見出し画像

【短編小説】彼の身の上話【後編】

「ある日、僕が彼女の家に……、勝手に押しかけたときがあったんです。とくに豪華なところでもなく、彼女の家は普通の4階建てマンションの2階でした。何度か彼女のあとをつけたことがあって……、まあこれは置いときましょう。彼女がドアを開けて、僕の顔を認めたとき、一瞬で彼女の顔が凍ったのを覚えています。あのとき、僕はすごく傷つきました。あんなに冗談を言い合って、お互いさらけだしあって、愛し合っていたのに。どうしてここがわかったの? と訊く口調にも棘がありました。まるで隣の部屋の生ゴミが目の前に置かれているかのような、そんなぞんざいな感じで。僕は本能に任せて、彼女を抱きしめました。でも――そのとき初めて彼女は僕を拒んだ。やめて、って、本当に迷惑そうに眉をひそめて僕を押し返した。こんなに強い力を彼女は持っていたんだ、って驚いたくらいです」
 そのとき、彼の顔が黒ずんでいるのに気がついた。もともと、肌は白いはずだったが、過去を思い出しているうちに、顔の血液の流れが滞ったようだった。不快な感情が巡っていくと、人の顔色って本当に変わるんだな、と今度はそのことに気をとられた。
「――あのとき、あの行動を取ったとき、僕は何を感じていたのか、何を考えていたのか、覚えていません。いや、確かに「何か」は感じていた。興奮していた。でも、それに悲しみや怒りなど、感情のラベルを貼ることなんてできません。まるで身体という器から、自分の意識が抜けたようでした。遠くでもうひとりの僕を本当の僕が見ているかのように。視界に入ってきたのは、玄関の脇にあるシューズボックスの上に置かれたライター。それが目に入ったと同時に、僕はライターを手に取りました。とても軽かった。覚えているのはそれくらい。何をするつもり? という彼女の声も聞こえました。でも、その声が聞こえたとき、僕はすでに火をつけていた。彼女の目の前にそれをちらつかせると、彼女の表情が、母親に叱られている子どものように見えた。そして、僕に哀願しているように。そのとき、僕は笑った。そう、笑ったんです。なんで笑っているの? と怯えた表情で彼女が言ったとき、自分が笑っているのに気づいた。でも抑えることはできませんでした」
 気がつけば、彼の顎がカクカク震えている。まるでジブリ映画に出てくる、あの不可思議な妖精みたいなもののように、彼の顎は左右に小刻みに揺れていた。表情はうっすら笑みを浮かべてるのに、彼は何かに耐えているようだった。
「――そして、偶然にも彼女の結婚相手が帰ってきたんです。そのタイミングで。彼を見たとき、僕は初め彼女の年の離れたお兄さんかと思いました。頭は薄くなり、目尻は垂れ、唇は不平が詰まっているようにへの字に歪んでいました。彼は僕を見て、それから彼女を見て、誰だ? と彼女に訊きました。彼女は言いよどみ、学校の――と最後まで言い終えないままで彼は理解した。ああ、と気の抜けた返事をして、そして僕の手元にあるライターに、つけた火に目を向けました。彼はゆっくりと僕を睨んだ。僕はライターを軽く振りながら、彼女を押しのけ、リビングへと向かった」
 顎をカクカク言わせながら語り出す彼の顔に、ひかるものがあった。まるで両頬にテープを貼ったように、ひかるふたつの筋は、彼の涙だった。この場の妙な空気に、わたしは耐えられず視線を逸らし、先ほどの老人客たちに目をやった。彼らは結局、一番安いコーヒーを買って、わたしたちの斜め後ろのテーブルに座った。
「それから、どうしたと思います?」
 急に話題を振られたので、わたしはとりあえず、バカみたいな笑いを浮かべた。それでも彼は怖いほど、顔色に釣り合わないうすら笑いを顔に貼り付けていた。
「さあ」
「燃やしたんです」
「えっ」
「燃やしたんですよ、カーテンを」
 彼の言うことが本当なら、今わたしが目にしているこの男は、犯罪者、ということなのだろうか。もうとっくに、わたしのなかでは彼を、現代風の洗練した男子、と思わなくなった。ただ、わたしは早く帰って韓国ドラマを観たかった。
「リビングへ行き、何を考えたのか――覚えていませんが、カーテンに火をつけたんです。でも……、不幸中の幸いか、カーテンは思うように燃えなかった。残念だった、と思っているわけではありません。そこまで僕は悪人にはなれない。カーテンに火が移ると、彼が、彼女の相手が、すぐさま水をかけて消化活動にあたりました。驚くほど迅速な対応で、僕はそれに呆気にとられていた。そして、火を消し終えると、彼は僕を殴りました。拳で。彼女は彼を止めて、でも彼は止まらなくて……、このバカ者! と怒鳴りつけながら、殴りました。僕は初めて人から殴られる経験をしました。腹が立ちましたね。でも、原因は僕にあるから仕方ない」
 はあ、よかったね。と、わたしは相づちを打った。でもそれは、少し間の抜けた相づちだったのかもしれない。彼の表情がぱっと止まり、「よかったね」なんて言ったわたしのことをじっと見ていた。
「それから、警察も呼ばれましたが――僕は彼女との関係を言いませんでした。受験のストレスで、担任の教師でもないのに彼女に腹いせをした。このような理屈になってないことを言い、さらにはわざと机を叩いたり、笑い声を挙げたり……、とにかく、僕が正気ではないことを彼らに示した。どうしてか? それは彼女を愛していたからです。本当のことを言えば、少し僕の状況も変わっていたでしょう。でも、それをしなかった。彼女を守りたかった。そしてそうすることで、彼女に伝えたかった。僕の愛が、いっときの燃え上がった恋愛感情ではないことを」
 そして彼は口角を上げて、口元だけで笑った。それをわたしは冷静に眺め、カフェで終わらす口実を考え、そして帰ってから観る韓国ドラマを恋愛ものか、サスペンスものか、考えていた。でも、彼の身の上話を聞いたあとでは、どちらも観たくなかった。
「……本当に好きだったんだね」
「はい。できれば彼女と一緒に死にたかった。そうすれば、僕たちは永遠になれる。――でもそれは僕のエゴです。彼女のいる場所は僕じゃない。それは今になってわかる。ただ、」
 そして、彼はスマホを取り出して、テーブルの上に置いた。指でホーム画面を表示すると、センター分けにした細面の上品そうな婦人の横顔が映っていた。
「想い続けることは、僕の自由だと思うんです。想像のなかだけは、誰にも検閲されない。干渉されない」
 そう話すと、彼はわたしの顔にゆっくり目を向け、「じつは、彼女の写真を見せたの、Yさんが初めてです」とまた奇妙な笑みを浮かべた。ありがとう、と遅れて返事をしたが、わたしはどんなことでも彼の一番にはなりたくなかった。

