見出し画像

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 鈴木準弥編

大きな決断を迫られた時には、いつだって険しくなりそうな道を、あえて選択してきた。不安がない訳ではない。怖い気持ちも湧き上がってくる。でも、同時にきっぱりと腹は括れる。なぜなら、自分自身で決めたことだから。「前に(谷奥)健四郎くんと『「こっちを選んでおいて良かったな」と思うことがオレらは多いよね』みたいな話をしていて、『確かにそうだな』って。そうなるように自分が頑張っているというか、たぶんそう思えるように努力しているからなんですよね」。自分で選んできた数々の決断を経て、鈴木準弥はとうとう日本最高峰のステージへと足を踏み入れていく。

画像2

鈴木 準弥(すずき じゅんや)
1996年1月7日生、静岡県出身。
2020年、ブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはディフェンダー。
https://twitter.com/SJunyaa
https://www.instagram.com/junya.0201

とにかく泣き虫だった息子を心配した親から、半ば無理やりに入れられた“習い事”として、幼稚園でサッカーと出会う。小学校に入学してからも、「友達がやるんだったら、自分も続けようみたいな感じで」、楽しくプレーすることだけを考えていたが、選手登録の関係で地元の少年団と、並行して通っていたアスルクラロ沼津U-12の、どちらかを選ぶ必要があった。

「正直、僕は友達がいっぱいいる少年団で続けたかったんですけど、親に『本当にそれでいいの?サッカー選手になりたくないの?』と言われて、結構悩んでいた頃に、エスパルス対ジュビロをスタジアムで見たんです。それで『プロの選手ってカッコイイな。プロになりたいな』と思って、アスルクラロを選びました」。サッカーキャリアにおける、最初の“決断”である。

中学時代は、アスルクラロ沼津U-12からの昇格という形で、ACNジュビロ沼津へ進むと、2年生の時にある指導者が監督に就任する。「前から結構会ってはいて、全然面識がないのに『調子どう?』みたいに誰にでも喋り掛ける人なので、『この人、何なんだろう?』って。良くも悪くも“不思議な人”という感じでした」。その監督こそが、今でも鈴木のキャリアに小さくない影響を与え続けている、吉田謙だった。

「指導を受ける前は堅い人というか、『怖い人なんだろうな』と思っていたんですけど、実際はユーモアもありますし、意外とふざけたりする部分もあったので、楽しく練習できましたね。あとは、吉田さんって中学時代にブラジルへ行っていたじゃないですか。だから、いつも『ブラジルに行った方がいいよ』って言われていました(笑) ハングリー精神を僕らに感じなかったのか、ちょっと緩い雰囲気になったら『ブラジルに行け、ブラジルに』って(笑)」。

「サッカー選手になりたいんだったら、たとえば大工さんとか、いわゆる職人と呼ばれる人たちと同じ“サッカー職人”として、『何か1つ自分の武器を持つことと、それを磨くことを大事にしろ』とはよく言われていました。あの頃に謙さんから教わったことは、自分がプロでやっている中でも、メチャメチャ生きていると思いますね。何を大事にするかということも、結局自分の中では今も変わっていないです」。

ACNジュビロ沼津は、その名の通りジュビロ磐田の下部組織に当たり、鈴木はユースへの昇格を目指して、日々の練習に励んでいた。実際にユースの練習会にも参加しており、そこからプロ選手としてサックスブルーのユニフォームを纏うことまでイメージしていたが、ある日の練習場で吉田から、当確と目されていた昇格が叶わない旨を伝えられる。

「ジュビロユースに行けるものとしか思っていなかったですし、僕も親もジュビロファンだったので、とにかくショックでしたね。自分の人生を変えるような挫折は初めての経験だったので、だいぶ焦りましたし、『次はどうしよう…』という感じでした」。結局、そんな鈴木に声を掛けてくれたのは、何と清水エスパルスユース。ジュビロにとって最大のライバルチームで、高校の3年間を過ごすことになった。

1年生の頃から当時のトップチームの指揮官を務めていたアフシン・ゴトビ監督の評価も高く、サテライトリーグにも出場。ユースでも2年時から公式戦で起用され、最終学年ではキャプテンも務めるなど、確かな存在感を示してはいたものの、トップ昇格は見送られる格好に。4年後のプロ入りを心に誓い、早稲田大学へと進学する。

