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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 吉田伊吹編

もちろんプロサッカー選手になりたいとは思っていたけれど、それは目標というよりも、もっと漠然とした夢のようなものだったかもしれない。それでも今は青い稲妻のユニフォームを纏って、Jリーグのピッチに立ち続けている。

「大学の時も正直『プロになれればいいな』ぐらいの時期が長かったんです。絶対にプロになるという感じではなかったような気がします。でも、今はJ1でプレーしたいと思っています。日本で一番高いレベルでプレーしたいですね」。

堅実で、真面目な男に芽生え始めている確かな野心。ブラウブリッツ秋田の心優しきストライカー。吉田伊吹は自らのゴールで、道なき道を切り拓いていく。

吉田 伊吹(よしだ いぶき)
1997年11月1日生、宮城県出身。
2021年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/hh5c3wa56FhN9B9
https://www.instagram.com/i_yoshida_/

「小学校の頃はエリートだったかもしれないですね。でも、ピークはその頃だと思います(笑)」。謙虚に笑う吉田の小学生時代のキャリアを聞くと、確かにエリートのそれだ。母親に勧められるがまま、幼稚園に通っていた頃から何となく始めたサッカーだったが、仙台スポーツシューレFCでは4年生の時に県大会で優勝。6年生になると宮城県トレセンだけではなく、東北トレセンにも選出される。

そんな吉田が、より高いレベルでプレーしたいと思うのは自然な流れ。200人近くが集まったベガルタ仙台ジュニアユースのセレクションにトライする。「1次試験から5次まで受けました。そんなに自分の中では満足できなかったような記憶があるんですけど、受かったんですよね」。10倍近い倍率を潜り抜け、見事に合格したものの、入ってみるとそのレベルの高さに、少しずつ自信が失われていく。

「もうレベルが高過ぎて、中学2年ぐらいまではずっと練習にも付いていけず、試合にも出られないことが続きました。小学校の頃は身長も大きい方だったんですけど、中学に入ったぐらいから周りの選手がどんどん大きくなっていって、今まで通用してきた部分が全然通用しなくなった感じです。フォワードでは全く出られなかったので、右サイドバックや右サイドハーフとか、空いているポジションをしていましたね」。思うようにいかない日常に、チームをやめたいと思うことも一度や二度ではなかったという。

ただ、吉田は“やめないこと”を選択する。「単純に途中でベガルタをやめて、楽な道に行くのは悔しいというか、負けたように感じてしまうのが嫌だったというのと、親や家族が凄く応援してくれていたので、やめるとは絶対に言い出せなかったですね」。すると、2年生も終わりに差し掛かった頃から風向きが変わり始める。

「自主練はいつも最後の方まで残ってやっていたのと、その頃からまた身長が一気に伸び始めて、そこで今も得意なポストプレーもできるようになって、自信が回復していきましたし、通用するようになって、だんだんスタメンに定着していきました」。3年生になって全国大会でゴールも決めた吉田は、ユースへと昇格。高校の3年間もベガルタでプレーすることを決断した。

毎年のようにトップ昇格者が出ていた当時のベガルタユースは、トレーニングもハイレベル。1年時は試合に絡むことこそなかったが、中学時代のようにまったく通用しないという感覚はなく、努力を重ねる日々を過ごしていた。そして、ある“ライバル”の存在が自身の成長欲に火を付ける。

「自分の同期にもう1人、本吉佑多というフォワードがいて、ずっと彼を目標に頑張っていたようなところもありましたね。本吉は1年から3年生の方に混じって試合にも出ていたので、『凄いな』といつも思っていました」。同じポジションの仲間の活躍を刺激に、自主練にも一層熱がこもる。その成果が発揮されたのが3年時に挑んだ夏のクラブユース選手権。ベガルタユースはクラブ史上初めて全国ベスト4まで勝ち上がったのだ。

「自分の中で本当に出し切った感覚が強い大会でした。暑い群馬という気候も含めて難しい試合が続く中で、ベスト4まで行けたことはもちろん運もあるとは思いますけど、自分の中では大きな自信に繋がった大会ですね」。今では日本代表の中核を担う冨安健洋とも対戦する経験も得て、何よりも感じたのは“継続すること”の重要性だった。

「中1や中2の試合に出られない時も自主練はとにかくいろいろやりましたし、そういう努力のようなことはずっとやってきたので、それが少しずつ結果として現れて、高校3年生で主力の1人として試合に出て、全国ベスト4という成果が出せたのかなと思います」。ベガルタのアカデミーで過ごした6年間が、今にも繋がるサッカー選手としての礎を築いたことに、疑いの余地はない。

トップチームでプレーすることは、まったくイメージしていなかったという。「ユアスタでボールパーソンをすることもありましたけど、憧れはあまりなかったですね。その時は正直、そこでプレーできることを想像したこともなかったです。本当に雲の上の存在といった感じでした」。そんな吉田には3年生の春に、ある大学からオファーが届いていた。

「産業能率大学からオファーを戴いたんです。先輩方も関東や関西に行く方が多かったですし、自分も関東のレベルの高いところに行きたい想いはあったので、それで決めました。でも、それまでベガルタから行った人はいなくて、自分が初めてだったので、正直知らない大学でした(笑)」。練習参加時の評価も高く、推薦での入学が決定。産業能率大でさらに4年間、サッカーと向き合う道を歩み出す。

入学直後からすぐにトップチームで練習していたものの、当初は大学生の雰囲気に圧倒されていたそうだ。「学年が3つ離れている4年生はだいぶ大人に見えて、最初は先輩が怖かったですね。最初の方はちょっと怯えながらサッカーしていました(笑)。実際は凄く優しかったんですけどね」。もともとの性格が透けて見えるエピソードが微笑ましい。

