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滅びた大内氏と戦国時代 v2 - 6157文字

足利将軍関係図

独自調査

応永の乱

1399年12月26日
19代当主・大内義弘
率いる
大内軍(5000余)
vs
3代征夷大将軍・足利義満率いる
幕府軍(30000余)
との戦い・応永の乱が始まる

1400年1月17日
大内勢は圧倒的な勢力で攻め寄せる足利勢を何度も撃退したが、最後、19代当主・大内義弘は、畠山満家に討ち取られる。

詳細
大内義弘は、仲間が、突撃のち見事な討死するのを見、自分も後代に残るような最期を遂げようと決心する。
畠山満家軍200騎vs大内義弘軍30騎で挑むが
石見の住人200騎が幕府に寝返る
→ 激怒した義弘は、石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢200騎が逃げ散る。

最期、森見部丞・大内義弘vs幕府軍となり、森見部丞が討ち取られた後、
第19代当主・大内義弘は、

天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ

と大声を発し、討ち取られた。
討ち取られた日は、かの有名な阪神淡路大震災の日・1月17日である。
その後、残りの大内勢は、
討ち取られるか、自害し、堺は落城

応仁の乱

1401年 3代将軍・足利義満が、
祖阿(後に現在の枚方市・楠葉地方の娘と楠葉西忍を産む)
を第1回遣明使
に命名
これ以降、遣明使は、
臨済宗の五山関係の僧から選任

1409年10月4日 愚中周及(4代将軍・足利義持に請われて入京・臨済宗の僧侶)が死去
1410年4月 4代将軍・足利義持高野山(真言密教)にお詣りする
1410年8月 第20代当主・大内盛見が、李氏朝鮮に、延暦寺・創建者 最澄・著者
『清涼疎鈔』(せいりょうそしょう)を要請
1411年 4代将軍・足利義持が日明貿易を停止

1412年10月5日 称光天皇が京都朝廷に即位
1414年 京都朝廷の天皇家が、伊勢国の天皇家の譲位拒否を不服としたので、
伊勢の氏族・公家である 北畠家3代当主・北畠満雅が、
京都朝廷側についた、北畠家一族の木造俊康坂内城を攻め落とした。
1415年4月 4代将軍足利義持伊勢国に侵攻開始(坂内城が攻め落とされたので)
1415年8月 後亀山法皇の仲介のもとに
北畠満雅・4代将軍・足利義持が和睦

1420年 小田氏(武家)の雪舟が誕生

1421年4月26日 木造俊康は、京都の流行病で薨去す
1425年3月17日 5代将軍足利義量・死去・享年19歳(大酒呑であった)

1427年9月 4代将軍・足利義持が、身分が下の、赤松満祐に、満祐が守護していた三つの土地(播磨・備前・美作)のうちの一つ・播磨の土地を没収し、はとこの赤松持貞に与えようとした。(家族トラブル)
1428年1月 赤松満祐は、自宅を焼き払い播磨へ合戦の準備を始める。(家族トラブル)
1428年1月 第6代将軍 足利義教は、後小松上皇と名乗る。
1428年2月 第4代将軍・足利義持は、残る備前・美作を没収した後、追討令を出す。(家族トラブル)

1428年7月20日 京都の天皇・称光天皇の崩御
1428年7月28日 彦仁王は後小松上皇(第6代将軍・足利義教)の養子となり、親王宣下を受けることなく7月28日に御花園天皇として即位。

1428年8月 後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は伊勢にいた北畠満雅を頼り、居住地の嵯峨から逃亡
1429年1月25日 北畠勢は、雲出川で幕府軍を大破・敗走させたが、逆に、北畠満雅は討ち死に  。
1429年次代当主・北畠教具は7歳であったため、大河内顕雅が職務代行し、北畠家を存続させる

