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いつか消滅するとしても 最終話

 自分のアパートの前に来て、部屋の窓に灯りがついているのを眺めていた。優に説明したら、なぜそうなるかという理由はわからなくとも、理解してくれる。むろん、僕を拒んだりなどはしない。そう、わかってはいるのに、優に自分の右手を見せるのが怖くてしかたなかった。自分の手を見せることで、またひとつ「何か」が変わってしまう気がした。優が子どもに返って、変わってしまった僕の心のように。
 玄関ドアノブに鍵を差し入れ、カチャと中が回った手応えを感じて、ドアを開く。「おかえり」という優の声はなく、その代わりにバッハのG線上のアリアが流れてきた。ダイニングから優のソファから伸びた、すね毛もろくに生えていない白い足が見える。どうやら、優は音楽をかけながら、ソファで眠っているようだった。
 ただいま、とリビングに入り、ソファで寝ている優に聞こえるか聞こえないかの音量で声をかける。僕の声に反応して、でも目覚めることのない優は、眉根を不快そうに寄せて、唇を少し開き寝息ともつかない小さな呻き声をあげている。僕は鞄をラグの上に音を立てないよう、注意して置いた。そしてチェストの中に入れてあるはずの、テーピングを探した。
 それで老化した右手をぐるぐると巻き、留めたあと、ほどけないか手を軽く動かした。そんなことをしているうちに、曲は止まり、優の寝息のリズムが変わった。顔を左に傾けようとして、ソファの背もたれからずるっと肩が沈み落ちた優は、驚いた声とともに起き上がり、僕の姿に気づいて「びっくりした……」と、顎の先に唾の滴を垂らしながら言った。
「びっくりしたのは、こっちのほう」
 いつも通り平然とした口調を意識しながら答え、ラグの上に散らかったテーピングを入れるビニル袋やらを片そうとした。そしたら、優がそれに気づき、「え? なんか怪我でもした?」と僕のほうに近寄った。
「転んだはずみに、手をやってしまった」
「マジか。老いには逆らえないな」
 と軽口を叩きながら、優が僕のテーピングした手に触れようとする。瞬時に引っ込めて、「触られるとまだ痛い」と言ったが、でもそれは優への嫌悪も混じっていた。そんな自分に気づき、また僕はそんな自分自身を諫める声を聞いた。
「今日は、風呂入れる?」
 伺うように聞く優の言葉に、甘えが入っている。学生の頃から、優は傷ついたものに惹かれていた。片目が潰れた目を持つ野良猫、吃音の学生、膝から下がないブロンズ像、物乞いをしている外国の子どもたち――その中にきっと弘子も入っていた。そして、その弘子を離すこともできないでいる、弱い僕さえも。
「シャワーでいいや」
 優の視線から逸らし、立ち上がって着替えをとりにいく。優はベッドに座って、横になって僕を見ていた。親からの愛を求めるような子どもの眼差しで。
 僕はそれが嫌だった。

