【切札】芸術系AIについて思うことを少し話すだけ2

はじめに

https://note.com/blackberethouse/n/n26c5a4ebc1f5 
のつづき?
引き続きマジで戯言です。わかりにくい文章です。


僕の意見は「NOとする理由がない」

これが一番僕の考えを表していると思います。
「ちょっと立ち止まって考えてみるとYESなのだが、少しひっかかる気持ちはある。ただ、それでもやはり論理的に考えてNOと言うことはできない」
という。

引っかかる気持ち

いろいろな部分でこれを感じることがあります。その描画完成までのスピード、中でどのような処理が行われているかどうかわからないブラックボックス性(不透明性)、星の数ほどの学習元というものの存在……
どれもこれも人間離れしている。これが引っかかるのです。人力ではこんな速く描けないし、構図→線画→下地→本塗というプロセスも抜けてるし、人はこんなにも膨大な量の作品を参考にしていません。

それでもNOではない、と言う理由

AIくんと人間の違いって何でしょう……この二者の識別可能性、それをテスト的に示すのがアラン・チューリングのチューリングテストなわけです。
幾度か、AIくんは私が判定者になったチューリングテストを突破しています(1枚絵の一部分しか見ていないとはいえ、AIくんが描いたのだと分からなかった)。もはや、同質的になっていると言えるのかもしれません(同質的、と表現するのは些か不正解なので、ここに関しては後に再考します)。
表面的・結果主義的なチューリングテストを突破したとして、ではAIくんと人間の違いを見つめてみることにします……
そうなると、上で挙げた3つの違和感というのは、ある意味「不正確かつ僕の自分勝手な思い込みに過ぎない」ようにも思えてきました。
描く速さなんて、人それぞれであるのに、それだけで物事の結果の善し悪しが定まるものなのでしょうか。突き詰めることを繰り返せば結果は向上するでしょうが、無限の時間をかけられる訳もないですから、作品の完成までにかけられる時間が有限な以上は速さなんて関係ありません。
ブラックボックス性。人間の思考とAIのNN(にゅーらるねっとわーく)が本質的に異なるものであるとするならばこの両者は分断されていると言えますが、そもそもNNは人間の神経構造を真似たもののはずです。
また、人間の手順という論理と、AIくんのNNネットワークにおける値変換、ReLUゲートなどを通じた処理というのは、果たしてどちらが上である、とか下である、とか順位づけができるものなのでしょうか?むしろ人間の行う1+1=2という経験的処理と機械の 0x01 = 1; Store(0x00, add(0x01, 0x1)) ではむしろ後者のほうが理路整然とした絶対的な法則で動いている以上、より正しいということもできるように見えます。
果たしてプロセスの抜けがあってはいけないのでしょうか。研究などにおいては不正を行わないようにする目的で過程となるデータは緻密に記録する必要がありますが、これは何かの発見、科学的発展を真実だと担保するために行うものであると思われます。他方で、あくまでも芸術である絵画、文章に真実性を求める必要があるでしょうか。そんな芸術めちゃくちゃつまんねぇと思いませんか?(若干論理が破綻していますすんません)
学習した量。あなたは今までに目にしてきた情報を自分の内部に留めていない、と証明することはできますか?何かを表現するときに、この部分はどの人の意匠も全く入っていないな、これは今までのどの人も描いていないようなことをしたな、と証明することはできますか?っていうこと。

導出法の知識

なぜ皆こぞって知識を学ぶのか。その方が良いものが生まれる可能性が高くなるからです。
しかし、学び方、学ぶことが十人十色な以上、そんなの可能性に過ぎません。
何かをするには、絶対にこれを学ばなくてはいけない……って、AIくんのやっていることにちょっと似ている気がします。良い作品を出力させるためには良いものを学習しないといけないっていう。
そこから良いものが生まれる保証は100%じゃないし。
物事を作り上げる上で必要となる知識を、芸術に絶対必要なものとして求めた瞬間、それはもはや芸術とは言えないのかもしれません。

……ここの項は「何の知識もない奴が上手いものを作るなんてけしからん」という声に対しての反駁として書いたつもりなのですが……
……いや、けっこう反駁できているかも。
「センスという知識という次元を超えた才能だけで打ち負かされた記憶、ありませんか?」
って。
いくら学ぼうとしても到達できない領域だってあるのに、知識を持たない人が芸術には手を出してはいけないの?

まとめきれない綴集

過程に対して対価を求める性質

togetterかなんかのまとめで見たのですが、この人間の性質は厄介ですよね。結果がどうであれ、「自分はこんなにも頑張ったのだから」という。
僕はこの考えを「幼稚だ」で済ませたくはありません。ただし、それで傷つく人がいなければ。

人間だからこそdisadvantage

棘のある言葉にはなってしまいますが、AIくん自体は100%問題を起こしません。使う人間のやり口が悪いのです。
……それは当然「不祥事」というクライアントにとってのリスクを抱えるクリエイターにも適用されるわけですけれども。

性能としてはAIもクソ

なぜ幾何学的な模様が正確に描けないのだろうか?図形に特化したチューニングぐらいできやしないかね?えぇ?

やるべきことは揚げ足取りじゃない

相手サイドの一部の失態をピックアップして自分の持つ意見の肯定・補強をすることはできますが、それでは「特定の人がやらかしただけの特殊なケース。一般的ではない」として見られてしまうと思います(本当はそうでなくとも)。
それに、SNS上で意見のぶつけ合いをするのはどうも一個人の意見のまとまりが可視化されずらいと思います。
だからこそ、僕はこうやって自分の意見を長々とまとめているわけです。

本当に必要なことは、自分の意見から始めて、自分は姑息な手段を使わず、相手の姑息な手段を見抜いた上で、相手の意見と照合し論理的考察をして、全体の結論としてブラッシュアップしていくことです。
感情を排することができていないと一生できないことでもありますけどね。

さいごに、自分だったら?

文章生成AIに僕の文章を噛ませたら、僕の納得がいく作品になるでしょうか?そうなったら、僕はとても嬉しくなるんじゃないか、と思います。だって、自分の理想とする作品、自分を楽しませてくれる作品が無限に湧いてくるのですからね。でも、それは無理なんです。僕の頭の中の暗黙知が多すぎてAIくんに理解させられないから。
AIくんによって何もかもが高速化・自動化されていく中で必要なのは、センスとコミュニケーションだと思います。前者はAIくんが自動で生み出すことのできないまだ見ぬ爆弾が人間の想像力によって作られる可能性を秘め、後者は「何かが好きだ!」という気持ちの上で創作をしていることを伝える手段として重要です。

2045年になって、一体誰が真の創作に巡り会えているか。それは僕にもわかりませんが、最優先でやるべきことは、AIくんの是非を考えることではなく、自分のセンスと何かを好きになる気持ちを強くし続けることであると思います。

でもChatGPTに登場人物の特徴を入力して面白い物語作れ!って命令したら結構良さそうなのが生まれてきたので、もしかすると大事なのは作者の「文章の書き方、文のクセ、文体」になってくるのかも?それこそ文体って模倣するのあとてつもなく難しいですから。国分寺の某文豪の多くの作品をチューニングの材料にしてもあの体たらく(文体を全然真似できていない)ですからね