大学での日々は、ジェットコースターのような4年間だった。1年からAチームのメンバー入りを果たすと、2年時には同校にとって19年ぶりの関東大学リーグ1部優勝を達成。個人としても全日本大学選抜に選出された中で、翌年はまさかの2部降格の憂き目に。大学最後の1年は、1部昇格だけを唯一のミッションとして突き付けられる。

「結構大変でストレスが溜まって、夏あたりに1週間で4キロぐらい痩せたこともありました。普通に練習もやっているし、1日3食も食べているのに、体重の減少が止まらなくて。グラウンドをゆっくり走っただけで足を攣ったりして、その時は『ああ、ヤバいな』って思いましたね」。

2枠しかない昇格の行方は、リーグ最終節までもつれ込んだ。勝ち点は2位の早稲田が44で、3位の中央大が42。得失点差で優位に立っていた早稲田は引き分け以上でほぼ昇格を決められるが、負ければその望みを絶たれる可能性もある状況で、既に昇格を勝ち獲っていた首位の国士舘大と対峙する。

先制したが、追い付かれる。勝ち越しても、再び追い付かれる。残り10分で三たびリードを奪い、必死にその1点を守り続けると、タイムアップのホイッスルが鳴った。結果的に得失点差で国士舘大を上回り、1部昇格に優勝という形で花を添える。

「こんなにでき過ぎた展開があるのかと思って、泣きました。キツかった時期を乗り越えての優勝、昇格という嬉しさもありましたし、これでみんなとやるのも最後という寂しさも、やっと終わった達成感もあって、本当に色々な想いがありました。でも、あの4年間はサッカー選手としても、人間としても、凄く自分が形成された時間だったなと」。今でも大学の同期と集まると、いつも同じ話で盛り上がるそうだ。

唯一のミッションを果たした約1か月後の、まさに1月1日。鈴木はドイツへと向かう飛行機に乗り込んでいた。選んだ進路はJリーグのクラブではなく、ドイツ3部リーグに所属するVfRアーレン。この決断にも、彼の強い意志が反映されていたことは言うまでもない。

「全日本大学選抜の遠征で、3年生の冬にドイツへ行って、向こうのチームと試合をした時に、僕自身もたまたま調子が良かったんですけど、僕の代理人の知り合いでドイツを拠点に動いている日本人の方から、『君に興味を持ってくれているチームがあるよ』という話を聞いて、そこでドイツという選択肢が出てきた訳です」。

「それもあって練習参加も念頭に置いて、4年生の夏にもう一度ドイツに行ったんですよ。そうしたら、やっぱり向こうの環境って本当に凄くて、自分が考えていたプロ=Jリーグというのは凄く狭い世界で、『そこだけしか知らずに進路を決めるのはもったいないな』って想いが凄く強くなって。メチャメチャ考えたんですけど、自分ももう22歳でしたし、『行くなら今しかないな』と思って、ドイツに行くことを決めました」。

結果は半年で契約満了。その後に繋がるオファーは、どのチームからも届かなかった。「攻撃の選手であれば得点やアシストのような目に見える結果があるから、多少言葉が通じなくても行ける部分はあるんですけど、やっぱりディフェンスの選手は言葉がわからないと、周りの選手とコミュニケーションを取れないですし、監督が言っていることもわからない、ミーティングも理解できない、なかなか監督も使ってくれない、と。厳しかったですね」。

あるいは失敗とも捉えられる経験だったが、鈴木にもちろん後悔はない。「結局チャレンジして失敗しましたけど、今から自分がドイツに行きたいと言っても、なかなか厳しい状況ですし、そう考えたら『行っておいて良かったな』と。やりたいことは、やりたいと思った時にやっておくべきだという感覚は、サッカーでも普通の生活でも持っていましたし、『向こうで失敗しても死ぬ訳じゃないから、帰ってくればいい』という所もありました。だから、あの半年は、自分のサッカーキャリアにとっても、人生にとっても、凄く大きな時間だったのかなと思いますね」。

