見出し画像

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 髙田椋汰編

圧倒的な実力差を見せ付けられ、心が折れかけたこともある。メンバーから落とされた屈辱に、チームメイトの前で号泣したこともある。それでも、諦めなかった。小学生の時から思い続けてきた「プロサッカー選手になる」という夢だけは、絶対に諦めたくなかったから。

「試合に出られていない選手もいる中で、こうやって今は試合に出してもらって、もちろん良い時もあれば、悪い時もあって、試合に出ていないと見つからないような課題もいっぱい出ているので、『贅沢な課題をもらえているな』ということは感じています」。

ルーキーイヤーとは思えないパフォーマンスで、開幕から躍動を続けるブラウブリッツ不動の右サイドバック。髙田椋汰はJリーグの舞台で試合に出続けているからこそ、次々に突き付けられる課題へと、ポジティブに、真正面から向き合っている。

髙田 椋汰(たかだ りょうた)
2000年6月10日生、宮崎県出身。
2022年7月、2023シーズンからの加入が内定、JFA・Jリーグ特別指定選手として認定。翌2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはディフェンダー。
https://twitter.com/ryota06103457
https://www.instagram.com/ryota_t247/

とにかく活発な子どもだった。それは保育園の頃のこと。お昼寝の時間ももっと遊びたかった髙田少年は、その時間になると兄といとこがバスに乗って、どこかへ出かけていることを知る。そんな2人に付いていった先で出会ったのが、サッカーだった。

ボールを蹴り始めた太陽スポーツクラブは、延岡市の中にも“通常コース”が何か所かあり、その中から選ばれた子どもたちは“育成コース”として、よりチームとしてのサッカーを学んでいく。髙田の同級生には優秀な選手が揃っており、本来は小学4年生からしか入れない“育成コース”に、既に3年生から引き上げられていたという。

「太陽スポーツクラブの黄金世代という感じ」と本人も振り返るチームは、6年生になると宮崎県予選を勝ち抜いて、全国大会への出場権を手繰り寄せる。太陽延岡SCの一員として臨んだ晴れ舞台は、十分な手応えと厳しい現実を、同時に思い知らされることになる。

「『全国にはこんな選手がいるんだな』『こんな強いチームがあるんだな』って。サッカー人生において、自分より上手かったり、凄い選手がいるということも初めて知らされた大会でしたね」。1次ラウンドは全勝で勝ち上がったものの、2次ラウンドで神奈川のバディーSCに0-1で惜敗。彼らは信じられないぐらい、上手くて、強かった。

その進路は友人に導かれたものだった。「太陽スポーツクラブで一緒だった河原淳という友達が日章学園のセレクションに行くことになって、淳の親に『オマエも来たら』と言われて僕も行ったんです。その時に練習の雰囲気も緊張感がありましたし、『非常にレベルが高いな』とは感じていて、『プロになるんだったら絶対日章だな』とって思っていたら、向こうからも『是非来てくれ』という話になったんです」。河原と髙田はその後、大学まで同じ学校に通い続けるのだから、人生はわからない。

2年生までは時折試合に絡むぐらいだったが、3年生になってスタメンに定着すると、夏に出場した全国中学校サッカー大会で、日章学園は逞しく勝ち抜いて決勝進出。最後は青森山田中に屈するも、全国準優勝という成果を手にしてみせる。

「青森山田は隣でアップしていたんですけど、凄くアップから声を出していて、『オレたちを怖がらせようとしているな。雰囲気作ってるな』みたいな感じでしたね。でも、実際に高さ、スピード、強さ、全部が上だなと思いました」。髙田にとっては、特に現在もアビスパ福岡でプレーしている三國ケネディエブスの“デカさ”が印象に残っているそうだ。

中学を卒業すると、そのまま日章学園高校へと進学する。「もちろん選手権で日本一を獲るというのが目標でした。あと、中学生の時に高校生をよく応援しに行っていたんですけど、インターハイと選手権の決勝は“全校応援”というのがあって、『あの舞台に立ちたい』ってメッチャ思っていました(笑)。日章は共学で、あそこに立ったらキャーキャー言われているスーパースターみたいなイメージがあったので、中学生の僕にとってはカッコよすぎましたね」。“日本一”と“全校応援の決勝”。2つの目標を携えて、高校生活はスタートした。

その起用は、あまりにも唐突だった。1年生のインターハイ。全国大会の初戦に、髙田はほとんど未経験のポジションでスタメンに抜擢される。「ウォーミングアップもベンチ組でやっていたのに、ロッカールームに入ったらスタメン発表でいきなり呼ばれて、『こんな大舞台でオレが行くの?』って。しかも、それまではボランチやサイドバックをやっていて、インターハイの前の遠征で1回だけセンターバックをやっただけなのに、急に初戦でバーンと出された感じでした」。結果的にその試合から、高校時代は一貫してセンターバックで出場し続ける。

