見出し画像

【掌編小説】遅れて咲く花

 また今年も、桜の存在に気づかなかった。職員室の窓の外に映るのは、若い緑の葉を揺らした桜の樹。いつからだろう。わたしが季節に無頓着になったのは。
「――うちの子ども、戸棚に隠しているカップ麺を勝手に取って食べたんですよ? ほんと信じられない。親の気持ちも知らないで」
 桜の樹に気を取られて、隣に座っている木下先生の言葉を聞き洩らしそうになる。へぇ、と薄い返事しか言えなかった。子ども。その言葉で、圧迫するような痛みを腹部に感じる。
「あー、もう。こっちは栄養に気を遣ってご飯作ってあげているのに」
 親の気持ちなんて子どもは知らないからね。わたしは笑ってから、笑えているだろうか、と不安がよぎる。子どもを考えることをやめようとしても、やめられなかった。仁志さんには、理解のあるふりをして、本当はその場で皿を割りたかった。
 
もうよそうよ、なんだか虚しいだけだ。ふたりして努力して――わかるだろ? 努力しても報われないことがある。変えられない運命に、惨めになるだけだ。

実際には皿を割らなかった。仁志さんの前で口角を上げられた自分に、心や感情はなかった。自分の意思が外側から、わたしたちを見ていた。なんてふたりは老いてしまったのだろう、と。
俺がやると仁志さんはその日言ったけど、わたしは「大丈夫」と言って、ひとりで汚れた食器を洗った。お湯も出さずに、冷たい水を手に浸した。どうして冬じゃないのだろう、と思った。夏の水では、手の感覚を失うくらい冷たい水は出ない。

そして、どうして泣けないのだろう、と思った。

またわたしは窓の外に目を向ける。風の声が高く鳴り、桜の枝を揺らす。花のひとひらさえ、身にまとっていない枝を。
子どもが欲しいわけではかった。なのに、どうしてだろう。わたしの時間が止まってしまったのは。心が動かなくなってしまったのは。泣けなくなってしまったのは。

 〇

「今度からスマホはマナーモードにして、机のなかにしまってね」
 とくに不良でもないのにな、と目の前の立花くんを見て思う。立花くんはわたしからスマホを受け取り、その場で電源を入れた。中は覗いていない、とわたしが言おうとしたら、立花くんと目が合う。大きな光りが宿っている瞳に見つめられ、息を止める。
「……先生、僕のしたこと怒っていますか?」
 ふいに言われ、「怒っているよ」と即答する。ひとの顔を隠れて撮るなんて、質が悪い。あとでネットに流すつもりだったんでしょ――そう言いながら心では立花くんは、そのようなことをしない子だとわかっていた。スマホをわたしのほうに向けたときの表情は、からかいとは違っていた。まるで、桜の花を写真に収めているかのような、風景の一部を保存したがっているような、そんな感じで。
「ごめんなさい。僕は単純に……、先生をかわいいと思って」
 わたしは口が開く。身体中に羞恥の熱が駆け巡り、「からかいとは違う」と思い込んでいた自分がばかだと気づいた。
「かわいいなんて先生に言うものじゃ……」でも、立花くんの表情は揺らがなかった。恥ずかしい真実を言うように、頬だけ染めていた。
 わたしが黙っていると、ようやく「かわいいですよ」と彼は笑った。
 子どもなのに、惑わされている自分を恥じる。同時に、先ほど痛みを感じていた腹部に柔らかな熱が生み出されていく。わたしは「先生をからかうなんて!」と、立花くんの顔から目を逸らし、窓の外にそれを向けた。春が終わった桜の樹が、わたしたちを見ていた。
「……なにを見ているんですか?」立花くんが遅れて、わたしの視線の先を見る。あぁ、桜終わりましたね。立花くんが淡々と事実を述べるように言うので、本当に桜が終わったことを認識する。季節がまた、わたしを追い越して流れてしまった、と。
「そういえば、ここ数年間桜を味わって眺めたことなかったな……」
 独り言のように呟く。立花くんは聞こえなかったのか、「え?」と前のめりになって聞き返す。わたしは立花くんのスマホを指さし、「おばさんの顔なんか映さずに、きれいな風景でも撮りなさいね。大人になるにつれ、どんどん季節は短くなっていくのだから」と忠告した。
 立花くんは俯き、はい、と言ってから「……おばさんの顔を撮りたかったわけじゃないんですけど……」と呟いた。その伏せた顔が赤みを帯びていて、心に浮かびそうになる甘いものを必死に打ち消した。立花くんが職員室を出てからも、その甘いものはわたしにまとわりついた。仁志さんと初めて誘われて行った、辺り一面チューリップが咲き誇る公園で感じたような、涼やかで甘いもの。でもその甘さは、すぐに溶けて失ってしまうだろう、と思った。事実そのとおり、仁志さんとの関係はやがて現実的なものとなり、そうすればふたりを結びつけるのは、友情、あるいは尊敬みたいなものに置き変わった。
 生徒たちの課題を添削していると、立花くんの名前を見つける。KAORIと空欄に名前が小さく書きつけられ、一瞬それが自分の名前だとは気づかなかった。そういえば、この間の授業でよく茶化してくる女子に名前を聞かれたのだ。香織、と口にしたとき、女子から「かおりん」とあだ名をつけられたことを思い出す。
 いや、まさか――手で口を塞ぎ、またしても心がかき乱されそうになる。胸の裏側でちりちりと焼かれていく何か。それは、教師や妻や、仁志さん以外誰も愛さないと交わしたもろい誓いを書いた紙だ。
 東先生、と声をかけられ、我に返る。週末の食事会、どうします? 後輩の中野先生が、煙たそうな顔で訊ねる。教師という仕事に誇りを感じていた時期はもう終えて、中野先生もわたしも毎日の業務に集中することで、怠惰な気持ちを紛らわしていた。
 ――食事会かあ、わたしは行けないかも。旦那と約束しているんだよね。
 何も約束事などなかった。言葉は事実を隠してくれる。中野先生も「わたしも行けないんですよねー、うちの子どもが……」と子どもの話をし始めて、わたしはそれを微笑みながら受け止める。中野先生の話を聞きながら、自分たちの空白の寝室が目の裏側に映される。一緒に寝るのをやめよう、と言ったのはわたしのほうだ。耐えられなかった。いっそのこと、仁志さんが、誰かと浮気してくれたほうがいい、と思ったこともあった。わたしを愛しているなんて、隣でひと言も言ってほしくなかった。

