄く良いチームだったので、『あの震災がなかったらな』という想いもありますし、そういう意味でもプロサッカー選手になった今だからこそ、あの時の仲間の想いを背負って、やっていきたいなと思っています」。

中学時代は上尾市に居を置くアスミFCでプレー。それまでやってきたサッカーとはまったく違うスタイルが、とにかく新鮮で楽しかった。「アストロンは蹴って、走って、ゴールを獲ってという感じだったんですけど、アスミは監督が『何でもできるような選手になれ』という方で、個々の成長にフォーカスしていて、できないことができるようになっていくのは楽しかったですし、個人技はかなり上がったと思います」。今に繋がる技術のベースが、この時期に培われたことは間違いない。

中学卒業後は埼玉の正智深谷高校へと進学。1年生の夏頃にはAチームの練習へと参加するようになり、公式戦への出場機会も増えていく。そして、冬の全国出場を懸けた高校選手権予選決勝。梶谷は埼玉スタジアム2002のピッチにスタメンで送り込まれる。

「ド緊張していました。全校応援だったのでメチャメチャ人がいて、試合前から歓声もメッチャ聞こえて、足をガクガクさせながらグラウンドに出ていきましたね。でも、中学生時代から埼スタで選手権の決勝を見たりしていたので、『同じ舞台に立てたんだな』と思いましたし、勝って終わった時は嬉しかったです」。1‐0で勝利したチームは、晴れ舞台への切符を力強く手繰り寄せた。

迎えた選手権の全国大会。明徳義塾高校と対戦した初戦は、自らの現在地を突き付けられることになる。「ここで初めて全国の厳しさというか、上には上がいると実感させられました。確か明徳義塾はベスト8まで行ったんですけど、前橋育英とか青森山田みたいなメチャメチャ強いチームというわけではなかったのに、それこそ全然体格も違いましたし、もう大人とやっているのかと思いました。それであの全国の雰囲気だったので、それこそガチガチで何もできなかったです。悔しいというか、本当に頭が真っ白になって、『こんなにできないのか……』と思ってしまいました」。試合も0‐1で敗戦。改めて全国レベルを思い知ったことで、さらなる成長を誓った。

それから1年後。リベンジの機会が訪れる。再び出場した選手権の全国大会。2回戦の関東第一高校戦は1点をリードされたまま終盤に突入すると、ラスト5分で梶谷に声が掛かる。「これはあとで聞いたんですけど、最初は別の選手を出す予定だったのに、監督が『いや、ここは梶谷で』と言ってくれて、それで自分が試合に出たことで流れがガラッと変わったんです」。

チームは後半終了1分前に追いつくと、さらに梶谷が繋いだボールからPKを獲得。それが決まって、大逆転勝利を収めてしまう。続く3回戦では自らゴールも奪い、最後は準々決勝で優勝した青森山田高校に敗れたものの、「1年の時は相手を怖がっていた部分もなくなっていたので、自信が付いた大会だったなと思います」と振り返るように、この大会でのパフォーマンスは大きな自信を得るのに十分なものだったようだ。

最高学年となった3年時は悔しい1年となった。インターハイ予選も選手権予選もともに準々決勝で敗退。チーム自体は手応えを掴んでいただけに、自分たちでも信じられないような結果だった。とりわけインターハイで全国へと出場できなかったことには、今でも後悔の念を抱いているという。

「もしインターハイで全国に出たら、試合を見に来ていたスカウトもいっぱいいたはずなのに、全国に出られなかったことで『オファーが来ないから高校でサッカーをやめる』という選手も多かったんです。1年から試合に出ていた自分から見ても、僕らの代はどの代より強かったので、結果が奮わなかったことに対して自分の落ち度を感じますし、キャプテンだったからこそ、もっと何かできたんじゃないかとは今でも思います」。それゆえに『高校時代のチームメイトの分まで』という想いも、今の梶谷には乗せられている。

大学は「体育教員の免許を取れて、サッカーの強いところ」という選択肢の中から、国士舘大学へと進学。関東大学リーグではいきなり開幕スタメンを飾ったものの、1年時は手応えを得るまでに至らない。

「開幕戦はいろいろなことが重なってたまたまスタメンになっただけだったので、通用するとも思っていなかったですし、関東1部だったのでプロ内定者もいて、『ああ、これがプロになる人か』と思いました。みんな上手いし、速いし、戦うしで、そのレベル差に圧倒されて全然ダメでしたね。わがままにやっていれば良かった高校時代とは違って、より頭を使って守備をしないといけないというところで、何もできずに1年間を過ごしてしまった感じでした」。

