見出し画像

京都pt.1 『檸檬』 その果実は常識と憂鬱を破壊する爆弾

梶井基次郎の檸檬を読んだ。

多分中学校くらいの時。
内なる自己の形成にかなりインスパイアされた一冊だ。


内省的で憂鬱、また何者にもなれないかもしれない焦燥や嫌悪、常識やブルジョア(これは俺の解釈)を物理的でダートかつアートな手段で破壊する。
一行目から心を強くグリップされた。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

『檸檬』梶井基次郎

現代文の教科書にも採択されていたかな。
確か俺の高校では『山月記』を履修したと記憶しているけど、、



あの頃、いわゆる思春期の揺らぎの渦中にいた俺は、今よりずっとセンシティブで明日どうなるかもわからない、何者になれるのか、何ができるのか、つまらないニュースとかに逐一感情を揺さぶられ学校に、通学に、家に、内なる世界に苛立っていた。


森羅万象に対して焦燥しかない内向的で内省的でそして何より後ろ向きに暗い高校生の心を鷲掴みにして持っていってしまう。


この短編を高校の現代文の教科書にチョイスした大人は罪深いと思う。
大人と子どもの間、子ども時代の夕方には刺激が強い文章だなと、、

―それをそのままにしておいて私は、なにくわぬ顔をして外へ出る。-

私は変にくすぐったい気持ちがした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

変にくすぐったい気持ちが街の上の私をほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

私はこの想像を熱心に追及した。「そうしたらあの気詰まりな丸善もこっぱみじんだろう」

そして私は活動写真の看板が奇体な趣きで街を彩っている京極を下っていった。

『檸檬』梶井基次郎

この文章が好きな理由を掘り下げた。
知的というより、鋭い感受性を受けるからだ。


あのグラウンドゼロの丸善に行ってみたい京都に行こう。
全アルバイト先に欠勤連絡をして、ティーンエイジャーの俺は青春18きっぷで京都へ出かけた。
『飾り窓の光おびただしい』と書かれた寺町通を歩いてみたいと思った。


東海道線に乗って果てしなく長いとされる静岡県。

浜松を過ぎた頃、舞台になった麩屋町の丸善は2005年に移転したことを知った。
🍋


河原町三条に移転したとのことだった。

京都に着くと、地理で習ったように盆地で狂ったような暑さだった。



金がないので河原町まで歩く。滝の汗をタンクトップの腹で拭い、そこに現れたのは
心を鷲掴みにしたあの梶井基次郎の『檸檬』の丸善だ。


きっと初代の店舗とは多分だいぶ趣を異にした現代っぽい鉄筋のビルだったがそれでも『MARUZEN』の鈍い金色の店舗名を打出した1階の大きな自動扉を潜った時の私の胸中は深い感慨があふれたことを今でも覚えている。


そのほか京都に何があるのか、よく知らなかったので母が気に入っていたという「銀閣寺」まで行ってみることにした。出町柳まで歩いてみたが流石に暑さに耐えかねてバスに乗ってみる。


京都の深緑色に彩られたバスはどのタイミングで運賃を支払えばいいかわからない。
少ない砂利銭をこぼさぬよう、また早口で無愛想な関西弁の運転手さんの怪訝な視線が早く終わるよう努めた。



京都の東京の田舎者の俺には難易度が高い。
碁盤の目を綺麗に直角に曲がって進む鉄の塊。



バスの中には観光客と思しき外国人もたくさんいた、わざわざ丸善書店まで行くために東京から始発で来たやつは俺だけだろう。




なんとなくそう感じた。書店行くために京都行くイカれたリテラシーを持っている奴がいたらかなり仲良くなれる自信がある。



なんか会社と同期とも京都行ったなあ。。
原付でこうすけの家までいく途中、けいすけ、なみちゃんさら姉と河原町で飲んで平安神宮散歩したし、かずぼうともなんか寺いったね。

京都鉄道博物館
銀閣寺


銀閣寺

「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それはカタル神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化していた。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。


ふと、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で「私」は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく「私」の好きなレモンが並べてあった。「私」はレモンを一つ買った。始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、「私」は街の上で非常に幸福であった。

「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。

見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた。「私」はそれをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくアイデアを思いついた。レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て、木っ端微塵に大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極を下っていった。

『檸檬』あらすじ 出典wikipedia


俺の周りには2種類の人間がいる。
『檸檬』を仕掛ける人と『檸檬』で爆発する人だ。


梶井基次郎は31歳のとき肺病で急逝した。
ついこの間まで猛威を振るっていたあの肺病がトリガーになって、この本を思い出すことが多かった。

会社員時代、狂ったウイルスに乗じて仕事を得まくって俺は何がしたかったんだろう、誰に褒められたかったのだろうか。


最近はこの人生で何が残せるのか、その焦燥を肯定してくれている。
俺はどっちの種類の人間だろう。いい魔法を持ちたい。

ダートでアートを志していたい。


今日も一生懸命いきる君に優しくない、「酸いの世界"'からエスケイプするための装置


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?