1432年 6代将軍・足利義教が、日明貿易を復活

1434年7月 延暦寺が6代将軍・義教を呪詛している噂が流れる
1434年8月 6代将軍・足利義教は、延暦寺からの物資の流入を一時的に止めた。
1435年1月9日 足利持之ら幕府・賢者5名が、『比叡山赦免が成さなければ、(比叡山の人たちを許さなければ)、自邸を焼いて本国に退去する(自分たちの家を焼いて故郷に帰る)』と要請
1435年3月3日 6代将軍・足利義教は、延暦寺代表・山門使節4人の首を刎ねた。
1435年3月4日 幕府に対する抗議のため、24人の比叡山の山徒が焼身自殺
1436年2月 6代将軍・足利義教が、京極持高らに、22代当主大内持世の支援して、大内持世が、大友持直・少弐嘉頼の討伐するように命じる

1441年 6代将軍・足利義教が、身分が下の赤松満祐によって殺害(家族トラブル)

1454年 雪舟は、京都の相国寺から周防国に移り23代当主・大内教弘の庇護を受けた
1461年 23代当主大内教弘が、公家の斯波義廉(斯波氏は、源氏族であり、斯波姓を賜った氏族)を匿ったことを理由に、室町幕府は、大内教弘討伐を決める。
1461年1月22日 幕府は、教弘の領土・東西条(東条・周南市須々万地区西条・周南市鹿野地区)を奪い、武田氏に渡すために、小早川煕平を山口県(教弘が守護していた場所)に派遣した。

派遣される前に、23代当主・大内教弘は、平賀弘宗・小早川盛景らと共に、東西条に出陣し、細川氏・武田氏の攻撃(幕府の攻撃)に対策をし、安芸・石見・肥前の土地と、細川氏の日朝貿易・日明貿易の権利を剋ち取った。
1463年 23代当主・大内教弘は、大内氏当主に復帰し、出家

1463年9月20日 8代征夷大将軍足利義政の正室・日野重子が亡くなる
1465年6月 幕府は、23代当主・大内教弘から、奪い、東西条の武田氏への引き渡しすることを諦め、東西条を奪ってないが、返還していないことを理由に、23代当主・大内教弘に、伊予国(現在の愛媛県)河野通春討伐に向かわせる
1465年9月3日 23代当主・大内教弘は、伊予国の途中にある離島興居島(コゴジマ・山口県南の離島)で死去。享年46歳。
1465年9月13日 22時頃 南西から北東の方角に謎の発光体が(天狗流星)が飛び、天地は鳴動した。 - おそらく、教弘は星となり、山口県南・興居島から京都御室仁和寺・宇多法皇に方角へと向かったと思われる。

1465年12月11日 足利義尚・第9代将軍が誕生する
1466年10月14日 足利義視(母は、正室ではなく、平通盛の愛人・小宰相である)が、『伊勢貞親が、いとこの義政に自分の悪い噂を流し、殺されるのでは?』という不安に駆られ、細川勝元の夜の自宅に訪問。義視は、27歳の時であった。
1466年11月6日 細川勝元は、足利義政に、伊勢貞親・季瓊真蘂・赤松政則を逃すよう懇願
1467年1月17日 畠山義就が、上御霊社の畠山政長を襲う(畠山氏の内紛の代理戦争・応仁の乱の開始)

※ 1月17日は、胡蝶蘭(Phalaenopsis)であり、花言葉は、あなたを愛します、であり、日本人に受け入れて欲しかったが、遂に、受け入れてもらえず、聖徳太子(敏達天皇の長男)と、天啓を通して出逢った、琳聖太子(武王の三男)は、王編が、三水編で流れてしまい、ただ、淋しい存在になってしまいました、、

