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【連載小説】十三月の祈り ep.4

 十二年前の真夏。わたしは白いTシャツにデニム生地のハーフパンツを履いて、日傘も差さずにM駅の構内から出て、一度も見たことのないあなたの姿が来るのを待っていた。当時は日焼け止めをつけることもしなかったから、袖から出た腕はすでに赤くなっていて、真夏の太陽がじりじりと皮膚を焼いていくのを感じていた。ときおり携帯を出しては、あなたからメッセージが届いていないか、サイトを確認した。届いてないことがわかると、もしかしたら来ないんじゃないか、と疑った。でもたとえ、あなたがそのとき来なくとも、落胆や失望はしなかったと思う。裏切られることには、慣れていたから。――人が裏切られることに慣れるまで要する時間は、どれくらいだと思いますか? 心の中のあなたに問いかけたことがあった。君はどれくらいかかったの? 問いに答えず、あなたは尋ねた。わたしは、十六年かかりました、と答えた。あなたは――問題は物理的な時間じゃないよ。誰かを信じることが無意味だとわかるタイミングに出会うかどうかだ。あなたは、いつそのタイミングに出会ったのですか? ――僕はそれに出会う前から知っていたんだよ。十六年、上出来だ。君はまた人を信じることができる。十六年という歳月が、信じるのをやめるほど臆病ではないということを証明しているからね。
 
