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ブラックラムズ東京GM 西辻 勤ができるまで。

リーグワン所属のラグビーチームは選手・スタッフ合わせて100名近い大所帯となる。その舵取り役となるのがGM(ゼネラルマネージャー)。となると、強面のいかつい男を想像するかもしれないが、ブラックラムズ東京のGMは、知らない人が見たらラグビー選手だったとは思えないソフトな出で立ち。類稀な才能を持ちながらも順風満帆だったとは言えない選手時代を経て、GMという仕事に辿り着いた西辻勤の歩みを紐解いてみる。

ラグビーとの出会い

中学3年生の時に、御所工業高校に通っていた兄にいきなり奈良県高校ラグビー大会準決勝の試合に連れていかれたのが、ラグビーとの初めての出会いだという。今も変わらず指導をしているラグビー部の竹田監督が元々西辻勤の兄をラグビー部に勧誘していたのだが兄は入部せず、その代わり「いいのがいます」と弟の存在を告げていた。

中学校時代の西辻は陸上部に入っていて100mを11秒0で走り、奈良県大会では優勝するほどだった。それで「足の速い弟がいる」ということで、兄が竹田監督に引き合わせたのだ。

「僕は高校でも陸上を続けようと思っていたのですが、どこに行くとも告げられず突然車に乗れと言われて連れていかれたのが、御所工業のクラブハウスでした。そこで初めて竹田先生とお会いしてポカーンとしていました。次にまた行くぞと言われて連れていかれたのが、花園を賭けた奈良県の準決勝で、天理対御所工業の試合でした」

「試合前のロッカールームまで入れられました。当時の部員にすれば、そのメンバーで高校生最後の試合になるかもしれないじゃないですか。みんな感極まって泣きじゃくりながら大声を出しているところでした」

結果的には、御所工業は負けてしまったのだが、その試合を観て団体スポーツもいいなと思った西辻は御所工業に入学を決めラグビーを始めた。

はじめてのラグビーに戸惑いながらも2年目からは早くも活躍

「最初はルールも分からなかったですし、コンタクトスポーツにも慣れて無かったので、ちんぷんかんぷんな感じがありました。御所工業はそれほどウェイトトレーニングはやらなかったのですが、それでも上級生はものすごく大きく見えましたし、当たったら壊れるんじゃないかと」

同級生にも体格に恵まれている選手が多く、例えば後に日本代表キャプテンにもなった菊谷崇がいましたし、プロップの二人は180cm/120kgぐらいあって、一緒に練習する怖さが最初はあったという。

「1年生の時はラグビーに慣れるのが大変で、全く試合には出られませんでした。その年は天理を破って初めて花園に出場した時だったのですが、スタンドから試合を観ていて沸々と悔しさが湧き起こって、ラグビーと真剣に向き合うきっかけになりました」

2年生に上がると最初から試合に使ってもらえるようになり、奈良県の代表にも選ばれるようになった。「ウィングとして人を騙してステップで抜くのがすごく好きで、それを追求していました」と振り返る。

3年生では主将として2回目の花園出場を果たすとともに、御所工業として初めて高校日本代表に選出され、ラグビー界からも注目されるようになっていった。

そして、早稲田大学ラグビー蹴球部へ

早稲田大学に進路を決めた理由は、竹田監督が早稲田大学の話だけを持ってきたからだ。高校からラグビーを始めた西辻は、どこの大学が強いかなどもあまり知らなかった。だから早稲田に憧れだとかも無かったし、そもそもスポーツで大学に行くことすら考えていなかった。
 
「早稲田は、独特な雰囲気がありました。全員自分たちが早稲田のメンバーだというプライドを持っていたし、絶対に負けちゃいけないという責任感をどのレベルの部員でも背負っていました」
 
「同期はマネージャー2人を入れて27人しかいませんでした。早稲田の歴史のなかでは低迷期だったと思います。試合には1年の時から出させてもらいましたが、2年生の時は怪我でほとんど試合に出られませんでした」

3年生の時には対抗戦で計19トライ、早明戦でも5トライを奪うなど、一気に世間から注目を浴びる存在になった。U-23日本代表合宿や、7人制日本代表候補にも選出されたが、早稲田でどう勝つかということにフォーカスしていた西辻は、日本代表候補の話を全部断ってしまっていた。 そして、4年生の時に清宮克幸氏が監督になり、練習は劇的に変わったという。