勝ち上がった3回戦で対戦した履正社高校は、スーパーなフォワードを擁していた。「町野(修斗・現・湘南ベルマーレ)選手がいて、雰囲気負けというか、完全に相手の大きさと速さにビビっていて、何もできなかったですね。『凄い選手だったんだな』というのはあとで知りました」。1年生センターバックは前半16分で交代させられ、チームも敗戦。ここでも全国トップレベルを肌で体感することになる。

初めての“全校応援の決勝”も苦い思い出だ。1年生の高校選手権予選決勝。県内最大のライバル・鵬翔高校と対峙した一戦は、高校生のスピードにも慣れ、自分の成長も感じていただけに、髙田も自信を持って挑んだが、結果は1-2で敗れ、全国切符は目前でその手から零れ落ちていく。

「最後に交代して、ベンチでホイッスルを味わったので、あの時は悔しくて泣きましたね。個人としては『全然やれたな』という感覚はあった分、あそこで負けたのはメチャメチャ悔しかったです」。2年時と3年時は夏も冬も全国出場を勝ち獲ったため、高校生活で負けた“全校応援の決勝”はこの1回だけだった。

2年生の高校選手権では、翌年の大事な基準となるチームと対戦する機会に恵まれた。夏の全国王者であり、その大会でも決勝まで進出する流通経済大柏高校だ。「あの流経戦は今でも自分が経験した中では、一番観客が入った試合だったんじゃないかというぐらいで、印象深い試合でした」。

宮本優太(現・浦和レッズ)、関川郁万(現・鹿島アントラーズ)、菊地泰智(現・サガン鳥栖)。のちのJリーガーが居並ぶタレント集団を相手に、試合は0-1で敗れたが、個人もチームも大きな“ものさし”を手に入れる。「個人的には何もできなかったイメージはなくて、自分は割とやれたなと思いました。ただ、流経はインターハイで優勝したメンバーと選手権のメンバーが全然違っていたらしくて、日本一になるためには選手層も大事なんだなと思って、僕が3年生になった時はそういうチーム作りは意識して、みんなでミーティングする時もそれはよく話していましたね」。

その経験が生かされたのが、3年時のインターハイだ。目の前の試合に全力を尽くし、着実に白星を挙げていった日章学園は、準々決勝まで勝ち進む。「日章がまだ全国のベスト4に行ったことがないことはみんな知っていて、『これに勝ったら歴史を塗り替えられる』とミーティングでも話していましたし、みんな凄くモチベーションも高かったですね」。日本一の力を前年に思い知らされていた彼らは、明確な基準を胸に山梨学院高と対峙する。

「先制もして、失点しても勝ち越して、『これは絶対に勝てるだろう』という中で、暑さと相手のパワフルさや気迫にやられた感じだったので、まだまだ日本一になるためには甘いんだなということを痛感させられました……」。2-3での逆転負け。学校の新たな歴史の扉を開けなかったことに加えて、最も警戒していた相手のエースに得点を許したことも、髙田にとっては痛恨だったという。

最後の高校選手権は初戦敗退に終わったものの、今でも髙田の武器になっている“ヘディング”への自信を深めたのが、この矢板中央高校戦。相手は190センチ近いストライカーを擁していたため、その対策を試合前から時間を掛けて講じていたのだ。

「173センチしかない僕は、早稲田(一男)監督とマンツーマンで、とにかく落下地点に入って、早く飛ぶ練習をメッチャしていたんです。それで試合が始まってみると、相手の上に乗ってヘディングでバチバチ跳ね返していたので、それで試合を通して気持ち良くなっていて(笑)、のびのびプレーできたことが印象に残っています」。そのパフォーマンスは、この試合を見ていたという大学の恩師ものちのち何度も口にするような出来。負けた悔しさは言うまでもないが、個人としての小さくない手応えを掴み、6年間の日章学園生活に別れを告げた。

大学の進路選択は、プロサッカー選手になるという目標への逆算から、関東か関西の学校への進学を希望していた中で、当時お世話になっていたトレーナーの母校でもある阪南大学が候補として浮上すると、先方も好感触を抱いてくれていることを知る。ただ、九州のある大学からも特待生としてのオファーが届き、地理的なこともあって親はそちらへの進学を望んでいる空気を察していた。

ここでもキーマンは“友人”だった。「(河原)淳と淳の親とゴハンに行くことがあって、僕が『阪南を受けることになって、向こうも来てほしいって言っている』みたいなことを話したら、淳の親が『それは凄いことですよ』と言ってくれて、それで僕の親も『そんな凄いところから誘われているんだ』と初めて知って、納得してくれたんです」。そのあとで河原も阪南大学への入学が決まり、2人は中学時代と同様に、揃って新たな環境へと飛び込んでいくことになる。

