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棚の本:人間の建設

文芸評論家小林秀雄と数学者岡潔の雑談です。

くまとら便り

2人の雑談は、昭和40年(1965年)10月の「新潮」に掲載されました(147頁)。
60年近く前ですね。

テーマは芸術、宗教、酒、数学、物理、幾何学、文学、哲学・・・と、極めて多岐にわたっています。

そういう意味で、確かに雑談なのですが、巻末には「注解」があります。
世の中には、脚注が必要な雑談があるんだな・・・と思いつつ、読書をスタート。

一番最初の脚注は「大文字」。 雑談当日は、京都の大文字焼きの日だったようです。 注によれば毎年8月16日。

 ああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。

『人間の建設』9頁

冒頭から、数学者岡の発言がジワジワきます。
たしかに、山を人為的に焼いている・・・何世紀も続く京の都の伝統行事について、その発想はなかったです。
伝統⇒人為的≠自然 と、心に刻みます。

印象に残ったのは、有名芸術家の人格・人生論。
ピカソは無明むみょうの達人。
ドストエフスキーも無明の達人で、悪漢。対して、トルストイは真正直で、最後は野垂れ死※※。ドストエフスキーは、トルストイをあまり好かなかった、など。
絵画や小説の源泉に、少し触れられたような気分になれます。

それから「一という観念」の話も、妙に趣深かったです。

 一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。

小林 つまり一の中に含まれているわけですな。そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。

 あるのかないのか、わからない。

『人間の建設』103頁

「あるのかないのか、わからない」という話の直後、子供が「自然数の一を知るのは大体生後十八か月と言ってよいと思います」と岡。

どうやって十八か月と確認したんだろう・・・と、要らぬことを考えてしまいますが、邪念は追い払いましょう。

ちょっとよく分からないけど、なんかそういうことねと、一を「体得」し、アハハと生きられるようになるのが、1歳半ということなのでしょうか。

私は生後十八か月の時点が、一番ものを分かっていた可能性が・・・あります。

2人の雑談は、脳の「構造」にも及んだりします※※※

『人間の建設』は、どこかで、興味・関心のある主題に行き当たり、ハッとすること請け合い。
そんな雑談本でした。

小林 「しかしピカソにも何の邪念のない絵もあります」

『人間の建設」98頁


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