2022年1月11日 - 効率的な生き方(仏教、音楽、過学習、ゾーン状態など)

1.五蘊

五蘊とは、色、受、想、行、識である。色は、物質のことで、受は、外界からの刺激を受け取る感覚器官の働き、感覚作用のこと、想とは、外部から受け取った情報を構成して構想をつくる働き、つまりイメージのこと、行とは、何かを行おうと考える意思の働きで行動の前提となる心的作用、識とは、識別作用を含む認識の働きのこととある。(佐治晴夫著 マンガで読む14歳のための現代物理学と般若心経 p.119~p.120)

 1.1意識の例え

自分の意識の外を意識することはできない。これがある意味、家という意識の檻から出られない人のようなものと例えることができる(と思う)。これからこの例えで説明していこうと思う。

 1.2受、知覚

受とは、知覚のことで、家の中の窓のようなものである。つまり、世界全体を知覚することはできない。必ず、見えている部分は限られる。

 1.3想、感情

そして、その知覚を基に、世界の構造を予想するのが想、感情である。窓から見えている情報から世界の構造を考えるのである。知覚がなければ、情報が何もないのと同じで、感情の精度も落ちる。遺伝子に組み込まれた本能的なことなら、知覚がなくても感情を感じることができるかもしれない。例えば、前世の記憶や、デジャブや第六感などがそれだろう。

 1.4行、判断、そして行動

そして、その予想を基に、現状をどうするかを決めるのが行、判断である。次に行動だが、これは、色を持って外界に働きかけることで行われる。しかし、色というのは、仏教用語で色即是空とあるように、ただちに空である。物質というのは考えてみれば、私たちの脳内だけに存在するものであり、逆に知覚できないものは、物質と言えるのだろうか?知覚とは、五感の感覚器官から入ってきた情報を脳内で処理し、あたかもそれが現実であるかのように錯覚しているだけである。だから、仮想現実や夢なども、情報量が多ければ、現実と区別つかないだろう。むしろ、現実って何?となる。デカルトの言葉にもあるように、我思うゆえに我ありとは、実体があるのは、自分を自分だと思っているこの現象だけであるということだろうか。行動は空であるが、行は実体があるのかもしれない。

 1.5識、思考

最後に、五蘊の最後、識であるが、これは、思考のことで、行動の結果をフィードバックするものである。行動(物質界、空)から識(精神界、実体)にフィードバックするのである。フィードバックとは、次なる行動の軌道修正を提案したり動機付けしたりするものである。つまり、判断、意志エネルギー、目的と同義である。理解もここにあたる。理解とは、物事を分かることつまり、物事をカテゴリーに分類することである。物事をカテゴリーに分類するということは、その物事を同一カテゴリーの他の部分と代替可能であることを見出すことである。つまり、執着しなくなる。理解とは、こだわらないことである。音楽なども絶対的経験の相対化であると思う。どういうことかというと、言葉で表せない感情を音楽で置き換えることで、感情を理解することである。絶対的感情(代替不可能な執着してしまう感情)を相対的感情(代替可能な、理解可能などうでもいい感情)に置き換えることである。物事をカテゴリーに細分化すればするほど、こだわらなくなる。なぜなら、その物事に名前がたくさんつくことで、情報量が増し、代替可能性が増すからである。敵を知れというのも、敵のことを分析して、名前がたくさんつくほど、敵の行動を理解、つまり、こだわらなくなるのである。

  1.5.1思考についての誤解

人はよく他人を理解したものとして判断することがあるが、先ほどの家の例では、意識の形(家の形)は見えても、その人が中でどんな行動をしているか全てを見ることはできない。その人の家の窓から見えている範囲でしかわからない。行動ですら部分的にしかわからないのに、その人がどういう判断をしたかなどはわかりようもない。その人を理解するとは、その人の判断を理解することに他ならないから、理解することは不可能である。また、世界についても一部しか見えてないので、そこからどれだけ予想しようとも、少ないデータでモデルを作るように、過学習が起きてしまうだろう。(過学習とは、学習データに偏ったモデルとなることで、未知のデータに対応できないモデルとなること)ただし、偽の思考は作ることはできる。俳優などが自分に”自分はこの役だ”と言い聞かせたり、催眠術であったり、アファメーションなどがそれだろう。どうせ理解できないのなら、偽の思考を作ってしまおうというのである。しかし、偽の思考を作ると、それを実現するための行動に至る判断を変化させることになる。つまり、アイデンティティは自分で作ることができる。

  1.5.2良い音楽とは

ここで音楽の例を挙げる。良い音楽とはどういうものか。やはり情報量だと思う。情報量が多いというのは、音楽の切り口が鋭くて、それによる流れる血が多いということである。切り口が鋭いというのは、どんな物事でも切れる、つまり理解する能力が高いということである。音楽で言うと、本当にいい音楽を聴くと、どんな物事にもこだわらなくなるのかもしれない。どんな物事も理解でき(言葉ではなく感覚で)、代替可能性を見出し、こだわらなくなるのだ。切り口を鋭くするには、その切り口によって、より多くの物事を説明できなくてはならない。つまり、全然、ジャンルの違う二つの要素に共通する特徴を見出すことで、それが切り口になる。

