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全ての学びは一つの道に


今日は私が昔考えたことを少し書いてみたいと思います。
これは小学校の高学年くらい?だと思います。

当時はかなりいじめられっこだったこともあり、一人遊びが得意な少年でした。
リアルにあった方なら、それは嘘でしょと言うかもしれませんよね。笑

実際に、虐められまくってね、同級生の女の子にも嫌われるというか、完全に無視されるんですよ。
汚いとか、臭いとか、腐るとか言われてね。

ひどい話でしょ。

当然僕の机の周りを避けて掃除するなんてことは当たり前だったんですね。
だから、さらに周囲と溶け込めない。

そんな無聊を慰めてくれたのが、本なんです。

どこかに見返してやろうといった気持ちがあったんでしょうね、小学生のくせに電気などに関しては大学生が読むような専門書を読みあさっていました。〈ませたガキですよね。お陰で、小学生の時によくわからないまま3極真空管によるトランジスタ効果や水銀整流器によるタップ制御などと知識だけを詰め込もうとする生意気なガキでした。
それで余計に虐められたのかな?

まぁ、そんな小学生時代、ふと思ったのは何故、「国語、算数、理科、社会と言った科目に分かれているのかな?」という素朴な疑問でした。

当時は、子供ながらに考えることがいわゆる一人遊びになっていたので、本当にいろいろ考えたものでした。
そう、考えるということ?これについても悩んだ時期がありました。
まぁ、その辺が地頭を無意識に鍛えていたのかもしれません。

僕は何も知らないし、何もわからない。
ある人は、鶴亀算が得意だけど僕にはそれすら出来ない、考えるということは何?
みたいなことを考えるともなく考えていたんですね。

今考えれば、「お前は、哲学小学生か」と突っ込みを入れられそうですね。

そうして何日も考えた時、フッと閃いたんですね。
そうか、これが「考える」ということなのか。

そして、多くの学校で学ぶ教科というのは一つの「学」という道に繋がっていてそこから枝分かれした一部が「国語」であり「算数」「理科」「社会」なんだと気づくと今までの悩みがスーッと晴れていく気がしたんですね。

可笑しいでしょ。

本当に変な小学生でした。

あれから40年、今もすべての学びは一つに収縮されるという考え方は捨てていません。
数学を学ぶときに難しく感じたら、国語の漢字を覚える手法を使えばいいんです。

私は、漢字を覚えるときに偏と旁(へんとつくり)に分けて考えるようにしました。
そうすると、偏を変えるだけで違った漢字が生まれる。
そうしてこの考え方は、実は因数分解に通じるんですよね。同じ項に集める・・・みたいな。

漢字を覚えるときに、地名と一緒に覚えて、そこの特産品などを一緒に覚えて言ってついでに好きな列車が走っていればその列車名と一緒に覚えてしまえば、地理の勉強と、漢字の勉強と、趣味が3つ同時に楽しめるという・・・そんな馬鹿なこともしていました。笑

英語も途中から、偏と旁ではないですが、英語の綴りをパーツに分ければ簡単に覚えられると・・・・気づいたのですが、その時はすでに学校を卒業した後だったので凄く後悔したものです。
高校時代に自分で見つけたその方法に気づいていれば、学年でもトップクラス狙えたのに・・・_| ̄|○〈冗談ですよ)

でも、学校の成績もジェットコースターで、政治経済や倫理社会は殆ど勉強していなかったけれど、クラスで5位以内を争うかと思えば、英語は最下位が同居して、平均したら中から下の成績でした。笑

みなさんも、勉強は勉強、趣味は趣味と考えずに、実は今学ぶことはもう少し工夫したらもっと面白く学べるのではないでしょうか?

全ての学科は一つの道「学」につながると考えてみてはいかがでしょうか?

最後まで読んでくれてありがとうございます。



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