 その日、わたしはひと芝居を打った。鞄からスマホの通知音が鳴り拾うと、「ちょっと、今療養中の友だちからメッセージが来たみたい」と、困惑した表情を作ってみせた。療養中の友だちなんて存在しておらず、そのときスマホに届いたのは、今一番読まれている下火になった男性アイドルが起業に失敗したニュースだった。それなのにもかかわらず、わたしは「彼女は電車に乗れなくて」と言い、「今度は病院の帰りに具合悪くなったみたい」と嘘百八をでっちあげた。彼は同情を寄せ、眉を悲しげに下げて、「――大丈夫ですか? 今どこに……」とできることはないが、何か手助けをしたい、という様子だった。
 わたしは優しい微笑みを浮かべるようつとめ、心配しないで、わたしが「すぐ」行ってあげれば大丈夫だから、とさりげなくここでお開きだということを告げた。彼はスマホの画面を表示させ、時間を確認して「もうそろそろ、カフェを出ましょうか。駅まで送ります」と席を立った。

 電車のホームに彼と並んで立つと、先ほどの込み入った身の上話が想像できないほど、落ち着いている雰囲気を感じた。話を聞いていなければ、わたしは彼と酒を飲んで寝たかった。そうすればすべて解決する。何が? 二股かけられた男に捨てられたときの、むしゃくしゃした気持ち――でも今では、彼の話で打ち消されてしまった。もうどうでもいいのだ。
 わたしが電車に乗ると、ホームに立っている彼が微笑みながら肩のあたりで小さく手を振っていた。彼の後ろを通りすぎる女の子が――20代前半の、真っ赤なリップを塗った現代風の女の子が――彼を見て、わたしを見て、彼を見た。きっと、釣り合わないカップルだとでも思ったのだろう。
 電車のドアが閉じて、ドアの窓から彼の姿を見た。電車が動き出しても、彼はわたしを見ていた、手を振っていた、そこから動かなかった。そのことに、彼の持つ寂しさを感じ取った。
 吊革に手をかけながら、スマホで今日観る韓国ドラマを探していたら、彼からメッセージが届いた。
 ――今日はありがとうございました。また、会えたら話がしたいです。
 その通知を消し、わたしはふたたび韓国ドラマを探そうとした。話すことなどなかった。彼が愛する彼女に旦那がいるように、彼には愛する彼女が残っている。もう余計なことで心を煩わせたくなかった。愛されない人間になるのは、楽ではない。
 その日、わたしは結局お笑い番組を観て、パックして、泥のように眠りについた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?