2.効率的な行動

 2.1行動の種類

行動には、知覚から感情(予想)を通さず判断し行動する反射的行動(本能的行動)と、知覚、感情を通すが思考を通さず判断し行動する感情的行動と、知覚、感情、思考を通して判断し行動する理性的行動がある。行動をより発展させるためには、目的を達成するためにどれだけ効率化ができるかを思考することである。本能的行動は、感情を通さず判断して行動するため、ある意味、恐怖とかを超えてくる。例えば、火事場の馬鹿力など、脳のリミッター(感情によって生まれる)を外した行動ができる。しかし、その分、体が壊れてしまうことがあるだろう。感情的行動とは、思考を通さないので、理解なしつまり、物事を代替不可能としたまま行動してしまう。そのため、ギャンブルや共依存など、対象が何よりも大事に思えてしまう依存的行動に陥りやすいだろう。それに対し、理性的行動は、しっかりと対象を理解し、なにごとにもこだわらない状態でもっとも効率のよい行動を目指すので、最も現実に即した行動となる。

 2.2本能とは

本能として、よく三大欲求が挙げられる。性欲、食欲、睡眠欲である。それらを完全に満たすことはできないが、一時的に衝動を満たす方法として、性的行動、食事、睡眠がある。それぞれ、感情、行動、思考にエネルギーを与えるものではないか。性的行動は、いわば、オキシトシンのように、人間関係による幸福のためである。食事は、セロトニンのように、肉体的な健康のためである。睡眠は、ドーパミンのように、精神的な健康のためである。まずセロトニンが満たされてから、オキシトシンが満たされ始め、最後にドーパミンが満たされるので、とりあえず行動をして満たされたら、感情が満たされ、思考が満たされるのかもしれない。

 2.3非生産的な行動も必要?

自分の生活を見直してみるとわかると思うが、明らかに、生産的でない行動をしていて、さらにそれが必要不可欠になっていることがある。例えば、音楽を聴くなどは、それによって何かが産まれるわけでもないが、聴かない人生など考えられない人もいるだろう。漫画やアニメ、映画、ドラマなどもそうである。それらの非生産的な行動が必要ないと思うのは、自分の狭い見識の中でものを見ているからだと思う。自分の価値観というのは、ただでさえ、世界の一部しかみていないなかで学習して得られた不完全な価値観なのに、それを妄信して、その価値観に合わないものは全てオミットして、効率性を重視する人生を送ると失敗するだろう。常に、自分の価値観は過学習していることに気付くべきだ。つまり、自分の価値観では説明できない事象が必ず存在する。論理的には正しいかどうかはわからない価値観も世の中には存在する。その価値観を自分で取り入れてみて、新たな現象が説明できるか試すといいと思う。

 2.4論理性とは

論理とはひとつながりになった思考回路のことである。世界は全て論理的に説明できるのか。例えば、幽霊やブラックホールなどは、現在でも謎、つまり、現時点で存在する理論では説明できない。しかし、全て論理的に説明できるとする立場の人は、まだそれは見つかっていないだけだとする。では、今目の前に見えているカレンダーはなぜこのような形なのかというのを論理的に説明できる日は来るのだろうか。論理的に全て説明できるという人は、宇宙の始まりに神の一撃があり、あとは、惰性、つまり論理的に自動的に発展しているだけだとする。しかし、それでは、神を説明できない。また、自由意志なども論理では説明できない。無限の自由とは、論理的に存在することがおかしい。有限の世界に無限は存在できないと感じるだろう。なので、普通の人は、論理的に説明できないことは確かに存在することをわかっているが、学校で算数や数学などの学問を学び、論理性の大切さ、予測できることの大切さを学ぶ。しかし、理論によって全て予測できるようになったら、将来、膨大な情報を扱えるコンピュータにこの世の復元ができるだろう。まず無限の自由意志がある時点で、論理性は破綻している。この瞬間叫んで、隣の家に迷惑をかけることもできる。それが波及して、風が吹けば桶屋が儲かる的なバタフライエフェクトで、色々なことが因果律によって起きるかもしれない。でもその根本は、無限の自由意志だとしたら、それは説明になっていないし、なにが起こってもおかしくないという結論になるだろう。しかし、なにもかもが予測不可能になってしまったら、混乱が混乱を招き生きていけないだろう。この世の中には、予測可能なことと予測不可能なことが一定数存在するのである。それが1/fの揺らぎであり、心臓の鼓動や他にも自然界にたくさん存在する。理論重視になる怖さである。

 2.5ゾーン状態とは

ゾーン状態とは、集中力が非常に高まり、周りの景色や音などが意識の外に排除され、自分の感覚だけが研ぎ澄まされる非常に効率的な状態になることである。プロアスリートなどがよく起きるとされている。これは、自分の行動が、自分の意志で動いているのではなく、周りに動かされていることを自覚したときに起こるのではないだろうか。ある意味、統合失調症の作為体験みたいな話だが、自分があやつられていることを自覚しながら行動するのと、自分はあやつられているかもしれないと思いながら行動するのでは全く違う。前者は、ゾーン状態に入れるが、後者は、パラノイアになるだろう。ある意味、前者は、社会に認められた目的を遂行しているという使命感のもと行動することで、セロトニンとともにオキシトシンとドーパミンがフルに刺激されているのではないか。仏教でいうと、物質とは空であるということなので、今見えてたり感じてたりするものは実際にはない。しかし、そういう風に思っている自分(判断)だけは実体があるということを認識できればゾーン状態に入れるのかもしれない。

3.さいごに

最も効率的に生きるには、まず理論にこだわらず、次に言葉にこだわらず、最後に感覚にもこだわらなくなった先にあるのかもしれない。


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