帰国後はいくつかのJクラブに練習参加をする中、登録の関係で早くても試合出場までには半年を要することが判明したが、それでも翌年からの契約を申し出てくれた藤枝MYFCで、働きながらトレーニングすることになった。「ドイツから帰ってきてすぐに結婚したんですけど、いきなりバリバリの“ニート”をやっていました(笑) 結婚してすぐにそういう状況だったので、奥さんも相当不安だったはずですけどね」。

2019年シーズンが終わると、J3リーグでも実力を存分に発揮していた鈴木へ、ブラウブリッツ秋田からオファーが舞い込む。ただ、監督が代わるという情報が入っていたため、その動向を見定めてから決断しようと考えていた矢先、着信を知らせる携帯電話の液晶画面に、懐かしい人の名前が浮かび上がる。

「謙さんからの電話で、『オレは秋田に行くことになった』と言われて、「準弥に声を掛けているというのも聞いたから、一緒に秋田に行こう」と。そこで『ああ、謙さんが秋田の監督なんだ』と初めて知ったんですけど、謙さんが行くならという感じで決めましたね」。そこからの1年半は、ご存じの通り。“恩師”の元で28戦無敗でのJ3優勝、J2昇格を右サイドバックのレギュラーとして支えると、今シーズンもJ2のステージで躍動。第18節のFC町田ゼルビア戦では、華麗な直接FKを叩き込むなど、印象に残る活躍を続けてきた。

6月24日。1つのリリースが、ブラウブリッツから発表された。鈴木はJ1リーグのFC東京へと移籍する。「FC東京から話をもらって、単純にメチャメチャ嬉しかったですけど、やっぱり秋田の居心地が良過ぎる所もありますし、まだJ2も半年しか経験していない中で、いきなりああいうビッグクラブに、しかも自分がダメだったら外国籍選手とか日本代表クラスの選手を獲ってこれるチームに行くのは、なかなか怖い想いはあります。移籍する決断に迷いはなかったですけど、チャレンジすることに対しての不安と、今から凄いステージに行くなという楽しみと、両方あるなという感じですね」。

「ここまでサッカーを続けてきている人ってギャンブラーみたいな部分もあるじゃないですか。イチかバチかみたいな。これだけはもう強気に行くというか、タイミングを逃したくない想いは自分の中に元々ありますし、ドイツでの経験がやっぱりそう思う1つのキッカケになりましたね。あの時、もしドイツに行っていなくて、こっちで成功していても『オレはドイツに行っていたらどうなっていたんだろう?』とか『行っておけば良かったな』と絶対思っていたはずなので」。

1年半を過ごした秋田への愛着は、自分でも驚くほどに深くなっていたという。「秋田に来たことは“良かった過ぎる”ぐらい良かったですね。日本語がちょっとおかしいですけど(笑)、こんなにタイミングの良い移籍はなかなかないなと思います。自分たちの戦いぶりに勇気や希望をもらったと言ってくれる人も凄く多くて、誰かの人生の希望の1つになれていることが本当に嬉しくて、そのおかげで今がありますし、今回の移籍もあるので、そのことは絶対に忘れないでこれからもやっていきます」。

「(ハン・)ホガンくんも横浜FCに行きましたけど、今回は僕がFC東京に行くことで、『ああ、この選手は秋田から来たんだ。秋田ってどんなチームだろう?』と考えてくれる人を増やしていくことも自分の役割だと思うので、『こんな選手を育ててくれた秋田を応援しよう』と思ってもらえるくらい、FC東京でも活躍したいですね。サポーターの皆さんには『1年半本当にありがとうございました』という感謝の想いしかないですし、これからさらに恩返しできるように、頑張っていきたいです」。

みんなでブラウブリッツがJ1のステージに辿り着き、鈴木がソユスタに凱旋する日を想像しよう。対戦相手の選手として戦った90分間が終われば、きっと彼はホームのサポーターに挨拶へ来るに違いない。そこで最大限の拍手を贈れば、スタジアムには笑顔の花が咲き誇るはずだ。その瞬間を夢見る権利は、鈴木にも、ブラウブリッツのサポーターにも、等しく与えられている。

画像1

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?