 シャワーから戻ると、優はベッドで寝て瞼を閉じていた。寝息が聞こえないから、まだ眠ってないのだろうとわかったけど、今日の優は僕を求めている気がした。
 ベッドに座り、ハンドタオルで髪の水気をとりながら優の寝顔を見つめた。瞼から生え揃った睫は、大人のときの優よりも、長く濃いように思えた。
 身体を支えるために置いた左手に、優の指が絡まる。なんだ、やっぱり起きてたんだな、と思いながら、絡まった状態で放置しておく。僕の指を絡める優の指の強さは、どんどん増し、それが優の気持ちのような気がして、心に残酷な感情が滲みでていく。優が瞼を閉じながら唇を開き、「どうして?」と言った。
「どうして俊介は、今の俺が好きになれないの?」
 言葉にせずとも伝わっていたことを、そうだろうとわかっていながらも、優から言葉にされると心が痛んだ。優が哀れだというよりも、愛せない自分を責められていることに。そしてそんな自分が自分本位な考えしか持たない人間だと、再認識することに。
 返事をしない僕に、優はゆっくり瞼を持ち上げる。眉根を寄せ、濡れた瞳で僕を見つめ、唇は今にも何か次の質問をするかのように、薄く開いている。僕は、優から顔を背けた。それが、優の疑問を肯定することとなった。
「――何が変わったっていうんだよ」
 ハッと、鼻先で笑いながらも優のその声には、悲しみが混じっていた。
「……優は、何も変わってないよ」
 変わったのは、俺のほう。本心は心にしまい込み、自分の情けなさで顔を両手で覆った。テーピングしたほうの手が、ずきん、と疼いた。
「じゃあ、どうして――」
 その次の言葉を言う前に、僕の背中に優の額が当てられたのを感じた。少し湿った温かい手のひらも。優は、僕のTシャツにしがみつき、声を抑えながら、泣いていた。
「――どうしてだよ」
 声を落として訴える優に、僕の心がかき乱されていく。ふたりとも、共倒れか。これが、ほんとうの終わりなのか。目の縁に涙が溜まって、でもそれは落ちてこなかった。嘘でも、泣いてみせたかった。そうすれば、互いの孤独感が薄まると思った。でも、僕は――涙を落とすことさえ、できなかった。

 その夜は、僕と優は背中を向けて一緒に眠った。最初に寝ついたのは、優のほう。僕はどうしても寝つけず、外が少し明るみだした頃に起きて、冷蔵庫から昨夜買ったビールを取り出し一缶開けた。そして缶ビールと煙草を持って、ベランダに出た。
 手すりに肘をつき、火をつけた煙草を咥えて、2階から見渡せる街と空を、目を細めて眺めた。朝が近づく夜中の街は、いつもより透き通って見えた。建ち並ぶマンションも、雲が見えない空も、みんなブルーの硝子でできているような、そんな感じに。
 ――どうしてだよ。
 煙草を口から離すと、先端から灰がほろほろと崩れて、ゆっくりと塵が落下していく。背中には、まだ優の手の温度が残っている。どうして? 自分でも問いかけ続けた。でもそれに対する理由など、見当たらない。単純な話、僕は子どもが嫌いなだけだ。優くらいの年頃に、僕はいじめられた。そんなことで? ――でも、優を愛せない理由をあげるなら、「そんなこと」でしかない。
 名前ももう思い出せない子どもたちが、笑いながら僕を羽交いじめにしてズボンを脱がす。僕を見る女子たちの怯えた目、そしてそこにわずかに滲ませた侮蔑の笑み。――その場面だけが、幾度も繰り返された。彼らがいる中学を卒業するまでは、僕はその中に閉じこめられた。高校時代に自由になれた気がして、意識的に性格を変えて友だちを作った。彼女さえも。それでも、「どことなく、壁がある」と言われて、僕は「あの時代」に、まだとらわれているのだと気づかされた。 
 そして今もそうじゃないか?
 陽が上り、街がどんどん白く塗られていく。僕の瞳の奥が、鈍く痛みだし暗くなっていくのに反して、世界は光に満ちていた。

