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カリスマとマスコミについて考える

先日、学術文庫の「群集心理」ギュスターヴ・ル・ボンを読み終えたのであるが、ここに描かれる群集心理という概念は、現在にも十分当てはまるというか、人というのは100年程度では殆ど進化していないと言うことを改めて思わせてくれます。

過ちを繰り返してはいけないからと言いながら、同じ過ちを繰り返している・・・これが人類だと言えましょう。

私たちはややもすると、ある一定の人たちの声に扇動されて流されてしまう。

ある一定の声が大きい人に、もしくはカリスマ的な存在に流されてしまう。

いわば、寄らば大樹の陰というか、神格化してしまう。

まぁ、その一角を担っているのはマスコミと呼ばれるメディアの存在も無視できないと思うわけです。

マスコミ・・・これ自体はマス・コミュニケーションを略した言葉なのですが、マス・・・大衆、コミュニケーション・・・伝達・意思疎通 と言うことですので、大衆への伝達もしくは、大衆への意思疎通と言うことになるわけですね。

そこに、ある一定の影響力と言うよりも目立つ人なりが参加すれば・・・その人を「若者のカリスマ」とかなんとか書き立てて偶像化してしまうわけで、そうなると群集の心理では、その人の発言、一挙手一投足が全て真似をするもしくは受け入れる対象となってしまうわけです。

仮にそのカリスマが、ある権力者の操り人形に過ぎなかったらどうなるでしょうか?

大衆は見事に、その操り人形により操られる、カリスマを通じて大衆が制御されてしまうことになります。

そして、その責任の一端はカリスまではなく、マスコミが負うことになり、又カリスマもその責任の一端を負うことになります。

群衆はそのカリスマを支えただけであり、カリスマはこれまた群衆からはいつでも見捨てられると言う可能性も持ち合わせています。

マスコミも、カリスマを操る権力者は、カリスマをいくつでも用意しておけば良いわけですから。

カリスマと呼ばれる人が自分の立ち位置を理解して、操り人形(マリオネット)であることを止めて自らの意思で動き出したとき、マスコミや権力者(マスコミが権力者を兼ねている場合もあるが)が、新たなカリスマを投入して大衆を群集心理によって再び迎合させることは十分あり得るわけです。


そのように考えると、為政者よりももっと大衆一人一人が、群集心理に惑わされない、そんな自分なりの信念というか考え方をしっかり持つことが改めて大事なことなのではないかと思うわけですね。


一番良くないことは、マスコミと権力者が迎合して正しい情報が正しく伝わらないこと・・・これが一番問題として大きいことだと思ってしまいます。

個々人がもっと賢くなって、マスコミによる扇動を受け入れなければ良いのですが、それを受け入れてしまう群集心理、深く考えないままに行動する大衆意識をもっと我々は反省すべきではないかと思ってしまいますね。


すみません、どうにも何を書きたかったのか判らないままになってしまいましたが・・・ふと思ったことを思うままに書き綴ってみました。

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