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【戯言】芸術系AIについて思うことを少し話すだけ

話題としては絵とか文章とかのAIについてです。ここで言ってる「文章」というワードは創作・物語系のを指します

はじめに

ここでは学習に使った絵画に対する創作倫理とかは話題にしません
あとマジで戯言です

絵描きAIの是非

一番考えたいのがこれ。

どうして槍玉に上がるか?

僕の思うところとしては「なんか描き方を知らん人がすっげぇ上手いのを出してももやもやするなー……」というのがあります。
一方でふと、「でもPCとか電卓とかってハードウェア内部の構造、仕組みなんか知らずに使ってるよな……」と思いました。「内部構造を知らないのに使うとはけしからん!」という思考が出てこないと矛盾しているように思えます。
一見「詳しい知識が必要なくとも使うことができる」という共通項があるように思えますが、この違いは何でしょうか。
過程を考えてみると、

  • 人力絵画の場合

    • 「なにを描きたいか考える」→「描き方のノウハウを知っている」→「作業」→「自分の作品として完成」

  • AI君の場合

    • 「なにを出力させたいか考える」→「呪文の入力」→「自分の作品として完成」

  • 電卓を使わない計算

    • 「解きたい問がある」→「計算の仕方を知っている」→「計算する」→「できた」

  • 電卓を使う計算

    • 「解きたい問がある」→「計算の仕方を知っている」→「入力する」→「できた」

……うーん微妙。
でも無理になにか特徴を挙げるとしたら、問題解決をする際に機械を使おうとしても、原問題の分析しなければならないのが後者……といえるでしょうか。電卓は、導出法の知識が欠けていて、それ(電卓)だけがあっても手元の問題を解決する術にはなりません。
結局、上の疑問は一種の詭弁だったわけです。使う道具の原理はあまり重要ではなくて、問題を解決する方法や過程を知っているかが重要視されてるということです。

知識の証明という手段と目的を描くセンス

この過程というのが曲者で、いわばその知識を駆使して解を導き出せるかということが非常に重要なわけです
……と言いたいところですが、僕は絵を書いていないので、絵を描く過程がどういう思考プロセスを必要とするのかがよくわからないのです。もちろん描き方の手順などはあるかと思いますが、その手順は果たしてどのように導き出されているのかがわからない。
ルーティン?経験?感覚?
僕は物語系の文章を書くとき、どのような表現にするかを考えているときなんかは確かにまどろっこしい論理的思考は踏んでいません。つまり、これは感覚・センスに基づくものといえるのですが……
いや、絵画というものは文章なんかとは比べ物にならないくらいの「導出法の知識」が必要なのでしょう。それを知るための鍛錬というのはもはや数理的な理論を学習することと何ら変わりはないのだろうと思います。

そうすると、感覚やセンスというのは導出法の知識とは全くもって別物と考えられます。

「数学 センス」で検索してこちらのサイトが出てきたのですが、「『目的』のイメージ」を1つのテーマに据えています。「目的」を見据えていれば、正しい導出法の知識をもって解を導き出せる……と。目的をイメージする力をセンスと定義するならば、AIによって目的のものを、その目的を言語化した呪文によって出力させることはまさしく「導出法の知識なし、センス全振り」ともいえるわけです。

本筋とややずれた話―文章と絵画

他方で、文章を書くことそのものっていうのは特別な導出法の知識が要りません。言葉を喋ることっていうのは、多くの人にとって人間の発達段階で自然と獲得できるものであって、特別なものだとは考えづらいです(まあ言葉に対する教育自体が特別とも言えますが、絵の描き方とは違って言葉は普段の生活や義務教育とかで教わるから特別感がないって表現にしました)。「話の流れ・つじつまの合わせ方」以前の「どういう表現にするか、どういう世界観にするか」っていうのはある意味センス全振りの世界ともいえるわけです。
だから、もし、AI君が「人間が精一杯の過程を踏んで作らないとできないような、アッと思わせるうまいストーリー」を秒ではじき出したりしたら文章AIも叩かれたりするのかな?……でも呪文なしでうまいストーリーを構成できるとは思えんのよね。あと導出法の知識を「知っていること」とうまい話の流れを組み立てるために「論理的思考をすること」の関係はどうなんでしょうね。これらが別物となると、「論理的思考で回している文章を書くこと」と「導出法の知識をルーティンで回す絵を書くこと」は本質的にやってることが違いすぎるのかも。
それと文章を書くときって僕は別に強い目的意識がないんよな。抽象的にこーんな話が書きたい!!!って思って……それが目的か。

この項のまとめ

  • 「呪文によって出力を得る」行為をどこか歯がゆく思うのは「導出法の知識なし」、つまり「どのような過程を踏めばできるか、そして実際どのような過程を踏んだか」の足跡がないから

自信の表明となぜ自信があるか?

上でちょっと書いた文章系のAIですが、これについては僕もちょっと気になるところがあります。ですが、「いやAIには負けてないな」という自信はなぜかあります。それは、「僕の作風をAIがコピるのはまずできないだろうな」という理由です。(作風というのは、文体や世界観と定義しておきます)そして、それ以上に、僕は僕自身の書く文章に陶酔している、つまりは自分の文章が好きだから、というのが大きな理由かもしれません。
ただ、ひとつ思うところとしては、僕の文章だけを飲ませた(学習させた)AIは、僕の文体や世界観を真似てきたらどう思うか?というのがあります。でも、もし僕の思う「僕らしく、僕が見ててオモロい、そして僕の思い通りの」文章が出力されたなら、もしかしたら僕は嬉しくなるんじゃないかな、って思います。だって、僕は自分の文章が好きで、しかもAIはその自分の思い描く理想の文章を見せてくれるんだから。
……でも、それはできるとは思えない。僕の文章は短すぎる。こんなちっぽけな量で僕の文体を学習できるとは思えない。ましてや、僕の思い描く、僕だけが納得できる世界観を、AIが作りだせるとは思えない。だって、僕が本当に好きなものを学習できているのは、僕だけなのだから。

おわりに

「センス」と言う言葉に対して、僕はなにか強い憧れ・崇拝をもっています。他人にはなくて自分にしかない、絶対的なもの……という文脈で、アイデンティティの確立をする上でも重要だと無意識的に感じているのかもしれません。あるいは習得には多くの時間を費すという大きな代償がつきものの導出法の知識とは比べ物にならないくらい楽にその能力を発揮できるから、かもしれません。
自分らしい「センス」を一心不乱に信じることができれば、せめて頭の中だけでは「自分だけがナンバーワン」というある種くだらない自己陶酔に浸れるのかもしれません。でも、それは自己完結、という意味合いでは間違ったものではないと僕は思います。
AIに打ち負かされないぐらいの、自分らしさを―――自分の「センス」を好きになれる強い心を―――持つことが今後必要になってくるんじゃないか……と思います。