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どこまで人と違えば個性になるのか?個性を殺さない処方箋

僕が住んでいた地方都市では、昭和の時代、中学生になると男子は全員丸刈りにしていた。髪を伸ばしていたのは、私立中学だけで、近隣の公立に通う生徒は、全員丸刈りにしていた。全国共通かと思ったら、どうやら違うようだけど、似たような都道府県が多かったはずだ。高校は野球部だったので、そのまま3年間、丸刈りのままだった。

髪型というのは、その人の個性において重要な部分だと思うのだけど、当時は男子生徒全員が丸刈りだから、髪型に個性はない(頭の形は個性的な奴が数人いた)。

仮に、現在52歳の僕が丸刈りにしたら(一応、髪はそこそこある)、そこそこ個性的に見えるかもしれない。実は、30代の後半に一度丸刈りにしたことがある。その時に言われたのが、「何か悪いことをしたのか?」ということだった。自分ではファッションのつもりだったのだけど、そうは受け取られなかった。

高校野球でも、髪型が自由になってすぐの頃は、「髪の毛伸ばして色気づくから、試合に負けるんだ」というヤジが飛んでいたと聞く。

何の話をしているのかと言うと、個性について考えているのである。

最近は、個性的であることが重要であるかのように言われるので、個性を出すということに苦労している人も多いのではないだろうか。

昭和の中学生だった僕が丸刈りにしても個性はないけど、52歳の僕が丸刈りにしたらそれなりに個性的であると思うのだけど、その個性には「謝罪」とか「反省」のイメージがつきまとう。仮に僕の丸刈りが定着をしてきても、清廉なイメージを持たれてしまうと、僕が期待している個性とは違った評価になってしまう。

さて、ほんとのところ、何を言っているのかというと、個性について考えているのである。

辞書的な意味だと個性とは、「他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性」となるのだから、やはり人と違っていないといけないようだ。

もちろん、違っていればいいというものでもない。スーツを着ている人が多い会社にジャージで出勤すれば個性的で目立つかもしれないけど、きっと注意される。注意をされたからと言って、「そんな決まりがあるんですか?法的に認められますか?」なんて言おうものなら、誰も近寄ってこなくなるだろう。こうした個性は人生をよい方向に導かないことが多い。

しかし、個性的でないことは、その他大勢の中に埋もれるということでもあるから、集団の中で目立つことができない。ちなみに、目立つ必要なんてあるのか?自分はその他大勢で十分だという人はこの辺りで読むのをやめてもらっても構わない。

さて、個性である。

人と違っていなければならないのだけど、違いすぎると敬遠される。では、どこまで人と違えば、好意的な個性になるのか?

おそらくではあるけど、人との違いを考えないことに個性を見つけるヒントがあるのではないかと思う。

自分に似合うなと思う髪型、ファッション、住みやすい家と家具、食べたいもの、見たい映画、読みたい本、付き合いたい人、やりたい仕事、過ごしたい時間。

個性というのは、自分の心地よさから生まれるのではないかと思う。

だから、やりたくないことをしているとしたら、人と違っているかもしれないけど、自分の個性を殺していることになる。

こうしたことを言うと、「何でもかんでも自由にできるのは限られた人だけだ。」と言われるかもしれない。その通りだ。すべてのことを心地よくすることはできないかもしれない。僕だって、やりたくないことをやっていることもある。

だからこそ、「これをやっていれば心地いい」「こんな時間は心地いい」「この空間は心地いい」というように自分の心地よさに気づき、そこに身を置いてみるといい。

「そうなんだ、自分はこれを心地いいと思うんだ」というのがわかれば、できるだけその時間や空間を感じようとするだろう。きっと、それが個性となっていく。

運よく、人から羨ましがられる個性があればいいのだけど、成功を先に考えれば、これまた自分の個性を殺してしまう。

個性とは心地よくて、熱中できるものに取り組んでいると、明確になってくるもののように思う、52歳になった昨今(笑)

これは、差別化とか成功とかを勉強しつつ、成功したいと思いながら、うだつが上がっていない中年男の一意見であるけどね。


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