1467年5月26日、27日 現在の京都市上京区で東軍16万・西軍11万が衝突
1467年6月3日 8代将軍・義政が、細川勝元を、将軍家の旗・官軍と認めた
1467年6月21日 山名持豊(出家後・山名宗全となる)・畠山義就らが挙兵
1467年7月20日 第24代当主大内政弘が、山名宗全の招聘により、兵庫県神戸市兵庫津・摂津の兵庫に上陸(山口の周防から船で着陸)
東軍・筆頭格・細川勝元と赤松政則の家臣は、大内軍の入京を止められず
1467年9月21日 第24代当主・大内政弘が、兵庫津から京都に入り、西軍の士気を高める。
1467年9月29日 畠山義就が、武田信賢の守る三宝院(京都伏見区醍醐寺)を放火
1467年10月4日 8代将軍・義政の停戦勧告
1467年10月11日 内裏を占拠
1467年10月12日 東軍・筆頭格・細川勝元と赤松政則の家臣が兵庫津における大内軍との戦いの84日後入京
1467年10月30日、31日 大内軍(西軍)は、相国寺(雪舟が10〜44歳まで禅・絵を学んだ寺)の奪取により、東軍を追い詰めたが、多大な死者を出したため、一時停戦し、戦場は、京都から地方へ散発的に波及
1468年 雪舟は、明へ渡る
1468年 斯波義廉(大内教弘が匿った源氏族・斯波姓を賜わる)は室町幕府と敵対する関東の古河公方足利成氏に和睦を独断で提案
1468年4月13日 細川勝元に買収された骨皮道賢は、大内軍から逃れるため、女装するが、大内軍に属していた朝倉孝景に討ち取られる
1486年7月6日 京極勝秀が父持清よりも先に病死・享年35歳(2年後父も死去)
1468年7月10日 8代将軍・足利義政は独断専行した斯波義廉に激怒し、 斯波義廉(源氏)を解任して、細川勝元を管領に任命、 斯波義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げた
1468年9月 足利義視(母は、愛人・小宰相であり、平通盛との子供もいる)は、比叡山に逃亡し、西軍入りする
1468年9月22日、足利義視は、細川勝元や足利義政に説得され東軍に帰陣
1469年1月18日 少弐嘉頼の弟・教頼は、京都で対戦中の第24代当主・大内政弘の留守をついて、宗盛直(過去に倭寇と戦っていた一族)と千葉教胤・菊池武国らと共に太宰府を守護していた仁保盛安を攻めるが、第24代当主・大内政弘の命を受けた筑紫頼門・渋川義種の軍勢に敗北し、筑前志摩郡の高祖先城において、自刃した。
1469年 雪舟は、山口の周防に帰国し、周防・豊後・石見で創作活動を引き続き行う
1470年11月6日 越前において、畠山政国は、浅倉孝景に殺害される

1471年9月12日-10月25日 鹿児島市の桜島が噴火(1980年のセント・へレンズ島と同程度の人類史上最大規模の噴火)
1473年4月15日 山名宗全が死去
1474年 1月7日 細川勝元が死去
1474年 桜島の噴火の続きが始まる
1475年8月15日 引き続き、桜島が噴火
1475年12月28日 足利義視・足利義政和解
1476年9月12日 引き続き、桜島が噴火することにより、沖小島・烏島が形成
1476年 足利義政が24代・大内政弘に和睦を求める
1477年12月16日 24代当主大内政弘ら諸大名が撤収したことで、戦闘は収束・義視も土岐成頼と共に美濃に遁走(大内軍・西軍の解体は1日で終了)

1477年12月25日 室町幕府は、『天下静謐』の祝宴が催され、足利氏以外の我慢の11年間は終わる。

1481年 雪舟は、美濃(足利義視の遁走先)へ旅行(1501年には天橋立に赴き作品を残す)
1487年9月28日 9代将軍・足利義尚は、六角高頼の討伐のため、2万の軍勢を率いて出陣し、高頼は、観音寺城を捨てて、甲賀郡へ逃走した
1489年4月26日 9代将軍・足利義尚は、酒色に耽溺し脳溢血で亡くなる・享年25歳
1490年1月27日 8代将軍・足利義政亡くなる・享年55歳
1496年7月20日 大友政親(足利義政が、討伐したかった氏族)は、筑前国に遁走したが14日後に、大友義右が急逝すると、政親の毒殺のデマが流れ、豊後国(現在の大分県)に帰国し、大内領侵攻のために兵を集め、筑前国(現在の福岡県北東部)へ向かうが、船が遭難し、大内氏の本拠地・長門国(現在の山口県)に辿り着く。
激怒した第25代当主大内義興(義隆の父)が、杉信濃守に、大友政親を捕まえさせ、長門舟木地蔵院にて、切腹させられた
1497年5月21日 幕府より、少弐政資の追討令を受け、大内氏・渋川氏連合軍により、政資は、多久城で自害、高経は、城から逃げて形勢を立て直すも、大内の追討を受けて、市の川で、辞世の句を読み自害

