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【連載小説】十三月の祈り ep.10

 バス停に辿り着くと、ベンチにはひとりも姿がなかった。時刻表を確認すると、やはりバスが発着したばかりで、次のバスまで二十分もの間隔があった。わたしは、青い塗装が剥げたコンクリートのベンチに座り、コートのポケットに手を入れて、手を入れながらポケットを腹部に寄せるようにして前を閉じた。バス停の前の道は、車の通りも少なかった。道路の向こう、私立大学の敷地沿いに植わっている裸の木々のうえが明るくて、そこからゆっくり視線を上げていくと、空の青さが徐々に濃度を増す。冬の空だ、と思った。
 傍らに気配を感じた。振り返ると、そこには小学校の制服に身を包んだ、まだあどけない顔のあなたがいた。あなたは、わたしの瞳を見据えてから、わたしの傍の空いている空間に目をやった。短パンから出る素足の膝が赤く、震えていた。わたしは、あなたのほうへ手を差しだし、こっちにおいで、隣に座りなよ、と微笑んで言った。でもあなたは微動だにせず、ただコンクリートの剥げた跡を注視するだけだった。まるで、それを呪っているように。
 ユウキ、来なさい。
 名前を呼んであなたの冷たく小さな手を無理に引っ張り、自分のほうに引き寄せたのはあなたのお母さんだった。あなたのお母さんは、わたしのほうに軽く一瞥して、すぐに背けた。わたしに向けたその瞳には蔑みと怖れが混じっているのが見てとれた。
 ――僕の中の他者の姿を母は知っているだろうか? ただ、病気の症状、と片づけられたらいい。Kを――僕の身体に棲む他者を――僕だと信じなければそれでいい。すべては脳の異常によるものだと、そう説明づければ平和に終わる。Kの存在に耐えられないのは僕だけではない。母もだ。母を守るために、僕はKを隠し通し、そしてKに打ち克たなければならない。

 すでに亡くなった作家が、「人間は自分のためだけに生きるほど、強くはない」と言ったのを思い出す。誰かを守るために、あるいは誰かを支えるために――そんな生き方を選んだのは、あなた自身の弱さから逃れるためだというのだろうか。少なくとも、「誰かのため」という名目ができたとき、あなたは生きる意味を見いだせたのだと思う。あなたはあなた自身のためだけに生きられるほど、身勝手に自由を選べない人間だった。
 
 制服に身を包んだ幼いあなたは、不機嫌そうにしかめたままの母の顔を覗き込み、頬の内側を噛んで唇の端をきつく結んだ。あなたのお母さんはバスの停留所の時刻表を見て、大きな息を吐いた。遅れてあなたは母の顔をもう一度見上げる。あなたのお母さんは、あなたの手を乱暴に振りほどき、あなたの存在が邪魔だとでも言わんかのように、あなたの肩を手で押した。一瞬であなたの表情は曇り、不安そうな顔をした。わたしが見たことのない、子どもの脆い感情を持ったあなただった。反射的にベンチから立ち上がって、あなたをあなたのお母さんから守ろうとした。あなたの手を取って、背を支えるように撫でて、あなたは何も悪くはない、とどういうやり方でも、あなたに伝えたかった。
 でも、わたしはあなたの母親ではない。
 幼いあなたは、おそるおそる自分の母に近寄り、手を握ろうとした。でも、それはできないから、もう一度母親の邪魔になるのは嫌だから、彼女のモスグリーン色のコートの端を掴み、子どもらしく笑おうとした。まだきれいに歯列矯正されていない、あなたの小さな貝みたいな歯が、赤く濡れた唇の下に並ぶ。あなたのお母さんは、それを見てもあなたの手を取ろうとはしない。やがて、あなたはお母さんの気を引くことをやめて、そしてそんな自分を恥じて俯く。でも、コートの端は掴んだままだ。あなたは、お母さんを手放すことなどできない。
 やがて、停留所に向かってくる母親集団が来る。あなたのお母さんの顔がこわばり緊張が走るのがわかる。それは、わたしだけでなく、あなた自身も感じ取る。質のいいコートを羽織った、若い母親たちはあなたのお母さんを見つけると、わざとらしそうな笑みを浮かべながら挨拶をする。お母さんは素っ気なく、口元だけで微笑んでみせ、軽く頭を下げた。あなたは、お母さんに恥をかかせないよう、丁寧に彼女たちに挨拶をした。
 ――ユウキくんって本当に礼儀正しくていい子ね。
 ――吉原さん、塾には通わせているの? まあ、ユウキくんには必要ないかもね。
 ――この間、うちの麻由がユウキくんのことを話してね。ユウキくんだけ、五年生の難しい分数の問題がわかるなんてこと、言っていたの。吉原さんの旦那さん、私立高校の教師でしょう? やっぱり、教育者の家は教え方が違うのよ、なんて話をしたわ。
 
