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【連載小説】十三月の祈り 最終話

「わー、申し訳ありません。不注意でした」 
 店員が屈み込んで、ノートを拾い上げる。彼が指先で一生懸命、紙についた自分の靴痕を消そうとするので、「触らないでください」と反射的に強く言ってしまった。そうですよね、申し訳ありません。何度も頭を下げる店員が、わたしと最初に出会った頃のあなたと同じくらいの年齢に思えた。思えた瞬間、彼を謝らせていることに申し訳なく感じた。
 
 ――答え?
 ――ほんとうにそう思っているのなら、永遠に僕を救うことはできないよ。
 
 心のなかであなたの声が響く。そうだ、いつだってあなたはわたしの心のなかに存在していた。そしてそれは、ほんとうのあなたじゃない。わたしが創造した、フィクションだ。――でも。
 あっ、と誰かがふいに声を洩らして、顔を上げた。
 ガラス窓の向こうには、白い粉砂糖のような雪の粒子たちが、冷たい夜のなかを飛んでいた。 

 ***
  
 歩道は雪でまだらに白く塗られていて、ブーツの先で水が跳ねる音がした。折り畳み傘を差しながら、慎重に歩いた。滑らないように、ではなく、静かな雪の音を感じるために。
 傘を斜めに傾けると、雪を被っている時計台が見えた。その下で、若いカップルが白い息を吐きながら口論をしている。いつも考えが自分勝手だと、女の子のほうが訴え、男の子はその言葉を不快そうに聞き返したあと、これ以上言い争うことに疲れてか、顔を背けた。そのカップルの隣を、携帯を耳に当てながら歩く会社員が通り過ぎる。もう寒いからどこかに入ろうよ、と男の子は女の子の手を取ろうとする。が、女の子はその手を振り払い、嫌だ、と頑なに拒否をする。男の子は舌打ちをして苛立っている。だけど、そこを動こうとせず、途方もない顔で時計台の針を眺める。動かないでいて、そのまま彼女のそばにいてあげて――わたしは祈りながら、彼らの隣を通り過ぎる。目の前を過ぎる雪は、次第に形を変えていく。これ、積もるかな。女の子の不安そうな声が後ろで聞こえる。このままでいたら電車、止まるかもな。男の子の笑い声がする。ちゃぷ、と音がし、マンホールに溜まっている雪水を足先で飛ばした。
 ――雪、降ったね。今年も去年と同じだ。
 夜の街中であなたの声がする。わたしの身体から、ではなく、灯りのともったビルの窓のどれかから、ライトを絡めている街路樹の枝から、濡れた道を歩く人々の背中から、そしてほの明るい夜の空から。あなたの声が、わたしの皮膚の外側から、世界から響いてくるような気がした。
 あなたは今、どこにいるのだろう。どこにいて、この雪を見ているのだろう。
 ――僕はどこにもいないよ。この声は、僕の声じゃなくて、君自身の声なんだ。かつての僕がそうであったように、君の身体に棲んでいる他者。僕の形をした、もうひとりの君だ。
 とつぜん、目の前のビルの隙間から黒い人影が現れ、わたしに故意にぶつかった。その瞬間、お腹を触られ、こめかみから血の気が引いていくのと同時に、固く大きな石みたいな拳で腹部を突き上げられた。時間がゆっくり流れていくように、ぼやける視界に映る、街を歩く人々の影の動きが奇妙に遅く感じられた。唇から生温かい唾液が糸のように引き、冷たい道路に膝をつき、雪水に手を浸した。鞄がとられた、その事実を認識するのに時間がかかった。皮膚を切り裂くような冷たさを肌に感じ、それなのに腹部は痛みで熱く、唇からは唾液が、目からは涙が止まらなかった。
 この苦しみをやり過ごすために、あなたとの最後の夜のことを思った。
 最後の夜――でも目の前に描いたのは、あなたが帰った夜ではない。あなたがもし、あの夜わたしの部屋で過ごしたのなら。
 ――ただ、疲れたんだ。
 なぜ帰らないのか、という問いにあなたはきっとそう答えた。
 ――自分のやっていることが、すべて中身のない偽善なのではないかと思った。僕は偽善を嫌っていたはずなのに、自分自身が嘘の存在なんだ。だから、すべてのことに意味がない。僕の存在さえ、真実ではないから意味がないんだ。
 幼い子どもみたいに、枕を抱いて身体をくの字に曲げ、あなたは瞼を閉じる。その背中にわたしは手を置く。背骨からあなたの体温を感じ、それに頬を当てる。あなたは泣いている? すこやかな呼吸のなかに、鼻をすする声が聞こえる。わたしはあなたのセーターの裾を手のひらの中で丸める。
 
嘘、じゃないよ。嘘じゃなかった。あなたのしてくれたことは、嘘ではなかった。
 あなたがどんな人間だと自分で解釈したとしても、あなたのしてくれたことは、事実として残った。あなたがどんな理由であったとしても、あなたは転んだ人間に手を差し伸べることのできる人だった。その優しさが偽りか真実かどうか――少なくとも救い出されたわたしには関係のない問題だった。
あなたのしてくれたことすべてが、わたしの中で生き続けるのだから。
 
暗闇の中で、あなたの手のひらを探した。凍りつくほど冷たいアスファルトの上で、道の表面にある小さな窪みを弾くように指先を動かして。もしかしたら、あなたは最初から答えなどは求めていなかったのかもしれない。他者から逃れるための答えなど、自分の生を肯定する解釈など、誰にも教えてもらいたくなかったのかもしれない。あなたが「自己の克服」をするために選びとった、唯一の方法であなたは静かに戦いを終わりにしたかったのかもしれない。
 ただあなたは、眠りたかったのかもしれない。
 目の前に人が通りかかり、わたしに何かを訊ねた。どうしてこんな状態になったのか、どこが痛いのか、立てそうか――遠い場所で彼らはわたしに次々と聞いてきた。
 ただあなたは、誰の声も聞きたくなかったのかもしれない。
 誰もいない場所で、誰の声も届かない場所で、自分の心の声さえも聞かないですむように、眠りにつきたかったのかもしれない。
やがて手のひらに温かい感触を覚える。あなたの手、すごく冷たいよ。立てそう? ひどいわね、今の時代に窃盗だなんて。――差し伸べてくれた婦人の手の温かさで、わたしは現実に戻る。痛みを感じる。そこに人がいることの、奇妙な安心感を得る。
 もしあの日、あなたの手を握ることができたのなら。
 まだわたしのなかに残り続けるあなたを描き続ける。それが、あなたへの祈りとなり、わたしの生きている目的となる。

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