「1年生から3年生まではとにかく練習時間が長い、いわゆる『根性練』でした。例えば、平日の練習時間は4時間を超え、終電を逃す部員もよくいました。1年生のゴールデンウィークの時は、午前午後の練習前にグラウンドを20周走って、試合、後練、また翌日練習、といった毎日を繰り返して、最終日にはグラウンド40周を走りました。人がばたばた倒れて救急車が3回来ました」

「ですが、その時にベスト4という結果は出ました。あまりにも理不尽な練習に驚きもありましたが、厳しい練習にも一定の成果があったと考えます。一方、それが清宮さんになって、練習は2時間だけになりました。2時間の中でやり直せないプレッシャーを一つ一つのプレーに感じながらやるようになりました。あとは、とても戦略的になりました。対照的なチームづくりはラグビー人生において貴重な経験となりました」

清宮監督に代わって1年目、西辻にとっては大学ラストシーズンとなる4年生の時は副将として大学選手権で準優勝した。

怪我から自由になれなかった、リコー選手時代

卒業後に関しては、10 社ほどの企業ラグビー部から勧誘を受けたが、一番自分を必要としてくれていると感じたリコーを選んだ。その時誘ってくれていたのが、現在ブラックラムズ東京・アシスタントディレクターの福岡進だった。

リコーラグビー部に実際に入部してみて、ラグビーの競技レベルや選手のポテンシャルは、早稲田とは比べ物にならないくらい高いと感じた。だが同時に、人によってラグビーに取り組むモチベーションに差が激しく、チームとして本当に勝ちたいのかな、という気持ちも抱いた。ラグビーに取り組む気持ちの部分では、早稲田とのギャップを感じざるを得なかった。

とはいえ、入った年にコーチ陣が代わって、練習が相当ハードになり、結果的に、チームはそのシーズンにベスト4に入ることができた。厳しい練習は選手に自信を持たせ、チームを一つに纏めることを学ぶと共に、その効果の継続性、常勝チームとなる難しさも感じた。

自身は大学4年時に負った膝の怪我からその後も完全に回復することは無く、その後も怪我との戦いに明け暮れ、ついにユニフォームを脱ぐことになった。

「選手生活は27歳で終えました。怪我が多くて、大学4年生の時に前十字靭帯を半分切ってしまい、リコーに入ってからも膝の調子が悪いままプレーを続けました。初年度はプレシーズンに肩の脱臼で手術となり、2年目に復帰したと思ったら、切れかかっていた前十字靭帯が切れて手術。3年目の途中までは、怪我で何もできなかったと言っていい状態でした」

「早稲田の時代はチヤホヤされていましたし、自分がうまくいかないことを他責的に考えたり、違う価値観を受け入れられず、1年目は文句ばっかり言っていました。それを見直すいい時間になったと思います。試合に出られないメンバーの気持ちも分かりましたし、自分の人間的な部分で成長できた時間だったかなと思います」

「そこで諦めずにしっかり活躍したいと思っていたのですが、3年目の復帰戦で逆の肩を脱臼してしまいました。そこからは膝の調子がすこぶる悪くて、引退するまで半年に一度ぐらい手術している状況でした。そして最後のシーズンではチームが大きな変化を求めていることを感じ、引退を決断しました」

社業専念後、運営スタッフとしてチームに復帰

その後、2年間は社業に専念。現役選手時代には、社員選手だったのでリコーの国内販売の本部で事業戦略や事業計画を立てるような会社の中枢の部分の仕事をやっていたが、選手引退のタイミングで環境を変えたいと思い、社内募集に応募して新規事業の領域に移動。そこでは、商品企画や販売支援などをやっていた。

新しい仕事が軌道に乗り、もうラグビー部には戻ることも無いと思っていたが、当時会社からラグビー部の立て直しを任されてGMとなった福岡に力を貸してくれと言われ、今度はスタッフとしてラグビー部に戻ることとなった。

「2011年にチームスタッフとして復帰して最初は広報・普及担当でした。このタイミングで神鳥さん(※神鳥裕之。2013-2020ラグビー部監督)も採用スタッフとして入ってきました。以前からスタッフとして働いていた田沼さん(※田沼広之。現役時代は日本代表キャップ42を持つロック)を含めて、福岡GMと4人でチームを変えていきたい、強くしたいと理想を色々語り合っていきました」

