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自覚出来る人は、強い人?

文章を書く時にはいつも頭を真っ白にして、そこから浮かび上がってくる言葉をキーボードを通じて表現するようにしています。
パソコンなんて無かった時代、それこそ、紙と鉛筆だけの頃は、それこそ下書きを紙に書きながら、ただ書く時もきちんと筋道立てて書くわけではなく、パーツと言うべき言葉の断片を並べて、その言葉の断片に見えるタグを頼りに言葉をつないでいく、そんなことをしていました。
いわば、言葉ではなく、ブレーンストーミングの付箋のようなイメージと言えば判りやすいでしょうか。
学生時代のノートもそんな感じで、後で見ると記号の羅列にしか見えないみたいな・・・
多分に、脳の構造と言いますか、思考回路がそういう人なんでしょうね。
論理立てて、きちんと文章に片付けるのではなく、言葉の断片から言いたいエッセンスだけを抜き出して、メモに書く
当然のことながら、流れる言葉の途中、途中に断片が生じるので、その間を自らの言葉、自らのか考えで埋めていく。

そんな傾向がありました。
結局、教えられたことを全てその通りトレ-スすることが出来ないので、世間から見ると愚鈍に見えるわけですね。

だから、若い頃は苦しむわけですよ。
「おまえは鈍くさいなぁ」とか。「疎い」【一般的には、関わりが薄い・物事の事情に通じておらずよくわからないと言った意味合いで使われるようですが、これを愚鈍という意味合いで使われる】と言われるわけです。

だから、最初はそれを受け入れられなくて、

でもね、ある時思ったんですよ、自分は愚鈍なんだって。

考えてみたら、自分自身が生を受けて50数年、世の中の全てを知っているのでしょうか。
法律にも。医学、IT技術にも、それこそ全ての分野にわたって自分は万能で有り、有能でしょうか?

あなたはどうですか?

そう考えれば、自分が愚鈍であると言うことを自覚したのなら、そうした知識を足せば良い、

ただ、昨日書いた話ともダブルのですが、

いたずらに色々な分野に芯を打つのではなく、今まで経験してきた分野でより深い芯を打ってみる、もしくは類似のところで新たな芯を建ててみることが、自身の人生をより豊かにしてくれるのではないかと思うわけです。

己が愚鈍であることは恥ずかしいことではなく、己が愚鈍であることすら気づかず、自分は賢者であると思い込んでいる人こそ、自らが見えないという点で恥ずかしいのではないでしょうか。

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