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「楽しい」がわからないこと。

3月末(?)から自粛モードが本格的に始まって、思えばその時点から対面でまともに話す人が母、父、姉、主治医の先生しかいなかったことに気づいた。もともと、わたしは友だちがいないので(6月の時点で本格的にゼロになった)、自粛モードが解けても、対面でまともに話す人はせいぜいお世話になっている福祉施設の事業所の支援者さんか、その利用者さんだけとなる。これでいいのか? と問われれば、「ぜんぜん平気~!」なんてわけはないのだろうけど、でも話す人がいないのだし、無理に友だちを作るのも自分には合わないような気がして、よろしくはないけど今のところ現状維持を続けていくつもり。

かつて友だちがいた頃は、都心の若者の街(と書いている時点で若くはないのだが……苦笑)に出歩いたりした。なんとかロードを練り歩いて、コスメショップや、古着屋や、雑貨屋、靴屋などを見ていた。見て「いた」。「見て楽しんでいた」ではなく。友だちと一緒に遊ぶうちに、ひとつ気づいたことは、わたしには「楽しい」という感情が欠落しているということだった。友だちは比較的「楽しい!」という感情を大切にして、人生の苦を乗り越えているようなそんな感じなのだけど、わたしの人生には「楽しい」という感情、(あるいは概念さえも?)が、決定的に欠けていた。

子どもの頃はどうだったのかわからないけど、遊園地の類が苦手で、むろん、夢の国には関心がなく(キャラクターはかわいいと思うけど)、きゃぴきゃぴと騒いで遊ぶ……ということがわたしにとってとても困難だったりする。カラオケも若者の街(笑)も、「友だち歌うまいな」「すごいビルだな」と薄く感心することはあれど、他の子たちみたいに「楽しむ」ことがよくわからず過ごしてしまう。

でも、相手に失礼だと思うから遊びの誘いが来たとき、「うわ~楽しみ~!!(絵文字)」と気持ちリアクション多めに、無表情でLINEを打ったりした。本心で「や、そういうのあんまり興味ない」と打ってしまったら、相手に失礼だし、数少ない友だちを失いたくないために断ることもできなかった。

それはわたしなりの誠意だったのかもしれない。けど、そんな偽りで「うわ~楽しみ~!!(絵文字)」と相手に送るのも、それはそれで失礼かなと今では思ったりする。「楽しみにしているんだ」と相手を期待させたとしても、実際に遊ぶときは、ぼんやり薄い反応しか見せることができない。そう、実際に会うときに言葉で表すように完全に演技することなんて、できないのだ。

と、「楽しい」という感情が欠落、あるいは薄いことについて、ふと考えてしまったのだけど、では自分にとって「楽しい」に代わる良い感情とはなんだろう、と思い巡らせた。そしたら、「心地良い」とか「安らぐ」というものがそれにあたるだろうなと思った。

だから、自粛モードからやり始めているヨガや瞑想は、わたしに合っているストレス解消法なのかもしれない。刺激よりもリラックス。そして何より、ひとりでできるということ。夜な夜な怪しげに「幸せ」を煽るタイトルの動画を再生し、ひとり実家で脚を組んで瞑想にいそしむ姿は、見るからにスピリチュアルな雰囲気が漂うけども、わたしの至福の時間でもあったりする。




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