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「孤独」について

この頃、イーユン・リーの小説を立て続けに読んでいる。イーユン・リーの低い温度の語り口も好きなのだが、それ以上に彼女の人間に対する洞察が優れていて、いつも言葉たちが心の深いところに落ちてくる。そんな物語を与えてくれる作家に出会えたことに感謝しつつ、彼女の作品で一貫して描かれる「人間の孤独」について、ふと考えたりした。

数日前、「黄金の少年、エメラルドの少女」という短編集を読み終えてから、思ったのは「誰にも言えない物語を抱えることから、人間の孤独は始まる」のではないか、ということだった。

「孤独」というと、”ひとりぼっち”でいることと、それまでは漠然と意味を理解していた。社会との関係が絶たれること、友人や恋人と縁を断つこと。それらももちろん、「孤独」ではあるけれども、もっと耐えがたい孤独というものがある。少なくとも、イーユン・リーが描く孤独は、物理的に”ひとりぼっちでいる”状態だけを書いているわけではない。

もっと真に迫ると、孤独には「誰にも言えない物語を抱える」というものがある。たとえ、友人がいても恋人がいても、一緒に笑いあっても、そこでは永遠に明かせることのできない、秘密。それがあるから、誰かと一緒にいても笑ったとしても、その人の中には消せない痛みが残る。

「独りでいるより優しくて」というイーユン・リーの小説がある。この作品は、高校時代にある年上のお姉さんに毒薬が盛られた事件とその後を描く。そして主要な人物にそれの真相を知っている少女たちが出てくるのだが、ひとりの少女はその事件を知ってしまったことで、性格が変わったかのように大人になって「孤独」な生き方を選ぶことになる。これも、彼女が「知らなかった」のなら、秘密を持たなかったのなら、選ぶことはなかった生き方なのかもしれない。

そんなことを「真理を得た!」みたいについ最近、わかったのだけど、だいたいの人は見当がついているのかもしれない。真実の孤独とは何か、という問題を。わたしはちょっとだけ遠回りをして「そっか!」とひらめき、こうして記事に考えをまとめている。物理的に「ひとりでいる」状態なら、わたしはいつだってそうだし、でもそれで痛みを覚えることはそんなにない。もっと耐えがたいのは、誰にも言えない過去が疼きだしたとき、一人でその過去を抱えて毎日を乗り越えていた日々だった。それが、ほんとうの「孤独」だったのだと過去の痛みから逃れられつつある現在に、ようやく気がついたのだ。

韓国の歌に「臆病だったから 笑うことを覚えた 親しい友だちにも言えない話があった」という歌詞があって、それを何度も聴いていた当時はそれだけのフレーズに泣いてしまうことがあった。「孤独」の意味を深く理解していなくとも、心の奥では孤独とそれに伴う痛みを感じていたのだなと思う。そして、もしかしたら今でも「人間の孤独」を描くイーユン・リーの小説を開きたくなるわたしは、自覚できない孤独を持ち続けているのかもしれない。


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