【連載小説】十三月の祈り ep.7

 間もなく、わたしの洗濯物が終わって、軽く挨拶をして逃げるようにその場から立ち去った。コインランドリーを出ると、さっき聞いたことが嘘のように感じた。いや、嘘、だと思いたかっただけだった。桜並木の続く大通りを渡ると、濁った水が含む風の匂いをかすかに感じた。わたしは歩みを緩め、両隣を通り過ぎる人々の影を見送った。そのなかに、ベビーカーを押す夫婦連れを見つけ、わたしはどうしようもなく駆けめぐってくる想像に、どうにか耐えていた。そして、もっとうまく振る舞えれば良かった、とあとから思った。素直そうに笑って、おめでとうございます、と祝福して、なんでもないかのように奥さんのことに触れて、そんなふうに振る舞えば、逃げることもなかった。わたしは大丈夫だ、とあなたに示すことができたのに。
 途方に暮れながら歩いていると、羽織ったカーディガンのポケットに入れたiPhoneが振動する。拾い上げるとあなたからのメールで、胸の奥が痺れる感覚を抱いた。
 ――申し訳なかった。報告すると、君が傷つくかもしれないと思ったんだ。でも、それは間違いだったのかもしれない。ごめん。
 そのとき初めてわたしは、あなたに怒りを覚えた。iPhoneを震える指で持っていたら、前髪に冷たい桜の花びらが落ちた。落ちた、と思ったらそれは雨滴で、足もとに散らばる桜の花びらたちを、次々と湿らして汚していく。コンクリートの蒸れたような匂いが強まり、鼻の先に雨滴が垂れ、同時にあなたへの怒りが行き場のない悲しみへと塗られていく。怒りよりも勝るものは、ほかでもない悲しみだということを、あなたは知っていますか? 濡れた画面を見つめながら、わたしは素早くメールを打ち、紙袋のなかにiPhoneを放った。
 ――どうして謝るのですか。吉原さん、おめでとうございます。
 意地悪な言葉にとられるかもしれない、という思いが過るのを制して、わたしは無感情に送信した。雨脚は強まり、鈍色の空から不穏な唸り声が上がる。駆け足で雨風を凌げる建物を探し、雨から逃れようと思ったけど、すぐに歩みを元に戻し雨に打たれた。雨から逃れようとすることが、無意味に思えた。

 ***

 あなたがこの世から去ったことを知ったのは、あなたの奥さんから届いたメールだった。彼女はあなたの端末から、わたしとのメールの履歴を読み、自らつくった誤解を確信した。彼女から送られてきたメールは、その日のうちに何十通にも及んだ。あなたが吉原を苦しめた、わたしがひとりで寂しい思いをしているときも、あなたは吉原に同情を寄せるようなことをして、わたしから吉原を奪った、あなたが吉原からもらった額はいくらなの? 被害者を装ったストーカー、吉原はあなたからの情を拒めなくて、この世からいなくなったの。吉原をあなたは返せる? これからの未来に吉原がしてくれていたはずのものを、あなたは生涯をかけてわたしに支払える?
 責め立てるメールの文面をすべて目に入れたくなくて、わたしはあなたのアカウントをブロックした。息をすることもままならなくて、わたしはトイレに駆け込み、便器にしがみついて、嗚咽しながら泣いた。内蔵に留まっているものすべてを吐き出したかった。でも、試しに喉に指を入れても、気持ち悪さが増しただけで、流れてくるのは唾液だけだった。そしてそんなときでも冷静に思った。今日が休日の朝で良かったと。
 外は音もなく雪が降り、朝食も何も取らずにしばらくの間、壁に背をもたれかけ、ベッドに座っていた。溢れでてくる涙は、彼女に対する恐怖心からなのか、あなたを失った悲しみのせいなのか、判別できなかった。意識も感情も混濁したなかで、排泄するように涙を流した。そうしないと、死んでしまうような気がした。死ぬことを、恐れてはいなかったはずなのに。
 わたしがメールを拒否したことを知った彼女は数日後、手紙を寄越した。ポストから厚めの封筒を取り出すと便せんに交じり、カッターの刃が入っていた。彼女の思惑通り、わたしは誤って指を切って、自分の赤い血が糸のように流れるのを見た。幼稚なやり方でしか、わたしへの非難を示せない彼女。そんな彼女とあなたが結婚をした理由を理解し、そこで初めてあなたの生き方が根本的に間違っていたことに気づいた。でも、その時点で気づいても、もう遅いのだ。間違いを選んだあなたはこの世界にいないのだから。
 でも、せめて彼女に説明をしたかった。

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