阪南大学は関西でも屈指のタレント集団。周囲のレベルの高さに驚かされながら、髙田も1年生の後期からはリーグ戦でスタメン起用される機会も増えていったが、2年生になると立場は一変。なかなか試合出場のチャンスが巡ってこない上に、合わせてコロナ禍が直撃する。

「1年生で自信も付けていたので、『何でオレがスタメンから落とされるんだ……』という不満を持ってサッカーをやっていた気がします。コロナもあって、サッカーも全然できない時期もありましたし、あっという間に2年生が終わってしまったイメージでした」。

3年生への進級を控えた春先のことだ。何とか保ち続けてきた髙田のメンタルは、とうとう崩壊する。「その頃の僕は“ミスするキャラ”みたいになっていて、遠征に行くメンバーを決める試合の時に、『ここでミスをしたら遠征に連れて行かない』と言われていたので、たぶんミスをしないような“安パイ”なプレーをしていたんです。ミスはしていないけど、求められていることをできていなかったんでしょうね。試合後に監督に個別に呼ばれて、『明日からBチームに行ってこい』と言われたんです」。

「最初は泣かないって決めていたんですよ。みんながいる前で泣くのは恥ずかしいじゃないですか。でも、メッチャ涙が出てきて、みんなに励まされたんですけど、1人で家に帰ってボロ泣きしました。それまでも試合に負けた悔しさで泣いたことはありましたけど、メンバーに選ばれない悔しさで泣くのは初めてだったかもしれないですね」。

もう、やるしかない。髙田にスイッチが入る。「Bチームに落とされてもやり続けるというか、いつチャンスが来てもいいように、本当に毎日コツコツ練習していました。当時のBチームには『何でオマエもここにいるの?』みたいな選手が結構いて、モチベーションの高い選手が多かったので、自分はやりやすかったですね」。Aチームでも、Bチームでも、大事なのはベクトルの方向。それをちゃんと自分に向け続けると、その先には意外な“きっかけ”が待っていた。

「Bチームで出ていたあるIリーグの試合で、最初はセンターバックだったんですけど、後半の途中からサイドバックになった時に、ガンガン攻め上がって、結構ビッグチャンスも作れたんです。その試合を須佐(徹太郎)監督が見に来ていたんですよね」。45番という大きな番号を与えられていたセンターバックは、次のリーグ戦でサイドバックとしてスタメンに指名される。

「この試合もサイドバックからガンガン上がっていて、交代枠を全部使ったあとに足を攣ってしまったんです。それで『もうフォワードに行け』となった時に、セットプレーをもらったんですよ。そのボールをヘディングでバチコンと叩いて、そこから同点ゴールが入ったんです。試合が終わった後に先輩からも『オマエ、絶対に足攣ってなかったやろ』って言われたんですけど(笑)、その時は相当良い印象を与えたなという手応えはありましたね。たぶんあの試合でサイドバックになっていなかったら、今の自分はないと思います」。

そこからレギュラーに定着した髙田は、年末のインカレで全国準優勝を経験。その活躍が評価されたことで関西選抜に選ばれ、大学の地域対抗戦に当たるデンソーカップにも参加し、一気にサイドバックとして周囲の注目を集める存在となっていく。

「あの時は本当にトントン拍子でした」とは本人。さらに、4年生の7月にブラウブリッツ秋田への加入が内定し、そのまま特別指定選手に指定されると、8月13日のJ2第31節・いわてグルージャ盛岡戦では途中出場でJリーグデビューも。2か月近い時間を秋田で過ごし、さらなる成長の芽を丁寧に育んでいく。

「充実していたからこそ、あっという間の1年間でしたね。ブラウブリッツのキャンプにも参加したり、秋田に2か月近くいたり、デンソーカップに行ったり、インカレに出たりと、濃い1年間だったなという想いはあります。周りからもプロ内定者として見られていて、『結果も出さなきゃいけない』とはずっと思っていましたし、4年生の1年間が一番濃かったんじゃないですかね」。

阪南大で重ねた4年間を糧に、Jリーガーの道を歩み出した髙田は、今シーズンに入ると、開幕戦から一貫して右サイドバックの定位置を任され、ブラウブリッツに欠かせない戦力へと成長。充実したルーキーイヤーを送っている。

「若いから許されるという感覚は自分の中になくて、『これだけ試合に出させてもらっているんだから、もうチームの核なんだよ』とはよく言われるんですけど、『確かにそうだな』と感じています。試合に絡んでいるからこそ、もっともっと日頃の練習からチームを引っ張っていくというか、『全部自分に持ってこい』ぐらいの気持ちで、自分のところから攻撃も全部作って、得点にも絡むぐらいの意識でやっていますね。高校の時も大学の時も、ここまで課題に対して取り組むことはなかったですし、ここまで質の部分を深く考えることはなかったので、ここからサッカーを突き詰めまくります!」。

繊細で、大胆な23歳の若武者。たゆまぬ努力で髙田が手繰り寄せたプロサッカー選手としてのキャリアは、これからがいよいよ本番だ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?