 携帯から顔を上げると、バスのロータリー近くから、自転車を押して歩く青いシャツの男の人が目に入った。そのときのあなたは、大学の四回生だった。病気を発症して、一年留年したんだ。事前に交わしたメッセージでは、詳細を省いてかつて入院していたことがあると書いていた。それは、青少年の心の問題や悩みを受け付けるボランティアとして働いていたあなたが、話してくれた唯一の個人的なことだった。
 声をかけられなくとも、わたしはとっさにその人がボランティアのお兄さんなのだと理解した。理知的な吊りがちの目元には、長い前髪のせいで影を落としていた。痩せている身体と同じく細く伸びた白い腕には、黒いデジタル時計が巻かれ、自転車を押しながら時刻に遅れていないか一度それに視線をやった。そして、一瞬わたしと目が合った。あなたはそのとき、わたしだとすぐ気づきましたか?――それから僕は、カーゴパンツから携帯を取り出して、君にメッセージを送った。今、到着したけど、もう着いている? それから、目の前の少女が携帯を取り出したとき、僕はようやく確信を持ったんだ。君が、黒いキティだとね。
「黒いキティ」とは、わたしのハンドルネームだった。サイトに相談事を書き込むとき、ハンドルネームが必要だった。それまでチャットを使うことのなかったわたしは名前に悩んだ挙げ句、そのとき自分が着ていたTシャツにプリントされてある黒い猫のキャラクターを、採用することにした。黒いキティ。あなたがわたしの相談事をキャッチして、返信を送るときに「黒いキティさん」と、わたしにわたしじゃない名で呼びかけると、変な気持ちになった。滑稽で、でも学校の自分じゃないもうひとりの特別な――そしてそれは本来の姿かもしれない――自分に向けられている気がした。あなたの名は、フルネームではないけど実名だった。吉原。都内の大学に通っている男子学生。心理学に興味があるけど、専攻は経営学。在学中に病気を発症して、一年留年したことがある。見せてくれたあなたのカードはそれだけ。わたしとのやりとりの間、あなたはずっとわたしの話を聞く役に徹していた。あなたは私情を挟むことはしなかった。わたしは、十六年生きてきて初めて、自分の話を聞いてくれる相手に出会った。――クラスに友だちがいません。寂しいです。でも、友だちをつくることが、どうしても自分の人生に必要なのかわかりません。わたしと友だちになったとしても、彼女たちはわたしの扱い方に困ると思うからです。相手に迷惑をかけながらも、友だち関係を続けることが、ほんとうに人生にとって重要なことなのでしょうか? 
 青少年の相談事は、必要に応じてサイトから非公開にできる。わたしは匿名を使い、非公開に設定し、誰に届くかわからずに、勢いで書いてメッセージを送信した。返信が来るまでずっと、ベッドに座ってウォークマンで音楽を聴き流し、西日があたりオレンジ色と窓枠の黒い影が揺れる部屋の壁に背をもたれかけていた。心臓の音が身体中に響き渡り、耳から入るありふれた愛の歌詞を遮るかのように、送られてくる返信の言葉を次々と頭が圧迫されるくらい想定した。――それで、一体君はどうしたいの? 友だちは素晴らしいものだよ。君も誰かに声をかける勇気を持とう。孤立すると、人間は偏った思想を持ってしまうから、ダメなんだよ。みんなの中に入るのが、怖いの? もっと自分に自信を持つ努力をしよう。――思い浮かぶそれらの言葉は、何ひとつわたしが望む答えではなかった。もし、善良さを装い、考えなしに彼らが鼓舞してきたら、励ましどころかわたしの悩みを一笑に伏すような言葉を投げてきたとしたら。そう思うと、送信してから遅れて羞恥のようなものが込みあげてきた。でも、後悔は感じなかった。
 わたしは幸運だった、とあなたに言うと、大げさだとあなたは笑った。
 何十通もの相談事のなかで、わたしの言葉はあなたに届き、あなたはそれを受け止めた。
 ――黒いキティさん、初めまして。ココアサイトの相談員、吉原です。友だちがいないなら、もし必要だと感じていないのだとするのなら、無理につくる必要はありませんよ。少なくとも、今の段階では黒いキティさんは誰かと一緒にいることに、負担を感じていますよね。
 少し気になるのですが、相手に迷惑をかけている、とどうして感じるのですか?
 わたしはあなたの率直な意見に、自分が想像している人たちと違うと思い、少しだけこのサイトに対する警戒を解いた。それでも、すべてを話すことに抵抗があったから、これまでの事実を並べることはしなかった。でも、せっかく差し伸べられた手にまったく期待しないこともなかった。それで、
 ――授業でしかたなく、グループになるときがあります。そのとき、ほかの子たちが視線を交わし合うんです。それを見れば、彼女たちが何を語りたいのかわかります。誰でも。わたしはうまく話せません。そういう病気だと診断されたことはありませんが、わたしが何かを発するとき、ふつうの子たちと違う言葉になるんです。うまく説明できないんですが、みんなみたいにフランクな会話をすることができないんです。空気感とか、みんながふつうに考えている当然のことが、わたしには理解できなくて。それで、彼女たちは、どこかのグループを犠牲にして、わたしという荷物を片づけなきゃと考えているんです。それが、苦痛なんです。
 相手がどう感じるかなど余計なことを考えずに、ひと思いに書ききった。送信してから、携帯のボタンを押す指がしびれていることに気づいた。それから、下の階で母が玄関の戸を開ける音がし、わたしは携帯をベッドの上に放置して机に向かった。成績だけは、良かった。教科書と参考書に向き合っていれば、真面目さが過ぎて、友だちを必要としていないことの理由になると、そのときなんとなく感じていたから。階段から上がってきて、母がわたしの部屋の扉を開けると、勉強している姿を見て、安心したようにわたしを褒めた。そのように、わたしは母を騙していた。
 あなたからの返信があったのは、その翌日。
 ――質問に答えてくれて、そして打ち明けてくれてありがとう。黒いキティさんの文章を読んでいて、不思議に思ったよ。こんなに、話がわかりやすく感じたのはこの仕事をしてきて初めてだ。僕も、同じことを考えて生きてきたからなのかもしれない。
 周りにいるふつうに見える子たちは、ただ環境に「適応」しているだけなんだ。善し悪しは置いといてね。黒いキティさんは、周りや世界や自分を正直に見つめている。正直に見つめているからこそ、みんなからはぐれてしまう。それに苦痛を感じるのは、僕も同じだよ。
 
 それから、あなたとのやりとりは続いた。あなたは、わたしの言葉を理解し、共感を示し、そして問いかけを続けた。愚かなわたしは、それが会社のマニュアルに書いてある通りなのだと気づかず、あなたの巧みさに騙され、そしてそれに助けられた。そして錯覚をした。あなたは、この世にたったひとりいる「友だち」なのではないかと。

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