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長幼の序について

以前、blogのコメントでこんな内容の書き込みをいただいたことがありました。
「僕には長幼の序という概念はありません。年齢の関係なく相手の本質を見極めて決定します。だから老害の人間は亡くなってくれと」

このような内容の書き込みだったのですが、正直若いといえない私にしてみれば、なんとも遣る瀬無い気分になったものです。

長幼の序と言うのは、儒教の五倫五常から派生した言葉だそうで、この辺は少し長くなるのですが語彙辞典から引用させていただこうと思います。

http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_si/goi_si_5.html

 あくまでも根本は仁であり、五常どれも仁の範疇を出るものではない。
 仁は是非を明らかにした上で全てを包容するもので、明らかになるが故に義が生じ、人に節操(礼)が生じ、真理に通り(智)、守るべきもの(信)を知るのである。
五倫における父子の親も同様に全ての根本となる。
父子の親は孝であり、孝は親に対する仁である。
親子というのは全ての始まりであり、この始まりを尽せる人であってこそ、義・別・序・信がなる。
別というのは各々がその分を尽すことである。
これを節操といい、礼という。
そして人は長幼というものを知って尽すべきであるから、これを長幼の序という。
長幼というのは如何ともし難い天命であるが、人はこれを知って尽すことで命を自ら運んでゆくことができる(運命)。
これを真理に通るといい、智という。

結果的に日本人も多少なりとも韓国ほどではないにしろ儒教の影響を受けているのですが、儒教の影響が結果的には下記にも書かれているように。

五倫五常の思想が短絡的に政治へと利用されて統制のために悪用されるようになり、また、夫婦の別を男尊女卑に、長幼の序を単なる序列主義に捉えるなど歪曲されてしまう傾向が強い。

ここをもって、最初の彼が書いていたような発言になると思うのですが、考えてみたらすごく残念です。
彼自身が、思慮の浅い人間であることを告白しているように思えてなりません。

きっと、若いんでしょうけど。

そうしたことを堂々と書くということは、正直私からすれば若いなと思う反面、ネットなどで公開すること、はそれなりにリスクも伴うと思うんですね。

(私自身もこうして書くことで反発をされることは十分承知しています。でも、私はそれでもblogもfacebookも実名、実写真をアップしていますし、差し支えない範囲で個人情報をあけっぴろげている。苦笑)

それは何故か、売名行為?それもあるかもしれませんが。

自分自身の言葉に責任を負うためです。

そして、自身は不完全な人間であり、完璧な人間でないからです。

もっと言えば、無知な人間だからです。

自分が知っている範囲なんて世の中の真理からすればほんのちょっぴりでしかありません。

「群盲象を評す」、もしくは「群盲象をなでる」といったインド発祥の寓話がありますが、まさにわれわれは真理という世界の中では、この状態ではないでしょうか。

多くの見方、多くの考え方がある中で、ある人は「これが真理」だといって、またある人は別の部分から見て「これこそが真理だという」

いわば自分の価値観だけで、「長幼の序」等というのは言わば「老人が若者に対して敬えと一方的に言っているものだ。故にそんな発想は受け入れられない」という考え方になるんでしょうね。

私も思慮の浅い人間ですから、ここまで書いて、彼の考え方が少しだけわかったような気がします。
ですから、私も「長幼の序」の考え方を改めますとはなりませんよね。

私の中では、あくまでも「長幼の序」は自身が生きてきたなかで必要なことであり、年長者の経験に基づく意見は傾聴すべきであり、それが仮に理不尽なことであったとしてもそこに至るまでのプロセスというか経緯を知ったうえで判断することが大事かと個人的には思っています。

だって、自分の人生で経験できることって限られているのに、自分の価値判断だけで他人を批判するなんて私にはそんな大胆なこと出来ませんから。笑

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