ただ、7月にはU-19全日本大学選抜に選出されてスイス遠征を経験。角田涼太朗(現・横浜F・マリノス)や満田誠(現・サンフレッチェ広島)など、のちの日本代表選手たちと過ごした時間は大きな刺激になった。「自分はそこに行くようなレベルではなかったですけど、得点も何点か獲れましたし、自分のこのキャラをはやし立てて場の中心にしてくれて(笑)、今でも遊ぶような友達もいっぱいできたので、本当に良い経験でした。今もその時のチームメイトが活躍しているのを見ると、『自分ももっとやらなきゃ』とか『オレも頑張ろう』とも思いますよね」。

最初の2年間はプロになるための逆算から、体づくりも含めて自身の成長にフォーカスしてトレーニングを重ねる。3年がスタートする頃はまだレギュラーを確約されるような立ち位置ではなかったものの、そのタイミングでコロナ禍に見舞われたことが、梶谷にとってはプラスに働いた。

「あのコロナ禍で関東リーグの開幕が遅れたからこそ、トレーニングにも集中して十分な時間を割けたかなとは思います。7月ぐらいにリーグ戦が始まることはだいたいわかっていたので、その逆算からトレーニングを継続していました」。実際に7月から開幕したリーグ戦では、結果的にチームトップの8得点を記録。グループの中で確かなポジションを確立することに成功する。

「ゴールを獲れたことは嬉しかったですけど、それも逆算しながらやってきたので、自分の中では必然だと思いながら、とにかく結果を残すことだけを意識して、チームに求められることをやっていました。国士舘では守備もして攻撃もしてという、今のブラウブリッツに似たサッカーをやっていたので、その中では手応えのある得点数だったと思います」。

最高学年となった4年時。キャプテンにも指名され、リーグ戦の開幕を直前に控えて戦った天皇杯予選で、梶谷は疲労骨折を負ってしまう。「最初に医者には『治るまでに3か月掛かる』と言われて、それまでそんなに大きなケガはしたことがなかったので、『ああ……』とは思ったんですけど、とりあえずまずは早く治すことを考えて、前向きにトレーニングしようと考えられていたので、そんなに悲観していたわけではなかったですね」。

キャプテンとして、チームに貢献する方法を考える。「そこまでの3年間で1回も全国大会に出られていなかったので、『何が足りないんだろう?』と考えた時に、『1試合に懸ける想いが足りなかったな』って。それなら『練習に対するモチベーションが必要だな』と思って、自分主導でミーティングを開いたりしましたし、午前中は全部リハビリに使って、午後は松葉杖を突きながら練習に出て、練習のど真ん中で『ああしろ、こうしろ』と指示を出していました」。

国士舘大は前期こそ下位に低迷していたものの、後期に入って少しずつ反転攻勢に。梶谷もようやくシーズン終盤に戦線復帰すると、チームは最終的に7位でインカレ出場権を獲得する。「体が自分の思うように動かなかったので、チームに貢献できないもどかしさもありましたけど、インカレの出場権は絶対条件にしていたので、最下位だったところから全国への出場が達成できたのは良かったなと思います」。

「大学ではそれこそ1日24時間ある中で、どこで睡眠を取って、どこで食事して、どこでトレーニングして、というのを全部自分で考えたので、独り立ちできたというか、そこからプロでやっていく上で、そういうことを学んだ4年間だったなと。いろいろな人に出会って、いろいろな仲間と出会って、人間的に成長できたなと思います」。

決して思い描いていたような時間ではなかったかもしれないが、キャプテンとしてさまざまな感情をフル稼働させた大学ラストイヤーが、人としての幅を広げてくれたことにも疑いの余地はない。

2022年。梶谷はサガン鳥栖でプロサッカー選手としてのキャリアを踏み出した。

「最初は周囲のレベルが高すぎて、『これがプロか』と思いました。パススピードだったり、ポジショニングだったり、『今まで自分がやってこなかった部分で差が付いているな』と感じて、最初は慣れなかったです。でも、キャンプに入ったら練習試合で得点もできたりして、『ああ、やれるわ』と自分の中では手応えもあって、周りの選手からも『調子いいね』みたいに言われていたんですけど、開幕戦のメンバーから落ちて、そこでまず『何がダメだったんだ?』ということを考えるようになりました」。

