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【連載小説】十三月の祈り ep.6

 目覚めた先から忘れてしまう悪夢を見て、アラームではなく息苦しさで起きた日。身体を覆う布団がやけに重く感じられた。軽く目眩のする頭でベランダ窓を開け、新鮮な空気を肺に取り入れようとした。季節は冬から春に移り変わるとき。ひとり暮らしをして二度目の梅の花が、隣の一軒家の庭を彩っていた。
 悪夢にうなされたのは、きっと昨日の件のせい。ベランダの床に並べた多肉植物に、霧吹きで水を吹きかけながら、わたしは前日の休憩時間の出来事を思い返した。いつものようにひとりデスクに座りお弁当を開けていると、通りがかった女性社員の谷村さんが「たまには、一緒に食べません?」と誘ってくれた。――でも、わたしは瞬時に会話に詰まることを想像し、無理に笑顔を作りながら丁寧に断った。けれど谷村さんは、わたしのその表情を見透かして「大丈夫ですよ。別にわたし、断られても傷つかないので。そんなふうにあまり気を遣い過ぎると疲れません?」と、率直に言った。谷村さんに本心を見られていたことに遅れて気づき、ここでうまく演じられている、と錯覚していた自分を恥じた。仕事が終わったあとの帰り、電車の窓に映る自分の表情を見ないように必死に避けた。アパートに戻って、手を洗うとき油断して自分の顔を見てしまった。不愉快そうに歪む唇。精一杯、口角を上げようとしても、それは笑顔とは言えなかった。
 気分を切り替えようと、母の知人から譲り受けたエスプレッソマシンを動かして、コーヒーを淹れた。マグの縁ぎりぎりまで注ぎ、ベッドに向かって歩きながら口に含んだ。不注意のせいで足に電気ケトルのコードが当たり、体勢が崩れた。転倒はしなかったし、マグから手を離さなかったけども、布団の上にかけた毛布が犠牲となった。慌ててコーヒーの染みをウェットティッシュで拭い、拭いながら視界の片隅に着なくなったニットコートが入ってきた。近所のコインランドリーには、それ以前に一度だけ行ったことがある。誰も入ってこない、洗濯機の音しか響かない、静かな白い空間を思い出した。
 毛布とニットコートを携えて、コインランドリーの扉を開けると、やっぱり誰もいなかった。ドラム式の洗濯機に毛布とコートを入れ、自宅から持ってきた柔軟剤を流し入れて、回した。周りを見渡すと、稼働している洗濯機が幾つかあった。中央に設置された、木製のテーブルには漫画本が伏せられてある。長く滞在するには、退屈な場所。わたしは椅子を引き、衣類を入れていた大きな紙袋の底から、一冊の文庫本を拾い出した。――「若きウェルテルの悩み」。それがあなたから、最初に勧められた本。その当時は、この本からあなたが何かの示唆を得たのだと思い、それを探すつもりで何度も読み返していた。今では、愚かにも主人公にあなたを重ねてしまう。
――人間の本性には限界というものがある。喜びにしろ、悲しみにしろ、苦しみにしろ、ある限度までは我慢がなるが、そいつを越えると人間はたちまち破滅してしまう。だからこの場合は強いか弱いかが問題じゃなくて、自分の苦しみの限度を持ちこたえることができるかどうかが問題なのだ。――
あなたがいなくなったあと、ウェルテルの言葉をあなたの声に置き換えて、何度も繰り返し読んだ。でもあなたがこの本を開いたのは、自分自身を弁護するためではなかったことを承知している。あなたは去っていくひとたちの声を、ここから聞き出そうとしたのだ。

 コインランドリーの向かいに車が留まる気配がし、わたしは息を潜めて本から視線を上げた。窓ガラス越しに、黒いセダンからひとりの男性が出てくるのを見た。そしてわたしは戸惑うよりも先に、うれしさで頬が動いた。華奢な身体に羽織った薄手の黒いピーコート。前回見たときより伸びている髪に緩くパーマがかかってあり、学生の頃の生真面目な印象とは違っていた。運転のため眼鏡をかけていても、それはあなただと確信できた。やがて、あなたは車から紙袋を引っ張り出し、ドアを閉めた。ひとりでいるときの癖で神経質そうになる眼差しは、窓ガラス越しのわたしを認めると、横から突然ライトをあてられたみたいに、眩しそうに片方の目を細めた。それから口を開き、声を出さずに唇の動きだけでわたしの名前をかたどった。明日香さん。そのときにはもう、あなたにとってわたしは「黒いキティ」じゃない。やがてあなたは一瞬だけ、何かを諦めたように力なく眉を下げて寂しそうな顔つきを見せた。それが何を意味しているのかわからずに、わたしはあなたがコインランドリーの扉を開くのを心待ちにしていた。そしてその浮き立つ気持ちを読まれないように、笑みを隠そうとした。
 入ってくるなり、あなたは「驚いた。明日香さんがここにいるなんて」と言い、紙袋の中に入っているコンバースのシューズをわたしに見せた。靴を洗おうと思って、と言った口調が、何かを言い訳しているみたいに、どこか後ろめたさを感じさせた。わたしは、毛布を――、と稼働しているドラム式の洗濯機を指差そうとしたとき、あなたの紙袋を持つ指が、光っているのに気づいた。それは左手の薬指だった。そのとき何の痛みも感じなかったはずなのに、しばらくそこから視線を離すことができなかった。それにあなたは気づき、紙袋の持ち手を変えて、左手をスウェットパンツのポケットに入れた。その仕草に、遅れてわたしは傷ついた。
「そういえば、M市に引っ越したって言っていたね」
 ひとり暮らしを始めたことは覚えていたけど、住んでいた街のことについては忘れていたな。もう二年くらい経つ? 早いものだな。明日香さんと出会ったときは、高校生だったもんな。事務の仕事も、続いているそうだね。学校より楽だとメールに書いていたけど、今も変わりない? ――あなたは当たり障りのないことを言いながら、靴を洗濯機に入れて回した。わたしに背を向けて話しているからなおいっそう、あなたがどんな顔をして、どんな気持ちで話しているのか想像つかなかった。
 あなたが誰かと婚姻を結んだ、ということにわたしが傷ついた。そう思われていることが、恥ずかしくてならなく、でもそれは事実と違う、そう感じたのではない、と否定することもできなかった。訂正すればするほど、あのとき視線を逸らせなかったことが、わたしの痛みと繋がっているように思えるからだ。
「――吉原さんは、ここに住んでいるんですか?」
 何か言葉を発しないと、とせわしなく思い、そのことが口をついた。その瞬間、あなたの動きが止まった。それから、あなたは振り向いてごまかすような笑みを浮かべながら、「そうだよ。去年、ここに越してきた。――じつは、」と言い、数秒のためらいのあと、ポケットに入れていた左手を取り出した。
「報告するのを忘れていたけど、結婚したんだ。ここは、奥さんの実家が近いんだ。というのも、彼女は少し病気がちで……」
 それから先をあなたは言わなかった。瞼が重くなるのを感じ、ゆっくりと視界が狭まっていった。視線を床に下ろし、あの夏の日にしたように自分のつま先あたりをずっと見つめていた。そうだったんですね。静かに相づちを打つ自分の声が、どこか遠くのほうで聞こえるようだった。目の前にいるあなたも。現実が、わたしから遠ざかる感覚がした。

 

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