 彼女たちの話の間中、お母さんは無理に笑顔をつくって「教員と言っても有名高ではないので……大したことありませんよ、うちは平凡な家庭です」と謙遜した態度を見せた。でも、それは本心だったと思う。彼女たちの間で、高校の教員がそれほどの地位ではない、ということをお母さんは理解していた。彼女たちの関心事は、自分たちより平凡な家庭に生まれた子どもが、自分たちの子どもより好成績を出していること。それが疎ましく、でも表面に出すとはしたないという自覚はあるから、反動であなたのお母さんを褒めることに徹しただけだ。ほんの少しでも嫉妬心を見せることは、彼女たちの品位を落とすことに繋がるから。
 やがてお母さんを救うように、バスが来る。先に母親たちがバスに乗るようあなたのお母さんは促した。促したのは自分があなたたちよりも低い身分であるということ、そしてあなたたちとは決して近くの席には座りたくない、という固い意志の表れだった。母親たちの多くは、一瞬申し訳ない素振りを見せ、でも先に乗っていった。彼女たちが後部座席に陣取ったのを見て、あなたとあなたのお母さんは車掌近くの席に立った。
 カーブを走り車体が揺れるたびに、あなたはよろけ、隣に立っている中年男性の足を踏んだりした。あなたは彼から怒鳴られ、一緒に叱られたあなたの母親は謝りながら、あなたの手をきつく掴んで引き寄せた。あなたの頬に、涙の筋が伝う。それは、お母さんに恥をかかせたことへの自責によるものかもしれないし、あるいは――お母さんがもう一度あなたの手を取ってくれたことの、うれしさだったのかもしれない。あなたは、お母さんに何も話さない。乗り物のなかでは静かにしていること。両親から言われた教えを、忠実に守っているからだ。
 
 いつでもわたしは、あなたのお母さんじゃない。
 
 両親の帰りが遅くて、あなたが寂しさで泣いていたことがあった。玄関ドアの外で聞き慣れたヒールの音がし、あなたは涙を拭かずに、お母さんに抱きしめられたくて、そのまま駆けだして行った。ドアを開けたお母さんは、あなたの姿を見てどんな表情をつくったのだろう? あなたは、そのときお母さんから言われたことを、日記に書き記していた。
――いつでもわたしは、あなたのお母さんじゃない。
そう言われ、あなたはそれからお母さんの前では涙を拭いて、会いに行くようになった。たとえ、どんなつらいことが起きたとしても、お母さんのためにお母さんを求めないことに決めた。
 幼い子どもにそんなことができるのですか?
 わたしは、あなたに問う。小学校の制服に身を包んでいたはずのあなたはもうそこにはいなく、目の前に描けるあなたは、グレーのチェスターコートを羽織り、そこから黒のタートルネックが見える大人の姿だ。もうあなたは車体の揺れに動じることはなく、磨かれた革靴でしっかり床を踏みしめている。期待をすることが無意味だ、ということを最初から知っていたと話したよね。あなたは指先で眼鏡の位置を正しながら言った。あのとき、母から言われた言葉で、もう一度はっきり認識できたよ。期待することは、誰のためにもならないってね。
 
 

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