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わたしによく似ていて似ていない名前の酒

 五人がまとめて入れる部屋はなかったよ残念だね、と誰かが言い、残念だね残念だねと誰かが言うので、わたしもまた残念だねと言った。百年間言い慣れてきたかのように上手に、残念だねといえた。わたしは友達と呼べる人間をおそらく誰も知らない。しかしその日わたしは友達といた。百年前から友達だったように、そこでわたしは笑っていた。

 メニュー表を指さして、わたしはえみる、という名前なんですよ、と言ったら、じゃあわたしそれを頼もう、と言って、わたしの名前によく似ていて全く違う名前のついた酒が選ばれた。わたしはふわふわとして嬉しくなり、でもこんなかわいい名前ではない、と言うと、うん稲垣足穂だよね、と、その人は言った。

「稲垣足穂」

「あれ違った? 稲垣足穂の弥勒の主人公が、江美留っていう」

「弥勒菩薩?」

 そう問い返すと、まわりの人はわたしを見て、誰からともなく、似てるねえ、と言い始めた。似てる。いや、似てるよ、実に似てる。そっくりだ。何に似ていると言わずにまじめな口調でささやきかわすのでわたしはすっかり面白くなり、似ているでしょう、と、口をそろえた。わたしたちはすっかり酩酊していた。運ばれてきた酒を飲んだ人は笑いだし、「これは、あれだ。エミちゃんの味がする」と言って、皆に回した。わたしも一口飲んだ。なるほど。

「エミちゃんだね」

「これはエミちゃんだ。朝起こしてくれる幼馴染だね」

「ちょっと太っているのを気にしているエミちゃんだね」

「えみるさんではない。えみるさんはえみるさんのような味のするものを頼みなさい。よく選んで頼みなさい」

 大事なことだからよく考えなさい、と誰かが言った。わたしはおとなたちに甘やかされている小学生のように、はあい、と答えた。


~これまでのあらすじ~

 わたしの名前はチュウレンジバチで、幼馴染のポアロ氏とともに逃避行のさなか、(要約)という経緯でなにもかもがクソみたいな気分になり、幼馴染を含むすべての連絡を絶って古都をだらだらとうろついていたところ、ビーズショップでビーズに激似の人物が当人に激似のビーズを手にしているところに出会い、「めっちゃ似てますね」と思わず口走るという怪行動を起こしてしまったところ、人物の連れを含めわたしと彼らにどのビーズが似ているかという話で超盛り上がってしまい、じゃあこの激似ビーズでアクセサリーを作りましょうなどと言われ、しかしわたしは住所不定無職なのだという話をすると唐突にアクセサリーの工具が出てきてわたしはアクセサリーを手に入れることとなり、わたしはむしゃくしゃしたついでに誰だか知らない名前のキャッシュカード(幼馴染所有)をパチっておいたことを神に感謝しながらコンビニで三万円下した。

「十五の夜」というやつである。


 わたしは自分の名前を、ずっと、おじいさまの名前(わたしはそのおじいさまなる人物に会ったことはない、どこに住んでいるかすら知らない、母は絶縁されている)ヘッセから取ったのだと言われて育ち、その名前のモデルとなった少年を、めちゃくちゃに嫌な奴だと思っていて、わたしはわたしの名前がめちゃくちゃに嫌いだった。なにが少年の日の思い出だ。そしてますますいまいましいのは、ヘッセの描くエーミール少年はどう考えてもわたしに似ているということだった。わたしは蝶をピン止めする代わりに薔薇をダメにした。

 わたしの名前が本当はエーミールで、いつも蝶を殺してピン止めしているということを、わたしは知られたくなかった。

 誰に?

 わたしはべろべろに酔っぱらっていて、そんなに酔っぱらったのはうまれてはじめてだった。そうしてみんなべろべろに酔っぱらっていたから、わたしたちが妖怪を見たとき、誰もそれを妖怪だと思わなかった。でもあれはどう考えても妖怪だったのだ。そこは古都だったし、妖怪の一匹もいてしかたがなかった。そうしてなかのひとりが笑いながらわたしたちを叱った。「妖怪に返事をするな! 引きずり込まれるぞ!」

 そのときわたしはわかった。

 唐突にわたしはわかった。

 ラブホテルにみんなで泊まろうよと誰かが言った。わたしはラブホテルに行ったことがなかった。入ったラブホテルには適切な部屋がなかった。じゃあどうしようかと言って、わたしたちは夜の道を歩いていた。妖怪を見た。ひとりが妖怪に返事をした。皆そろって返事をした。そうして妖怪に返事をするなとひとりが怒鳴ったとき、わたしは唐突に気がついて、走り出した。わたしの胸の上でわたしによく似たビーズがはねていた。

 わたしは妖怪の名前を呼んだ。

「タっちゃん!」

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