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いつか消滅するとしても EP.2

 ポストを開けると、中には何もなかった。もしかしたら、と思いながら階段を上ると、玄関ドアの隣に穿ってあるトイレ窓から、灯りが漏れているのが見えた。安堵か溜め息かわからない息をひとつ吐き、ドアノブを回して開く。朝、注意しておいたのにもかかわらず、優はチェーンどころか鍵すらかけていなかった。
「優……」
 中に入ると、台所の蛇口から、ぽた、ぽた、と水滴が落ちる音が聞こえた。トイレの電気はつけっぱなしなのに、部屋の照明は落としたままだった。台所から薄暗いリビングにあるソファの角が見え、そこから優の小さな裸足の足が伸びていた。
 優の不用心さを責める言葉を、いつもならしていただろう。でも、目の前にいる優は、僕が見慣れている優ではなかった。あのとき、夜を走るバスの中で手を握った優でもない。もっと、もっと前の、僕が優と出会う前の優の姿だった。
 そう、優は、子どもに戻ってしまったのだ。
 リビングの電気をつけ、優の身体を覆うタオルケットを剥いだ。優の眉間がわずかにけいれんし、瞼がゆっくりひらく。俺ひとりで使うから、と優が言い張って購入したひとり掛けのソファは、150センチに満たない優が横たわっていても、充分に支えてくれる。優は肘掛けに伸ばした脚を下ろして、正確な位置に座り直した。おかえり、と言ってくれる声はまだ高くて、それだけで僕の心が波だった。小さな、小さな、優の姿にまだ慣れない僕がいた。
「……せめて鍵くらいかけろよ。誰が入りこむかわからないんだからさ」
 ようやく憎まれ口みたいな言葉を叩けたけど、僕は優の瞳を見ていなかった。タオルケットを畳むふりして、優の真っ直ぐな子どもの瞳を避けていた。
「誰がって誰が入るんだよ。俺たち誰かに追われているの? 俊介は気にしいなんだよな」
 優は欠伸をして、テーブルの上のティッシュに手を伸ばし、鼻をかんだ。初夏だとはいえ、エアコンをつけたまま、Tシャツにハーフパンツ姿で寝ていたからさぞかし冷えたのだろう。優は自分の興味範囲に入るもの以外、頓着しない。
「で、今日研究室に行ったの?」
 優は肩をすくめて、「行ったけどさ」と煮え切らない口調でいた。
「ぜんぶ話した。俺が子どもに戻ってしまったこと。肉体は子どもだけど、知能は変わっていないこと。……説明したけど、帰らされた。君さ、僕たちは名探偵コナンごっこにつき合っていられないんだよね、ってね」
 僕は鼻で笑った。優は、「そこで笑うかな」と不服そうに、テーブルの上の煙草に手を出そうとした。僕はそれを制し、「身体のことを考えろよ」と煙草を奪い返して、自分が一本咥えた。優はむしゃくしゃして、後頭部を手で掻いた。
「あー、めんどくさいことになったなほんとに!」
 床に落ちていたクッションを抱き抱えて、優はラグの上に寝ころんだ。横になった優のうなじが白いのを見て、フラッシュバックのように裸の優の姿が蘇った。大人でいた頃の優と、子どもに戻ってしまった優の身体を。
 優が、子どもに返ってしまったトリガーがなんなのか、未だにわからない。わからないふりをして、ほんとうは「それ」を認めたくないのかもしれない。「それ」は、いつも通りのことだった。酒を絡めながら、優を愛した。優の滑らかに曲がった背中を眺めながら、優の腰にある大きな染みに手を這わせて、震える優を静かに抑えて、俺はゆっくり息を吐きだしながら、欲望を流した。
「それ」は、儀式のようなものだった。ふたりの魂が、つながっているということを確認する儀式。――でも結局「それ」は、優を子どもに戻らせてしまった。朝陽の光の束が、カーテンの隙間から帯のようにベッドに垂れ、優の右側の顔を照らした。最初に異変に気づいたのは、僕だった。酒の酔いがまだ残っているのかと思い、頭を振って瞬きをして目を凝らしたけど、そこにいるのは小さな子どもの優だった。
 ――俊介……、なんで悲しんでいるの?
 起きあがると優は、即座にいった。物事に頓着しないわりに、優は僕の顔つきのいちいちに、敏感だった。涙も流していないのに、目の力の弱さや、唇の噛みしめ具合で、察知されてしまう。僕はベッドから降りて、洗面所に駆け寄った。顔を洗って冷やしても、耳鳴りや鈍い頭痛がした。あとで優には「昨夜の酒のせい」と言ったけれど、それは酒のせいではなかった。胃から酸っぱいものがせり上がり、僕は耐えきれず、嘔吐した。優が、変わってしまったことに対し、僕は嘔吐した。
 子どもの優を、どうして今まで通り愛せないのだろう。
 その問いは、優が「変化」してからずっと僕に纏わりついている。優が弾んだ声で僕を呼びかけるとき、優がすこやかに寝つくとき、優が子ども特有の率直な瞳を僕に投げるとき……、優が直接「今の俺を愛せている?」と問いかけているわけでもないのに、僕は責められているような気がした。そうした後ろめたさは、僕自身の弱さから派生しているものだと気づいていた。気づきながらも、僕は弱さを克服できず、優を今まで通り愛せなかった。
「……この際、病院に行くしかないよな」
 台所に並べてある空き缶の口に、燃えた煙草の先端を押しつけながら僕は言った。言いながら、そこに行っても解決にはならないことはわかっていた。
「病院!? そんなおおごとにはしたくない。薬を処方されるどころか、精神病院に回されるのがオチだよ」
「だったら」
「俊介は考え過ぎるのに、まともなことを考えないよなー。たとえばフィクションだと、このあとどんな展開が待っていると思う?」
「特効薬が開発されて、ハッピーエンド」
 そう僕が思いつきのままいったら、優は右手を銃の形にし、僕の頭を撃つ真似をした。
「ばーか。そんな安い結末、いまどきドラマでもないぜ。たぶんね、子どもになったきっかけを登場人物たちが分析して、過去のトラウマに辿りつくんだよ。そして、そのトラウマを克服したところで元に戻る。それで、ハッピーエンド」
「それもありそうな結末だね。それで優にはトラウマがあるの?」
「あるわけないじゃん」
 僕と優の会話は、これで終わった。ジ・エンド。

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