 ●

 塾からの帰り、アパートの階段前で、弘子が座って僕のことを待っていた。あれからずっと、弘子からのLINEをまともに返してなかった。僕の気配に気づいた弘子は、スマホを操作していた手を止め、ゆっくりと顔を上げ、「おかえりなさい」と小さく笑った。弘子から逃げられないのかもしれない、と直感的に思うと、弘子という存在が重たいというよりも、怖く感じられた。
「……なんでここにいんの?」
 弘子は小さく笑って、「会いたかったから」と呟いた。僕が思わずため息を洩らすと、それに、と弘子は立ち上がった。
「……今日、わたしの誕生日なの。覚えている?」
 だから? と僕は言いたかった。弘子の誕生日を、今まで通り祝う気にはなれない。いつまでも、俺はお前のお守りをしなきゃいけないのか? ――でもそれらの言葉は、もっと前に言うはずだった。
 僕は首を振って。
「――ごめん。今日は帰ってくんないか? 俺も優も疲れているんだ」
 迷惑そうな口調で言った。弘子の額や目の辺りが、一瞬で曇り、でも唇の口角は上げたままで。
「だったら、わたしが何かしてあげられない? 疲れている俊介と……優のために」
「悪いけど、優とふたりでいたいんだ」
 弘子を振り切って、階段を上ろうとしたが、弘子に腕を掴まれる。
「でも、優のことはもう愛してないんでしょう?」
 ゆっくりと弘子の顔に向き、目を見据えた。光がなく、底のない穴のような黒い瞳が、僕のことを挑戦的に見ていた。
 腕を掴む弘子の手の力が、除々に弱くなっていく。僕は思いっきり、振り切った。お前が、何を知っているんだよ。圧をかけるように、弘子に強く怒鳴った。それでも、弘子の口角は下がらなかった。自分の言ったことが真実だと、確信しているような余裕の笑みを見せていた。
 わかるよ。だって、わたしずっと俊介のことを見ていたんだもの。優を愛しているときと、そうじゃないときの俊介の違いくらい、わかるよ。――それに、俊介がずっとわたしに「思いやり」で接してくれていたことも、わかっていた。
 弘子が抑揚のない口調で淡々と述べたあと、黒い瞳が僕の斜め上に向かれた。僕もそれに従って、背後を振り向くと、そこには――玄関ドアを開いて立っている優がいた。
「俊介――どうした?」
 僕の声で驚いて出たのだろう。優は、クロックスをつっかけ、階段を降りてこようとした。やめろ、と僕は叫んだ。弘子は「まさか……優?」と驚いているふりをして、この状況を笑った。
「こんなに小さくなったの? 何か悪いものでも食べた?」
 クスクスと笑いながら弘子から言われた優は、階段手前で後ずさりして、救いを求めるように僕のことを見つめた。目眩がした僕は、額に手を当て空を仰ぐ。
「……帰れよ、お前」
 怒気を孕んだ僕の声に、弘子は笑う口を手で止めた。そして、「これが、優を愛せなくなった理由?」と僕の顔を見据えて、言った。次の瞬間、僕は弘子の肩を押していた。
 道に倒れた弘子は、泣いていた。笑いながら、泣いていた。
「……『ふたりだけ』で、どこまで行けるんだろうね。そんな状態で」
 すべてを見通しているかのように、弘子は言った。僕はもう一度、弘子の肩を押し、顔を殴りたくなる衝動に駆られたが、拳を握ってその感情をどうにか抑えた。クロックスが擦れる音がし、振り向くと、優が階段を降りて、僕のほうまで近寄ってきた。
 優、と呼ぶと、優の手がすっと僕の肩に降りてきて、背後から急に抱きしめられた。僕の胸元に回された優の腕を、僕がそっと触ると、「今まで通りじゃなくていいから」と優が耳元で呟いた。今まで通り、愛せなくてもいいから。もう少しだけ、傍にいてくれないか? 今まで通りの、俊介じゃなくてもいいから。もう少しだけ――それでいいじゃないか。
「そんなふうにしても、いつかきっと壊れてしまうよ」
 立ち上がって僕らに、罵倒しようとしている弘子の声が、どこか痛々しく感じる。――いつかこの関係が壊れる。そんなこと、初めから承知だった。
 あの夜。バスの中で最初に手を触れたのは、僕だ。それから握り返してくれたのは、優。でも、あのときから、あの湧いた感情が、永遠に続くなんて考えていなかったじゃないか。
 
 俊介たちの関係は、いつか消滅するんだよ。
 
 僕の世界から弘子の声が遠のくのは、僕にとって今、必要なものはそれじゃないからだ。僕の首の近くや背中で伝わる、優の温かな呼吸。いつか終わるものだとしても、今、少しだけ優に触れられているだけでいい。たとえ、そこに情熱が欠けていても、ときおり嫌悪が遮っても――あのとき、手のひらで交わした約束を、消したくないという思いがあるのなら。
 
そのとき、僕の右手が、ずきん、とまたうずきだした。僕は、優の腕に絡まれたままで、テーピングをゆっくりほどいてみせた。

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