結果→ 織田信長(70,000)と北畠具教(8,000)で和解
織田信長の土地の拡大の要望の結果、
息子は、北畠家となり、大河内城城主・北畠信雄となる。
1567年 織田信長は、北伊勢の八郡を手中に収め、残る南伊勢郡五郡を手中に収めるため、南伊勢国を統治している北畠具教と対立する。
1569年5月 木造城主・木造具政が、織田信長に謀反。
1569年 5月12日 北畠具教は、木造城を攻撃するが、信長は8月まで持ち堪える。
1569年 8月20日 信長は、総勢7万の軍を引き連れて、岐阜を出陣し、23日に到着。
北畠軍は、既に、1万6千の軍を、大河内城(8,000)とその支城(8000)に分散させて籠城。
1569年 8月26日 織田軍が阿坂城を落城させ、大河内城へ
1569年 9月8日 織田軍は、夜討ちを狙うが、雨で鉄砲が使用不可となったため、後退。
1569年 9月9日 織田軍は、多芸城を焼き討ちし、近辺も放火し、住民を大河内城へ誘導。
1569年 10月3日 織田家と北畠家は何故か和解。
和解の条件は、
織田信長の次男・信雄を北畠の後継にすること(血縁関係なし)
大河内城は、北畠信雄に引き渡すこと