その当時は、選手とスタッフの信頼関係があまり無かったように感じた。またチームに規律意識が薄く、スタンダードのレベルが低かった。実際、当時トップリーグの中で反則数も一番多かったし、荒々しいチームとしての印象があった。ただ、それは選手などの個人の問題では無くて、スタンダードや在りたい姿をチームとして示していないマネジメントの問題であったと西辻は振り返る。

GMに抜擢される

2020年にGMになる。当時新リーグの準備が大詰めの時期であったことや、歳上のスタッフが多かったことも含めて、GMになりたいと本人が強く望んだわけでは無かった。

だがGMとなったからには、端的に言えば「強くて魅力のあるチーム」に変えたかった。また、それがGMの仕事だと考えた。

「『強く』は、分かりやすいですよね。強い組織編成のため、採用活動を行うことや、強化のためにお金の面を含めて環境を整えることであったり。根幹となるクラブのカルチャーづくりも今一番拘っていることです。最も期待されていて、重要であることは理解しています。ただ勝利だけを目指していても、勝てない時でもどれだけ応援されるチームになれるかを考えないと、チームが存続していけないんじゃないかと思いました」

「広報や普及をやっていた経験と、GMになる前にいろんな勉強をさせてもらったお陰で、勝てない時でも応援してくれる支持者を増やさないといけないと考えました。その結果として、会社(リコー)や社員の皆さんも価値を認められるようになるのではないかと。そのためにどうやって魅力を上げていくかを考えて形にしていきました」

いろんな人に支援してもらわないとこのチームは存続していけないんじゃないかということは、広報担当時代から考えていた。だから広報担当になって2年目から地域貢献で協力したいと世田谷区にアクションをかけていた。最初は全く相手にされなかったが、2015年のラグビーワールドカップでの日本代表の活躍をきっかけに、今も続いている「ゲストティーチャー」活動が始まった。その活動を続けていったことによって、2021年に世田谷区とスポーツチームとして初めて連携協定を結ぶことができた。

「東京に三つあるラグビーチームの中で、どう自分たちを差異化していくか。その時に、「世田谷」はものすごいポテンシャルがあると考えました。約94万人の住民がいて、有力なプロスポーツチームがありません。駒沢という立派なスタジアムも世田谷区の中にあります。僕たちのプレースタイルも、一人の力では無くて、みんなが力を合わせて泥臭く、一生懸命やることで勝つということを自分たちのクラブの価値観としました。チームとして家族を受け入れる温かい雰囲気とか、多様性を大切にすることだとかも、世田谷の皆さんは受け入れてくれるんじゃないかと話し合いました」

「その他にもボランティア活動に参加してくださる皆さんとか、チームの代弁者となってくださる皆さんが増えてくださることはすごく大切にしていきたいと思います。仲間を増やす、周りを巻き込むということを大切に考えています」

チームをただ単に強くすればいいだけでは無く、いかに社会的存在意義を創り出していけるかがGMの仕事と西辻は考える。そのためにはプレッシャーも多ければ、多くの責任も背負わなければならない。ではGMという仕事を遂行する中で、どういうところに西辻は喜びを見出しているのだろう。

「年齢を重ねて、人の役に立ちたいと思うようになりました。それがスポーツに関わる意義、ラグビー競技への恩返しだとも考えています。今は自分が採用に関わった選手がほぼすべてになってきました。その選手たちが活躍してくれたりすることはもちろん嬉しいのですが、もっと単純に選手たちが嬉しそうな表情をしているのを見たりすること、私たちに対して『ありがとう』と言ってくれたりするのがすごく嬉しくて、モチベーションになります。これは地域の皆さまをはじめ、すべてのステークホルダーの方々も同じです。関わる皆さまが喜ぶ姿や、笑顔をより多くつくっていきたいです。できるだけ『ありがとう』と言ってもらえるように、選手やスタッフの満足度を高めながら、ステークホルダーとの接点を増やしていきます」

今日よりも明日、明日よりも明後日。より多くの『ありがとう』の声が聞けるように、西辻はGMという仕事を続ける。

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