1498年9月11日東海道全域で大地震(明応の大地震)が起こり、浜名湖が外海とつながる。


大河内城の戦い

結果→ 織田信長(70,000)と北畠具教(8,000)で和解

織田信長の土地の拡大の要望の結果、
息子は、北畠家となり、大河内城城主・北畠信雄となる。

1567年 織田信長は、北伊勢の八郡を手中に収め、残る南伊勢郡五郡を手中に収めるため、南伊勢国を統治している北畠具教と対立する。
1569年5月 木造城主・木造具政が、織田信長に謀反。
1569年 5月12日 北畠具教は、木造城を攻撃するが、信長は8月まで持ち堪える。
1569年 8月20日 信長は、総勢7万の軍を引き連れて、岐阜を出陣し、23日に到着。
北畠軍は、既に、1万6千の軍を、大河内城(8,000)とその支城(8000)に分散させて籠城。
1569年 8月26日 織田軍が阿坂城を落城させ、大河内城へ
1569年 9月8日 織田軍は、夜討ちを狙うが、雨で鉄砲が使用不可となったため、後退。
1569年 9月9日 織田軍は、多芸城を焼き討ちし、近辺も放火し、住民を大河内城へ誘導。
1569年 10月3日 織田家と北畠家は何故か和解。

和解の条件は、
織田信長の次男・信雄を北畠の後継にすること(血縁関係なし)
大河内城は、北畠信雄に引き渡すこと


天正伊賀の乱

北畠信雄の土地拡大の要望の結果、
無関係な僧侶700余の首を切断(平楽寺のみであっても)し、
伊賀国全住民の3分の1の命を殺害し、
元実親であった織田信長に、阿拝郡・伊賀郡・名張郡を受け取る。

1576年 織田家から北畠の養子となった北畠信雄は、三瀬の変で北畠一族の一部を暗殺し、伊勢国を制圧。
1578年2月  奈知城主・下山平兵衛が、侵攻を止めるよう信雄に進言。
1578年3月 信雄は、滝川雄利に北畠家当主の隠居城・丸山城の修築を命じた
これを知った伊賀国郷土衆は、天童山に密偵を送ったところ、丸山城が、陸の孤島になりつつあった。
1578年10月25日 忍者が総攻撃し、織田軍は兵力を一箇所に集め伊勢国に遁走。
1579年9月16日 信雄は、独断で8000の兵を率いて三方向から侵攻させたが、織田軍は、被害を甚大に受けた上、伊勢国に遁走。(信長は元息子・信雄に叱責した後、怒りが収まらないため、『親子の縁を切る(もう切れているが)』との書状をしたためる。
1581年4月 安土城の信長に、とある二人が伊賀国への道案内を約束する
1581年9月6日 信雄は50,000の兵を率いて、伊賀国に侵攻開始
伊賀衆は、比自山城・3500平楽寺(後の伊賀上野城)・1500の兵で準備。
比自山城は、織田軍の攻略が、幾度も失敗に終わる。その際、活躍した伊賀衆を比自山城の七本槍(私の好きな日本酒の銘柄の一つ)という。
1581年9月11日 伊賀衆は、スパイや織田方の調略を受け、連携を欠いたため、織田軍がほぼ伊賀国を制圧。

村や寺院は焼き払われ、無関係な住民が殺害(平楽寺のみでも僧侶・700余が首を切断させられ、伊賀国全住民(非戦闘員を含む)の3分の1が人の手によって殺害された。
伊賀国・柏原城城主の滝野吉政の人質開放と共に、一人(信雄)の隙ではなく、烏合の衆(10万以上)の隙の無為な被害の拡大は、一旦止む。
烏合の衆の指揮官は、自国ではなく他国へ遁走。ほとぼりがのち、自身の冷静さと共に、自国へ帰国。

1581年10月9日   信長は、元息子・信雄に阿拝郡・伊賀郡・名張郡をプレゼントした。

以上

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