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銘菓

「そんなに好きでしたっけ」

「あのさああ、あれがしりたいこれがしりたい、幼児か」

「今からでも本店行きましょうよ」

「ここにあるから食いてーんだようるせーなーデートはしません」

 観光立県と呼ぶにはあまりにもハングリー精神の足りない当地において、ある程度のハングリー精神をそれでもぎりぎり担保している棒に刺さった揚げ物を食えるブースが、新しくなった駅にできていた。学生時代は毎日通っていた場所がすっかり様変わりしてしまうというのは、陳腐な言い方だけれど、青春が終わったようで寂しい。そう口に出すと、彼は心から呆れたと言うように「本当に陳腐だな」と言って、小さく笑う。たぶん呆れているんだろうと思えるその表情が、しかし俺は好きなのだった。救いようがない。

 本店は当地の観光資産である島のなかにある。

 島で食うとそれなりに情緒のある食べ物だが、ここで食べるとなにかカロリーの塊という概念を齧っているようだったし、さらに言うとほとんど無を齧っているようだった。上白糖とかサラダ油とかを単独で食べても食事にはならない、そういう感じだ。

 そんなわけで俺は情緒を求めて縋るように彼を見た。彼は鼻で笑った。

「デートしません」

「だってあんためちゃくちゃあそこ似合いそうだから」

「……ふうん」

「うまいですか」

「うまいよ。カロリーの味がする」

「女子か」

「おっさんだし体が資本だから」

「喧嘩売ってんですか」

「なあ十八歳」

 しみじみとした声で彼は言った。半分齧った揚げ菓子からどろりとクリームがあふれているのを俺は他人事のように見ていた。

「おれが何をしたらおれのこと忘れられる?」

 って、聞こうと思って、帰ってきたの、と、彼は、いっそ含羞すら載せた表情で、俺を見た。そのとき俺は気が付いて愕然とした。俺はなにを言いたかったのだろうと思った。俺が自宅のように思っている蕎麦屋をあんたが好きだということがどういう価値を持っているか、俺がパフェをふたりで食べることに何を見出しているか、俺がとても陳腐な人間なのだということ。俺は夢を捨てたのだということ。営業先の爺さんやばあさんのためにクーラーのフィルターを無償で変えてやる人生にはTOEIC800点は必要ないのだということ。東南アジアのこと。母のこと。母(概念)。

 母(帰属する場所)(概念)。

「……ここで泣くの!?」

 彼はひどくこどもじみた声で言い、それから笑った。俺は両手で顔を覆った。彼は、

 全く恐ろしい話だが、彼は、ポアロ氏は、俺の初恋の人は、俺の顔から俺の手をむしり取り、笑い声を漏らしながら、食べかけの銘菓(アレンジバージョン)を割りばしごと口のなかに突っ込んできた。もうぬるくなっているクリームがどろっとこぼれた。俺は泣きながら笑った。地獄だ。

 忘れますよ、と言わなくてはいけなかった。

 俺は子供の頃から優等生でなんでもできた。

 あんたガキなんだから頑張る必要ない、忘れるなんて簡単ですよと、俺が言わなくてはいけなかったのだ。TOEICだって800点なんだし。

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