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11.心のなかに、意識の中に生き続ける人

りななんこと、松野莉奈ちゃんが旅立ってから七回忌らしい。
2017年、僕の中ではいろんな場所へ移動したり、いろんなことを経験した一年で、
だいたいりななんのことを月に一回以上は考えていた一年だった。

年末年始にまず関東近郊にいた気がするけれど、りななんのお別れ会でみなとみらいへ行き、出張で都内の本社へ一週間滞在し、チームしゃちほこのガイシホール公演を観に初めて名古屋へ行き、と、冬から春先までは移動の機会が多め。
そこからは、エビクラシーを聴きつつ、オタクの遠征をしつつ、仕事をしつつ。
いつだって、毎月8日の月命日に、りななんの親御さんが投稿する写真を見て、振れ幅は月によって差がありつつ泣いていた。
それは、12月に「EVERYTHING POINT 5」を買って観たときが特にピークだった。
りななんの感情電車に、とんでもないくらい泣けた。
今でも、あの映像を思い浮かべると、涙が出る。
一度観て、もう一度は観られなくなった。
ただ、観てよかったとは思う。
そこから、少しだけ割り切って進めるようになったから。

以降の月命日も、ほっと写真を眺めたり、きゅうっと切なくなったりしながら、過ごしている。
きっと、命日だけでなく、月命日も特に、写真を見かけるたびにりななんを思い出す。
地上からりななんはいなくなってしまったけれど、すぐ身近にりななんを感じられる。

過去を思い出すこと、想いを馳せることに、女々しいとか今を生きてないとはあまり言ってもらいたくない。
ただ、「今もきっと共に生きている」と思えたらもっといいのかな、とは思ったりする。
最近量子力学を学び始め、意識のフォトンには寿命がなく、肉体が地上から無くなっても大気中にフォトンはあるのだと知った。
目に見えない世界、怪しむ人もいるとは思うけれど、僕は信じてみたくなった。
想いを馳せたら頭の中に思い浮かべられるのは、意識の中に、記憶の中に、その対象があるから。
フォーカスを当てたら、いつだって「そこ」にいる。
ネットでも、物理的にでも、写真や動画を見たりして、思い出して、
記憶の中の物事のようで、「今ここにもある」。
それを忘れてしまったら、自分も肉体を無くしてしまったら、フォーカスを当てることすらできなくなるのだ。

似たようなエピソードも以前小説で読んだことがあるなと思い出しつつなのだけれど、
思い出せる何かがあれば、残っていれば、その対象は今も共にあるのだと信じたい。
写真も、動画も、過去のものではあるのだけれど。
つまりは、ほんと、その年のエビ中ツアータイトル、
「今、君とここにいる」
「これからも、君とここにいる」
って、言い得て妙じゃんと思ったわけなのです。

思い出すと、想いを馳せると、苦しくなることがまだまだ多いけれど、
これからも忘れたくない。
まだまだいろんなりななんを見ていたいと、改めて決めた一日だった。

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