忘れられない試合がある。リーグ開幕戦の次の公式戦。ホームの駅前不動産スタジアムで行われたYBCルヴァンカップ。北海道コンサドーレ札幌戦でJリーグデビューをスタメンで飾った梶谷だったが、無得点のまま70分で交代したこの試合が、ルーキーイヤーの立ち位置を決定付けたと自分でも思っている。 

「自分にメチャメチャチャンスがあった中で、無得点で終わったというところで、もうプロなのでそんなに多くのチャンスをもらえるわけではないですし、あそこでそのチャンスを逃してしまった自分の責任だろうなということは感じていました」。結局ルヴァンカップでは4試合に出場したものの、リーグ戦デビューは最後まで叶わなかった。

シーズン中には同じ大卒ルーキーが出場機会を求めて、他クラブへと期限付きで移籍していく中、梶谷は鳥栖で1年間を過ごす決断を自ら下していた。「夏にレンタルするかどうかの話もルーキーのみんなとよくしていたんですけど、自分の中では『1年間もがきたいな』という想いがあって、とにかくこの1日1日の練習を全力でしていけば、間違いなくレベルアップすることは実感できていましたし、J1の選手たちと練習できることだけでも凄い経験だったので、1年間あそこでもがけたのは自分にとって本当に良かったと思います」。 

とりわけ影響を受けたのは、1つ年下のストライカーだったそうだ。「宮代大聖(現・川崎フロンターレ)は本当にサッカーに対する意識が凄いんです。試合に出ているのに誰よりも遅くまで残って練習していて、自分も見習わないといけないなと思いましたし、同じポジションだからこそ意見交換とか、こういうシーンでこういうプレーをしたいよねと話せたことが今に生きているのかなと。特に宮代はターンが凄く上手くて、自分もよく真似してやっていたんですけど、今も秋田で謙さん(吉田謙監督)に『前を向け』と言われるので、そういうところは宮代から良い影響を受けたなと思います」。 

鳥栖で1シーズンを“もがき切った”梶谷が、プロ2年目のチームとして選んだのはブラウブリッツ秋田だった。「1年目である程度の自信を持って、『来年は勝負の年にしよう』と思ってレンタル先を探している中で、謙さんがわざわざ鳥栖まで来てくれて、『君のプレーが必要だから力を貸してくれ』と言ってくれたんです。運動量を生かして守備でも走ることや、サイドに流れてキープすることは大学の時もやっていたことですし、ここで結果を残したらもっと上に行けると思ったので、秋田に行こうと決断しました」。 

鳥栖とブラウブリッツは真逆と言っていいほど、チームの志向するスタイルは異なっている。だが、この2つのサッカーを経験したからこそ、見えてきたものもある。「鳥栖はみんながポジションに付いて、みんなでボールを回して仕上げていくようなサッカーですけど、秋田は1人1人が走って、ボールを奪って、ゴールまで行くというサッカーなので、この両方を経験しているのは大きいと思いますし、本当にクラブによって色って違うなとは感じますね」。 

2つのチームで過ごした2シーズンを経て、梶谷は改めてこのシビアな世界で生き抜いていくための方法を見つめ直してきた。 

「プロはまず試合に出ることが難しいなと思いますし、高校や大学の時のように固定されているメンバーがいるわけではないので、次から次へと新しい選手が来て、チームも新しい監督になってという部分で、理想としてはどんな監督になっても試合に出ることなので、“万能型”の選手を目指してきたんですけど、それだけでは通用しないということも実感していますね」。 

「やっぱり自分の形を持って、『この動きだったらコイツはここにいる』とか『この形だったらアイツは絶対に決める』ということを明確にしていかないといけないなと感じた2年目でもあったので、そういうことを1つ1つしっかりクリアしていければ、上のステージも近づくだろうなとは思いますけど、それをクリアするのは容易ではないので、上に行くのも容易じゃないなとは感じています」。 

ただ、もちろん悩んで、もがいて、必死に戦い続けているけれど、この一言に今の状況は集約される。「やっぱり面白いですね。プロサッカー選手を職業にできるというのは夢がありますし、サッカーは楽しいです。最高ですよ」。 

小学校1年生から始めたサッカーで知り合った数多くの人々の願いが、自分に託されていることは十分に理解している。実直に、丁寧に、積み重ねた日常の先にある喜びを信じて、これからも梶谷はこのプロサッカー選手という最高の職業と、真摯に向き合っていく。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/


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