 〇

 授業を終えて、渡り廊下をひとりで歩いていた。広く枠を取った、渡り廊下の窓から見える景色はわたしを慰めてくれる。眩しい新緑をまとった枝に、雀が飛びついて枝を震わす。廊下に響き渡るものは、わたしのかかとの低い靴の音のみ――、と思っていたら、後ろからリノリウムの床を滑る上履きの音がしてきた。
 振り向くと、立花くんがいた。
「せんせい」息を少し切らした立花くんは、片手にスマホを持っている。
「走ってきたの? 廊下はゆっくり歩いて……」
「この間、桜が……、桜がまだ咲いていて……」
 そう言って、わたしのほうにスマホの画面を見せた。ほとんど緑に変わってしまったなかで、ひとつの小枝が遅れて花を咲かせていた。周囲の緑との差で、その花の色はきわめて儚く見えた。
「まだ、見れると思います。……一緒に見にいきません?」
 何かをこらえるように、立花くんの瞳は強くわたしに届く。すぐ近くなんで。近くに河原あるじゃないですか、あそこに植わってある大きな桜の樹にあったんです。
「見つけたら、先生に報告しようと思って。見せようと思って」
 どうしてだろう。微笑むより先に、喜ぶよりも先に、胸が苦しくなるなんて。わたしにはもうひとつの世界がある、と期待するなんて――なんて自分は愚かなのだろう。
 今まで蓋をしていたものが、ずっと熱を与えていたものが、とつぜん湧き出すように、目から涙が溢れてきた。泣いてはいけない、とどこかで思っていた。弱い姿を見せたくないのではなく、自分が悲しく思っていることを自覚するのが怖かった。傷ついている、という事実に目を向けたくなかった。
「……先生?」
 わたしは廊下にしゃがみこみ、立花くんの前で幼い子どものように泣いていた。泣きながら、行こう、見に行こう、と何度も繰り返した。そして差し伸べられた立花くんの手を、自らの力でとった。

***

(あとがき)
数年前に書いた短編小説「彼の身の上話」のスピンオフみたいなものです。簡単にプロットを決めてから、書いたら意外と早く仕上がりました。プロット、大切ですね……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?