1年時の産業能率大は神奈川県リーグへと降格しており、日常的に戦う相手との実力差は明らか。「相手が11人揃わない時もありましたし、アップの前にタバコを吸っているような人もいました」と吉田も苦笑するような環境下で、1年の終わりに関東リーグ昇格決定戦に進出。だが、チームはそのサバイバルを勝ち抜くことができず、昇格への道は目の前で閉ざされてしまう。

リベンジの時は2年後に訪れる。3年時に再び県リーグを制し、昇格決定戦への挑戦権を獲得。そこで吉田は貴重なゴールを叩き出し、チームの勝利に貢献。「自分も調子が良くて、大事な試合で結果も出せたので、昇格もできて良い形で終われたシーズンでした」。大学ラストイヤーで、ようやく関東リーグでのプレー機会を手繰り寄せる。

勝負の4年生を前に、サッカーに対する想いを捉え直す機会があった。全国の各地域選抜が集うデンソーカップに向けた、関東選抜の選考会に声が掛かる。関東1部と2部リーグ以外から招集されたのは、吉田も含めて2人のみ。気合を入れて臨んだものの、そこで待っていたのは残酷なまでの実力差だった。

「そこでかなり関東リーグの選手との力の差を感じて、『本当にヤバい』という焦りはありました。全然自分のプレーが通用しなくて、『もっとやらないとな』と思ったんです」。そう思ったのには理由がある。昇格決定戦と関東選抜の選考会を経て、今までとは違う感情が生まれ始めていたからだ。

「自分の中で一気に『プロになりたいな』という気持ちが芽生えましたし、それを強く思うようになったんです」。ベガルタのアカデミー時代も、神奈川で過ごした3年間も、プロサッカー選手は現実味の薄い目標だった。だが、将来を決定付けるような大学ラストイヤーを前に、自分の中にスイッチが入る。

初挑戦の関東2部リーグで重ねたゴール数は9。個人としても得点ランキングで5位に入り、チームも6位で関東リーグにきっちり残留。「関東選抜で味わったような『何もできなかった』というような感覚はなくて、ポストプレーでしっかり収めることもできましたし、ゴールも獲れたので、そういうところは通用するなと感じました」。

「1年の頃はプロでやれるようなメンタルもなかったですし、技術面でもプロで通用するようなレベルではなかったので、大学の4年間は身体作りの部分もメンタル面も含めて、自分の中でかなり成長できた時間だったと思います」。ようやく辿り着いたステージで、吉田は確かな自信を手に入れることに成功した。

進路は意外と早く決まっていた。4年生の8月。AC長野パルセイロから加入内定のリリースが発表される。「大学の小湊(隆延)監督がパルセイロを作った方の1人で、そのつてがあって1週間練習に参加したあとに、『特別指定選手にしてくれる』という話を戴いたんです。正直、自分の中では『早くプロのレベルを経験したいな』という想いがあったので、もうオファーを戴いてすぐに決めましたね」。吉田は長野の地で、プロサッカー選手という職業へ就くこととなる。

プロ1年目の2020年。Jリーグデビュー戦は、早々にやってきた。予定より3か月遅れのオープニングマッチ。アウェイに乗り込んだカターレ富山戦で、大卒ルーキーは開幕スタメンに抜擢される。「開幕が延びた分、アピールする機会ができて、ギリギリでスタメンを勝ち獲った感じでした。とにかくメチャメチャ緊張していましたね(笑)」。

しばらくは定位置を確保していたものの、得点を奪えないフォワードがいつまでも起用されるほど、プロの世界は甘くない。スタメン起用される中で結果を出せず、メンバー外も味わいながら、5試合ぶりに出場機会を掴んだ一戦で、ようやく吉田が輝く。いわてグルージャ盛岡相手にJリーグ初得点を含む2ゴール。「嬉しさと言うより、安心する気持ちの方が大きかったかもしれないです。結果を出さないと、試合にもっと出られなくなるような感じでしたから」。

最終的にルーキーイヤーは6ゴールを記録。「1年目としては全然悪くはない1年だったかなと思います。結構手応えはありましたね」という吉田へ、そのオフにブラウブリッツがオファーを出す。チーム自体にはほとんど馴染みがなかったが、コーチングスタッフには縁のある方が揃っていた。

「秋田の坂川(翔太)コーチは、自分が大学4年の時に産業能率大学で指導されていましたし、(吉田)謙さんが(アスルクラロ)沼津で監督をしている時も練習試合をすることがあって、自分のプレーも知ってもらえていたので、そこは大きかったのかなと思います」。J2初挑戦となった昨シーズンは、24試合に出場して3得点。攻守に献身的なプレーを続けるスタイルは、サポーターからも大きな支持を得ている。

今シーズンは“特別な試合”も経験している。第13節で対峙したのは古巣のベガルタ仙台。ユアテックスタジアム仙台で、途中出場ながら30分強に渡ってプレー。「あの試合は本当に凄く特別でしたね。あのスタジアムで自分の親にもプレーを見せられましたし、友人も来てくれて、その中でプレーできたことは本当に良かったです」。この上ない親孝行も果たした吉田は、さらなる飛躍を誓う。

「ゴールを決められているのは良いことだと思うんですけど、去年より試合数は出ているので、全然満足のいく結果ではないですね。今年はもっと点を獲らないといけないと思っています」。

決して雄弁なタイプではない。でも、試合前のアップではチームでただ1人、ストッキングを下げずに正しく履いている。決して大きなことを言うわけではない。よく考えながら、控えめな発言が口を衝く。そんな彼が言うのだから、よっぽど自分の中で覚悟を決めているのだろう。

「J1でプレーしたいと思っています」という言葉を思い出す。サッカーの世界で生きる吉田の挑戦は、これからがいよいよ本番だ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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